生き方を変えると人付き合いが楽に

生き方を変えるとは

真の自分らしさを見つける

生き方を変える事に必要なことは何か。

それは、自分の心を正面から見つめることである。

生き方を変えるとは自分の憎しみを意識することである。

そして「自分はなぜこんなに憎しみをもってしまったのか?」を本気で考えることである。

それが生き方を変える人付き合いの怖さの解消への道である。

生き方を変えるとなぜ自分はこんなにも憎しみをもってしまったのかと、心の底を見つめれば、そこに自分の依存心を見出すかもしれない。

あるいは自分の甘えに気がつくかもしれない。

あるいは、あまりにも周囲の人たちが冷たかったことに、気がつくかもしれない。

生き方を変えると自分がいかに酷くいじめられていたかということに、気がつくかもしれない。

そして今は、自分はヤドカリのようなものであることに、気がつくかもしれない。

あるいは「人のふんどしを借りて相撲をとる人」であることに、気がつくかもしれない。

生き方を変えると人の力を借りて自分が満足する方法を求めていることに、気がつくかもしれない。

生き方を変えることができない人は自らの力を頼って何かをする姿勢がない。

そうした自分のエネルギーがない。

生き方を変えることができない人は自分の力で自分の家をつくるエネルギーがない。

そうしたことに気がつくかもしれない。

ヤドカリは誰かの家を借りて、「この家狭いわねー」などと、「あーでもない、こーでもない」と文句をいっている。

騒いでいることで、自分は仕事をしていると思っている。

そして、その家をとってしまおうということである。

生き方を変えることができない人は自分の力で自分の家を建てようとはしない。

子どもでも生きるのが楽しい子は、率先して動いている。

ヤドカリではない。

生き方を変えることができる人は自分のエネルギーがある。

それに対してヤドカリのほうは努力をしたくない。

生き方を変えることができない人は率先して動かない。

しかし権力者には迎合する。

それに便乗して得をしようとしている。

何事も当たり前と思わないのがアドラーの主義の根本である。

自分の力に頼って生きることが基本である。

人に頼らない生き方を目指せば、人付き合いの怖さはなくなる。

生き方を変えることができる人は自分の心を正面から見つめることができれば、これから先自分はどう生きればいいかが自然とわかってくる。

しかし多くの生き方を変えることができない人たちは正面から自分と向き合わない。

生き方を変えることができない人は向き合うことから逃げる。

だから死ぬときに、人を恨んで死んでいくのである。

弱い心を受け入れる

また生き方を変えるとき自分の心の憎しみに気がついたら、人と対決しなければ問題は解決しない。

生き方を変えるとき、対決すべきはほとんどの場合、近い人である。

親との対決かもしれないし、配偶者との対決かもしれないし、自分が「親友」と思っている人との対決かもしれない。

「いじめは家庭から始まる」というように、だいたいのいじめというのは近い人との間で起きることである。

いじめる人は、身近な人をいじめるから心が癒されるのである。

だから逆にいうと生き方を変えるときには、身近な人と対決しなければならない。

しかし人付き合いが怖くなるような人は、対決をしない。

そのエネルギーを使わない。

生き方を変えることができない人は嫌いな人にさえ「いい人」と思ってもらいたい。

生き方を変えることができない人は嫌いな人にすら迎合する。

そして人付き合いが怖くなっても、いまだ生き方をかえようとしない。

人付き合いが怖い人は「いい人」と思ってもらいたいが、「いい人」になる努力はしない。

あくまでも「いい人」と思ってもらうことが大切で、「いい人」になることが大切ではない。

では「本当にいい人」とはどういう人であろうか。

それは憎しみが解消されている人である。

生き方を変えることができない人は心の底に憎しみがある限り、「いい人」にはなれない。

生き方を変えることができない人は心の底に憎しみがあって、「いい人」になろうとすることは、手足を縛られて泳ごうとするようなものである。

生き方を変えることができない人はどんなに「いい人」を演じても、心に憎しみがある限り、相手に安らぎを与えることはない。

生き方を変えることができない自分の本心を抑えて無理に立派な行動をする人が、みなに好かれるわけがない。

みなに好かれる人は、心に憎しみのない、生き方を変えることができる人である。

等身大の自分だからうまくいく

人付き合いが怖い人ばかりでなく一般に悩んでいる生き方を変えることができない人は、他人によく思ってもらおうとしている。

生き方を変えることができない人は他人の好意を失うのが怖い。

だからいつも受け身で、他人の幸せを願うなどという心のゆとりは、どこにもない。

そんな人にとって、「他人の幸せを願うことができれば人が怖いから解消される」

つまり人が怖くなるような生き方を変えることができない人に、「自分の自己執着がいかに強いか気がつけ」ということである。

シーベリーは、「失敗の最大の原因は自己不信、自己非難、自意識過剰です。

その次は、自分ではない自分になろうと努力すること、自分が決してなり得ないものになろうと悪戦苦闘することです」という。

生き方を変えることができない人は自分ではない自分になろうと努力しているから、頑張っても年を経るにしたがって人付き合いは怖くなるばかりだし、いよいよ他人の幸せを願うことができなくなる。

しかし人付き合いが怖くなるような生き方を変えることができない人は、もともと他人の幸せを願うことができない人間であったのではなく、自分ではない自分になろうとしたから、そういう人間になってしまったのである。

「家畜番の犬を猟犬にすることはできないし、猟犬に家畜の番をさせようとしても無理です」という。

人付き合いが怖くなるような生き方を変えることができない人は、その無理をしたに過ぎない。

人付き合いが怖くなった人も、もともと猟犬で、自分が猟犬になろうとすれば、エネルギッシュでいられたであろう。

家畜の番をさせられたから人付き合いが怖くなったに過ぎない。

人が怖い生き方を変えることができない人は重荷を背負っているつもりであるが、じつは人が怖くなった人の存在は”むしけら”のようなものだった。

それに気がつくことが第一である。

人付き合いが怖い生き方を変えることができない人は自分の本性に反することを自分の義務と感じた。

生き方を変えることができない人は「~しなければ」という規範意識と、「~したくない」という気持ちとがぶつかり合って身動きできないのである。

怠け者は、これをしなければいけないという規範意識はない。

単にしたいという気持ちがないから、しないだけである。

自己犠牲は依存心の反対側

人付き合いが怖い人は、次のように考えたらよいのではないか。

「誰かにそうだといわれただけでは、何事も義務とはなり得ません」。

そう思ってしまったのは、言った人に心理的に依存していたからである。

言った人を恐れていたからである。

生き方を変えることができない人は不必要な規範意識の重荷で人が怖くなる。

人付き合いが怖くなった生き方を変えることができない人は、自分は他人のために犠牲になったと思っている。

生き方を変えることができない人は他人のために耐えたと思っている。

生き方を変えることができない人は自分の幸せを犠牲にして、他人のために耐えた立派な人だと思っている。

しかし人付き合いが怖い人が背負う犠牲は、不必要な犠牲でしかなかった。

そしてフロム・ライヒマンがいうように、自己犠牲的献身は強度の依存性の表われである。

人付き合いが怖くなった生き方を変えることができない人が思っていた「他人の為の犠牲」は不必要な犠牲である。

それと同時に、その原因は依存心である。

あるいは恐怖心である。

人付き合いが怖くなった人たちがいう「自己犠牲」は望ましいものではなく、逆に望ましくないものにしか過ぎない。

シーベリーにいわせれば、それは他人を食い物にするものだという。

「いつの日かわれわれは、よくあるあの自己犠牲とは、他人を食い物にする生き方の第一歩であると気づくでしょう」。

人付き合いが怖くなった生き方を変えることができない人は、今まで自分のしてきたことは立派だと思っていたかもしれないが、うつ病になったという事実と正面から向き合えば、残念ながらそうではない。

「あー、そうだったのか」と、そのことに気がつくだけでも、ずいぶん気持ちが楽になる。

生き方を変えると回復に向かって前進もする。

このような真実に気がついていくことが、呪縛から解放される過程である。

生き方を変えると生きるのが楽になる

心のゆとりとお金のゆとり

たとえば養育者が神経質的プライドの強い人なら、まず子どもの幸せなど考えているはずがない。

生き方を変えることができない心のゆとりがなければ、人のことなど考えられない。

自分が育つ過程で自分の周りにいた人は、心のゆとりがある人だったかどうかを一度真剣に考えてみることである。

ここでいっているのは、あくまでも心のゆとりであって、お金のゆとりではない。

経済的に豊かでも、心のゆとりのない生き方を変えることができない人はあまりにも多い。

むしろ経済的に豊かな人のほうが、心のゆとりのない生き方を変えることができない人が多い。

もし今自分が人が怖いなら、自分の周りにいた人は、その人自身のことで精一杯ではなかったか。

つまり生き方を変えることができない人はイライラしたり、急に得意になったり、突然不機嫌になったり、いつも虚勢を張っていたり、傷つきやすくてつねに心が動揺していたのではないか。

生き方を変えることができない人は寂しさを隠すために友達が多いフリをしたり、自信がないから人を軽蔑してみたり、偉い人には卑屈に迎合したり、思いやりとかやさしさがなかったのではないか。

そんな人が、他人の幸せを考えるゆとりなどあるはずがない。

つまり人が怖くなるような生き方を変えることができない人は、「私は誰からも、私の幸せを考えてもらったことはない」と、はっきりと自覚することである。

そうすれば「~すべき」という心の重荷がおりるに違いない。

負い目と怖さの関係

ところで、なぜ人が怖い、生き方を変えることができない人の病前性格といわれる人々は、規範意識が過剰なのか。

それは、そうした非現実的なほど高い期待をかけた人々が、恩着せがましい人々だったからである。

恩を着せられた側は負い目をもつ。

メランコリー親和型の特徴のひとつは「負い目がある」ということであるが、メランコリー親和型に限らず人が怖くなるような生き方を変えることができない人は、何となく負い目がある。

規範意識が過剰だったり、負い目があったりと、人が怖くなるような生き方を変えることができない人は、つねに人に圧倒されている。

だから人に接するときに自信がない。

そして低い自己評価に苦しんだのである。

人付き合いが怖くなるような生き方を変えることができない人は、もちろん自己執着の強い人である。

自己執着が強いから、他人のことなど真剣に考える心のゆとりなどない。

自己執着の強い生き方を変えることができない人は、自分、自分、自分・・・。どこまでいっても自分である。

生き方を変えることができない人は自分のことで精一杯。

生き方を変えることができない人は相手の幸せを真剣に考えることなどできない。

つまり人付き合いが怖くなるような人自身も、周囲の人の幸せを考える心のゆとりはない。

相手にも他人の幸せを考える心のゆとりはない。

お互いに相手の幸せを考える心のゆとりはない。

人付き合いが怖くなるような生き方を変えることができない人は、そうした世界に住んでいたのである。

お互いに自分のことだけに執着して生きてきたのである。

生き方を変えることができない人は小さい頃から心に手錠をかけられていた。

生き方を変えることができない人は心はつねに牢獄に入っていた。

生き方を変えることができない人は牢獄に入っているということすらわからないで、牢獄の中で生きていた。

生き方を変えることができない人は手錠をかけられているのに、手錠をかけられていないと思っていた。

生き方を変えることができない人は「これが正常だ」と思っていた。

生き方を変えることができない人は長く牢獄に入れられているうちに、生きるエネルギーを失ってしまった。

人が怖くなった人が、生き方を変えるためには、今自分が無気力な中で、自分が牢獄にいるということを必死で想像することである。

そして牢獄にいる自分を想像して「そういうことだったのか」とわかれば、いつか回復する。

自分の生き方が見えない限り、人への怖さは解消されない。

生き方を変えることができない人は自分の欲求とは関係のないことを必死で続けて、疲れ果てて人が怖くなる。

ゴムが伸びきった状態で頑張って、頑張って、ついにゴムが切れた。

人が怖いの解消は、ため息をつきながら、自分の歴史を振り返ることから始める。

関連記事

生き方を変えるコツはありのままの自分で接する

ありのままの自分に気がつく

「ありのままの自分」に気がつく以外に、生き方を変えることはできないだろう。

「ありのままの自分」「本来の自分」に気がつかないで薬で治しても、入退院を繰り返すだけである。

生き方を変えるにはどこまでがありのままの自分で、どこからがつくられた自分なのかをはっきりさせる。

ありのままの自分に気がつくということは、周囲にいた人たちのありのままの姿に気がつくということでもある。

嫌いな母親を「大好きです」といっている限り、人が怖いは治らない。

世の中の人がみんな嫌いなのに、「みんな、大好き」といっている限り、人付き合いが怖いは治らない。

自分が立派な人間などではないということが心底わかる以外に、生き方を変えることはできない。

「私は罪深い」などという逃げた姿勢に固執する限り、生き方を変えることができない。

「私は罪深い」のではなく、「私は幼稚で依存心が強いだけです」ということである。

生き方を変えるにはまず、自分の今までの人生は偽りの人生だったと認める。

生き方を変えるには過去の人生を冷静に回顧する。

さらに生き方を変えるには自分の周囲の人を冷静に分析する。

そして自分が操り人形だったと理解する。

お母さんとの関係はどうだったか。

生き方を変えることができない人は鉛筆を削りたくないのに削らされた。

テーブルを拭きたくないのに、拭かされた。

生き方を変えることができない人は宿題をしたくないのにさせられた。

そういう子は、宿題を忘れてきた子を許せない。

新入社員が、認められようと朝早く出社している。

誉められようとして、無理をして朝早く出社しているから、遅刻する別の新入社員を許せない。

自分が楽しく通勤していれば、許す。

生き方を変えることができない人は誉められようとしているから、無理をしているから。

宴会に行きたくない会社員。

それなのに我慢して宴会に来た。

そうなると宴会に来ない同僚は許せない。

楽しく行っていれば、来ない人を許す。

いつもやりたくないことを強引にやらされていた生き方を変えることができない人は、憎しみと怒りがある。

すると社会の規範を守らない人を許せない。

生き方を変えることができない人は秩序を乱す人を許せない。

正論を盾にして、くやしいことをぶつけている。

それは憎しみと怒りが正論に変装して現われてきた姿である。

憎しみはあまりにも変装がうまいので、人はそれが憎しみの変装とは気がつかない。

最後には、「あれはあれでよかった」と自分の過去を肯定する。

自分自身に素直に生きる

人付き合いが怖くなるような生き方を変えることができない人は、自分の感情が振り回されている。

たとえば親は劣等感から人間嫌い。

自分は親から嫌われている。

生き方を変えることができない人はそれを「親から好かれていると思え」と強制されている。

そして親への恐怖感から「私は親に好かれている」と思う。

これでコミュニケーション能力がなくなる。

生き方を変えることができない人は実際は幼稚なのに、長いこと立派な人を演じすぎた。

生き方を変えることができない人はその努力で、疲れた。

生き方を変えることができない人は普通の人よりも情緒的に未成熟なのに、普通の人よりも立派な人を演じて疲れてしまったというのが実体であろう。

生き方を変えることができない人はとにかく自分と違う自分を演じ続けて、身も心も疲れ果てた。

生き方を変えることができない人はもうエネルギーが残っていない。

まさにエネルギーが枯渇したのである。

生き方を変えることができない人は自己疎外の自己不在

生き方を変えるにはそうした自己分析を通して、自分を理解する。

そうすれば趣味をもつことができるようになるかもしれない。

趣味をもてる人間になることも可能である。

それは生き方を変えた自己疎外された人間でなくなること。

興味と関心をもてる人間になること。

生き方を変えると苦しみを通して人類共同体に帰属意識をもてるようになる。

生き方を変えると人の幸せを祈れる人間になる。

それは憎しみが解消しているということである。

このように愛されなかった結果、人はどうなるか。

「自分の問題だけれども、人が解決してくれることを望む」。

「心配」は「幸せ」を運んでこない

シーベリーは、家族が自分から離れていくのではないかという心配ばかりしている夫人について書いている。

「そんなことで心を乱されいるくせに、家を幸せな場所にしようという努力はしないのです。

自分が、子どもたちがいたがるような幸せな場所にしていないという事実には、目を背けているのです」。

「自分が、子どもたちがいたがるような幸せな場所」に家を変える努力をすれば、人付き合いの怖さから解消される。

残念ながら、これは簡単なようでなかなかできない。

それはその生き方を変えることができない人に能動的な関心がなければ、そのような努力をできないからである。

できないばかりではなく、そのような努力をしていないということにさえ気がつかないからである。

人付き合いが怖くなるような生き方を変えることができない人は、自分が他人から「してもらいたい」のである。

ある女性は小さなことでも次々質問するが、答えの内容に注意を払っていないようである。

何でもいいから「答えてもらうこと」が必要なのである。

要するに、生き方を変えることができない人は、かまわれたいということである。

小さい頃から十分にかまわれていない。

かまわれたいという欲求が満たされていない。

おそらく生き方を変えることができない人は「よい子」だったからであろう。

重症になると、生き方を変えることができない人は自分のことをすべてしてくれる人を望むようになる。

自分は何もしないで、自分のためにすべてのことを相手に求める。

これは人が怖い人ばかりでなく、一般に深刻に悩んでいる人の相談で感じることである。

人が怖い生き方を変えることができない人は相談に乗った人に「あなたは私を助けなければなりません」と思う。

自分は何もしないで、相手が自分のためにすべてしてくれることを要求する。

いわんや市民と市民の間では、ひと度相談に乗ったらもう相談を終えることがほとんど不可能に近いといってもよい。

そこら辺のことが、そうした悩みを相談された体験のない人には理解できないところである。

人付き合いが怖い生き方を変えることができない人は、自分が問題を抱えていても、それを解決しようとは思わない。

生き方を変えることができない人は解決するというような積極的な動機がまったくない。

辛い、死にたいは心のSOS

人が怖い生き方を変えることができない人は「死にたい」という。

なぜ「死にたい」という言葉を使うか?

それは甘えているから。

生き方を変えることができない人は「死にたい」という言葉で脅している。

その言葉で「お願いだから、私の道を開いて」と訴えている。

「この道を行きなさい」といってくれれば、その道を行ける。

人が怖い生き方を変えることができない人の「死にたい」は「助けてくれ」という意味である。

「人が怖い人の動機の際だった特徴は、退行的性質である」。

これは同時に逆からいえば、「積極的動機がないことが、人が怖い生き方を変えることができない人の際だった特徴である」。

このことは、人付き合いが怖くなるような生き方を変えることができない人の、「いかに私は苦しいか」ということを延々と嘆いているだけで現実によくなるための行動を決して起こそうとしない様子を見ればわかる。

自分が人付き合いが怖いから解消しようとすることさえしない人は、人のことを考えられない。

それが人付き合いが怖い生き方を変えることができない人の特徴なのである。

だから人のことを考えて、それを現実に実行できるときには、すでに人付き合いが怖いから解消されている。

人が怖い生き方を変えることができない人は相手のいうことを聞こうという意志がないから、なかなか治らない。

意志もないけど素直さもない。

生き方を変えることができない人は素直さがないのは無意識に怒りがあるからである。

相手を罠にかけている。

たとえば生き方を変えることができない人は同情を引こうとしたり、色々とする。

要するに「私はつらい」といって、すねているのである。

生き方を変えることができない人はすねているのは愛を求めているからである。

人付き合いが怖い人がすねていることを非難しているのではない。

愛されなかったのはその人の責任ではない。

「人が怖くないあなたに、私の人が怖いつらさなんかわからない」と、人が怖い人はよくいう。

本当にそう思っているなら、そういって相手に絡んだりはしない。

さっさと離れていく。

人付き合いが怖い生き方を変えることができない人は「わからない」といっているのではなく、「わかってくれ」という意味を強調して「わからない」といっている。

助けを求めているのだけれども、「助けて」といえない。

自分が、相手に「助けて」と頼まないで、相手のほうから助けてもらいたい。

人は、自己憎悪がなければ相手のいうことを素直に聞ける。

受け身の姿勢が強い場合には、生き方を変えることができない人は願望はもつけれども、それを実現するための努力はしない。

誰かが実現してくれるのを生き方を変えることができない人は待つ。

受け身の姿勢が強い場合には、生き方を変えることができない人は願望はもつけれども、それを実現するための努力はしない。

誰かが実現してくれるのを生き方を変えることができない人は待つ。

受け身の願望、退行願望等々といわれる願望が強いときには、生き方を変えることができない人は「まず不満になる」。

自分が「こうしよう」ということではなく、こうしてくれないという不満である。

人付き合いが怖いを解消するにはエネルギーの方向が大切

人生が楽しくないのは、生き方を変えることができないといった問題を解決する意志がないからである。

生きがいとは積み重ねである。

一つひとつの問題を解決することで、人生に意味が出てくる。

ところが、人付き合いが怖い生き方を変えることができない人は問題を解決することにエネルギーが向かないで、「つらい、つらい」と騒ぐことにエネルギーが向いてしまう。

生き方を変えることができない人の性格である執着性格者は、何十年経っても同じことをいっている。

努力しなくて幸せになることを考えているからである。

もうひとつ、「解決する意志がない」例を考える。

生き方を変えることができない人は「私は太っているから不幸」という。

しかし解決の意志はない。

「私は不幸」と口に出すのは、「私は悪くない」ということである。

「悪いのは周りの人」という意味である。

「私は不幸」という言葉に隠されたメッセージは、「私の不幸はあなたの責任だから、どうにかして」ということである。

生き方を変えることができない人は「私は不幸」という言葉で相手に絡んでいるのである。

相手を間接的に攻撃している。

生き方を変えることができない人は相手に「こんなつらい私に、あなたは罪の意識をもって」ということである。

私が不愉快なのは相手が悪いと思っているから、いつまでも不満は解消しない。

本人には何を責任転嫁しているのか自覚がないが、つねに何かを人のせいにする。

生き方を変えることができない人は「苦しい」と訴えても、解決しない。

それは自分が「はいあがろう」とする意志がないからである。

生き方を変えることができない人は相手のいうことを聞こうという意志がないからである。

素直さがないからである。

「私は不幸」と口に出すのは、先に述べたように、相手を罠にかけているようなものである。

「大切なことは人の役に立つことと、頼まれないことはしないこと」。

人に頼らない生き方を目指せば、人付き合いの怖さから解放される。

何事も当たり前と思わないのが、アドラーの主義の根本である。

生き方を変えるといった自分の力に頼って生きることが基本である。

シーベリーの主張は同じである。

「本人が自分の苦しみを越えようとしていない限り、どんな人の苦しみも取り去ってはやれないのです」。

人生は乗り越えるためにある。