考えすぎる性格の人が失敗しようが挫折しようがぐらつかない「自信」とは?
考えすぎて良い結論が出るケースは実は少ない。
考えすぎる人は自信がない。
考えすぎない自信がある人は、すぐに行動に移れる。
そこで考えすぎる性格の人が自信をもつための心理を人間関係を軸に述べてみたい。
考えすぎる性格とは
考えすぎる性格の心理として、
人を恨んで生きることの代償はあまりにも大きい。
W・B・ウルフという人の『どうしたら幸福になれるか(下)』という本に次の例がでている。
子どもの頃考えすぎる性格のQさんは、ひどく背が低かったという。
子どもごころに、考えすぎる性格の自分は他の人たちのように背が高くならないのかもしれないと思ってしまった。
彼は劣等感をもった。
少年時代の大部分を考えすぎる性格の自分と友達の背の高さくらべで過ごした。
ある晴れた日に、一人の少年が、彼に竹馬に乗ることを教えてくれた。
彼はそれで考えすぎる性格の自分の劣等感を補償し、事実他人を上から見下ろすこともできるようになった。
少年時代を過ぎても、彼は竹馬を使うことをやめなかった
彼はそれほど背が低くはなくなっていたけれど、自尊心のために竹馬を使い続けた
いつの間にか竹馬は、彼の人生の不可欠の部分となってしまった。
竹馬は彼の安定と優越の象徴であった。
ところが時々彼は不便なことがあった。
竹馬に乗っていると彼は地下鉄に乗れない。
代わりに彼は高いお金を払ってタクシーに乗らなければならない。
エレベーターにも乗れない時がある
いくつかの大変興味のある仕事は、考えすぎる性格のQさんをしめだした。
その仕事の邪魔に彼の竹馬がなったからだ。
結婚してもいいと思う女性にも出会ったが、女性が竹馬に乗っている彼と結婚するのは嫌だと言った。
しかし竹馬から降りれば、彼は昔の劣等感におそわれる。
以上のような寓話がウルフの本にでていた。
恨みとか甘えや考えすぎる性格というのは、この竹馬のようなものであろう。
恨んでいる限り、一時的ながら、自分の自尊の感情は保てる
そのために、どれだけ多くのものを考えすぎる性格の人は失わねばならないのだろうか。
恨み続けることで、いつまでも考えすぎる性格の自分の中に受け身の姿勢や甘えを保持し続けることになるのである。
自分のことは自分で守ろう、と本気で思った時、自信が生まれてくる。
失敗しようが挫折しようがそんなことで自信はぐらつくものではない。
そうなれば、ものごとに挑戦するようにもなるし、人と競争をするようにもなる。
甘えの代償は不安と不満である。
他人に気に入られるように行動する考えすぎる性格の人は、相手が自分を守ってくれると錯覚しているところがある。
追従者はつねに相手が自分の望むところにつれていってくれることを期待するものである
しかし、これは大変な誤りである。
他人が自分を守ってくれると考えすぎる性格の人は思って、他人に同調しても、自分がより自信を失うだけである。
自信は、自分で自分を守ろうとする姿勢から生まれてくるものである。
他人に気に入られるように考えすぎる性格の人は行動しながら、相手が自分を守ってくれることを期待するのは、格言にある”木に縁りて魚を求む”るようなものである。
魚をとりたいと思えば、川か海に行くしかない。
どんなに苦労して木によじ登ってみたところで魚はいない。
自分で考えすぎる性格の自分を守ろうとすることで、自信を求める者は、”水に縁りて魚を求む”る者であろう。
考えすぎる性格の人は「ウソ」と「虚勢」で人生を支えることはできない
”木に縁りて魚を求む”ということを言ったが、このようなことをやっていると、努力しながらも、いよいよ自信をなくしていくことになる
自信をもとうとすればするほど考えすぎる性格の人は自信を失っていくということがある。
自信はある生活の結果としてでてくるのである。
自信をもとうとするより、考えすぎる性格の人は自信をもてるような生活の仕方をすることである。
あまりお金もないのに、虚栄心から無理して高い服を買う。
それでいて、自信をもとうとしても無理である。
それで自信をもとうとすれば、考えすぎる性格の人はちょうど、あることを忘れよう忘れようとすればするほど忘れられないように、自信をもつことはできない。
自信をもとうと考えすぎる性格の人は懸命になってあがいている限り、自信は持てない。
むしろ逆に、自分は自信のないままで当分生きていこうと考えることである。
つまりは、自信のない自分を受け入れるのである
自信のある人は無理して高い洋服を買おうなどとはしないだろう。
”須弥山と丈競べ”という格言がある。
須弥山とは、仏教で世界の中心にある山とされている。
その高い山と自分の背丈をくらべるということである。
自信のない考えすぎる性格の人が虚勢を張って、自信のある人と張り合っているのは、須弥山と丈競べをするようなものである。
そもそも自信のある人は、他人と張り合わない。
ところが自信がないと、考えすぎる性格の人はすぐに他人と自分を比較し張り合う。
ある自信喪失している考えすぎる性格の人は「皆を見ていると、自信のないまねやっているよ」と言った。
この人は嘘と虚勢だけで生きているような人である。
彼がしきりに「他の奴らは自信のないまねばかりして」と考えすぎる性格の人が言うのは、自分は自信があるのだ、という確証を得たいのである。
自分の行動と他人の行動とをくらべながら、何とかして、自分は自信があるという証拠を見つけようとしている
考えすぎる性格の人は、そこで他人の行動の中に何らかの自信喪失の様子を見ようとする。
そして、ほら見ろ、オレのほうが自信がある、と思おうとする。
彼は自信喪失の自分を受け入れず、ひたすら、そうでないと確信しようとして闘っている。
現実の自分とちがった自分を考えすぎる性格の自分に信じ込ませようとしても、いよいよ不快感はつのるばかりである。
ちょうど不快感から逃れて、考えすぎる性格の人はくつろごう、くつろごうと懸命に努力しても、いよいよ緊張して不快感が増すばかりになるのと同じである。
「皆を見ていると、自信のないまねやっているよ」などとむきになって言わずに、考えすぎる性格の人は自分は自信がないのだと、現実の自分と正面からむきあうことである。
現実の自分を受け入れさえすれば、ではどうしたらよいのか、ということがわかってくる。
考えすぎる性格の人は必死にもがくだけでは、「自信」は生まれてこない
現実の自分から逃げずに直面することができれば、今までの生活をどう変えればよいのかわかってくる
今まで考えすぎる性格の人は自分を実際以上に見せようとして、他人にむかってウソをついていたが、これからは事実をしゃべろう、というような勇気もまたでてくる。
現実の自分を受け入れない限り、生活を変える勇気は湧いてこない。
事実を受け入れることによって、勇気が湧いてくる。
よく、考えすぎる性格の自分には何々をする勇気がない、ということを言う人がいる。
自分に関する事実を受け入れることを拒否しているのである
だから考えすぎる性格の人は勇気が湧いてこないのである。
自分に関する事実を受け入れた時、今までの生活の空しさを感じる。
その時、他人にむかって考えすぎる性格の人は虚像としての自分を認めさせようと努力し、たとえ認めさせても、それは自分の自信にむすびついていないのだということがわかる。
それは考えすぎる性格の自分に関する事実を受け入れた時、不快な精神的緊張から解放されるからである。
私たちは、ありのままの自分を他人に受け入れてもらって自信がつくのである
考えすぎる性格の人は他人から、どんなに高く評価してもらっても、それが自分についての事実でない限り、自信がつくものではない。
中には考えすぎる性格の自分は自信がないが、かといって「皆を見ていると、自信のないまねやっているよ」などとものすごい口は一回もきいたことがないと言う人もいるかもしれない。
自分は周囲の人が自信ありげに動いているように見えて仕方がないと、逆のことを言う人もいるかもしれない。
しかしこの二つは同じようなものなのである。
「皆を見ていると、自信のないまねやっているよ」と言う考えすぎる性格の人も、心の底では他人が自信ありげに見えてうらやましいのである。
ただ勝ち気だから、どうしてもそれを認められないのである。
皆が自信ありげでうらやましいと認めながらも、考えすぎる性格の自分に自信が湧いてこないというのは、自己憐憫をしているからである。
自己憐憫というのは、歪んだ自尊心と同じなのである。
一方は自尊心、他方は自己憐憫、いずれも考えすぎる性格の人は正面から自分とむきあっていない。
当然のことながら、自己憐憫からは自信は生まれない
自分を憐れんで考えすぎる性格の人を悲劇の主人公にしてしまっては、いつまでたっても自信は得られない。
自信というのは、自分の外面的な何かが変わってでてくるものではない。
自信は、外面的にはまったく同じであっても、考えすぎる性格の自分の生活態度や生活への考え方が変わってでてくるものである。
A企業からB企業に考えすぎる性格の自分が転職したから自信がついたとか、自信を失ったとかいうものではない。
給料が二倍になったから自信が二倍になるというものではない。
給料は同じであっても、お金に対する考えすぎる性格の自分の内からの考え方が変わることで自信がつくのである。
同額のお金を、他人に見せるために使おうとするか、自分が生活を楽しむために使おうとするかによって自信が得られたり、なくなったりするのである。
お金にむかう自分の態度や考え方によって自信は生まれたり、なくなったりする
自分が同じ企業にいても、上役にありのままの考えすぎる性格の自分の姿を見てもらおうとするか、
実際以上に見てもらおうとするかによって考えすぎる性格の人は自信は生まれてもくるし、今まで同様自信の欠如に苦しみもする。
自分の現実を回避しようとするか、真正面から受け入れるか、ということで自信は左右される。
就職先が変わることが自信の増減に影響するのではなく、就職についての考えすぎる性格の自分の側の考え方と態度が変わることによって自然と自信がついてくるのである。
したがって、「皆を見ていると、自信のないまねやっているよ」などと考えすぎる性格の人はむきになってみたからといって、自信がつくわけではない。
何が自分にふさわしいかは難しいだろうが、結局は自分にふさわしい生活をすることが自信につながるのである。
考えすぎる性格の人はもう”自分以外の人間”を演じるのはやめよう
自分自身であろうとすればいいのである
”猿の水練、魚の木登り”という格言がある。
猿は木登りがうまいし、また木に登るようにできている。
魚は水の中でおよいでいればいいのである。
しかし時に、これと逆のことをやろうとする。
自分に肯定感が持てない考えすぎる性格の人は、猿が泳ぐ練習をしている、魚が木に登ろうとしているようなまねをしているのである。
猿は木に登ればよく、魚は水の中でおよげばよいのである。
自分自身であろうとすればいいということは、本来の自分の姿を偽って生活していて、「オレはオレだ」と居なおることではない
猿が泳いで、これでいいということではない。
「オレはオレだ」と考えすぎる性格の人がいうことは、自分の劣等感をねじ伏せるための言葉ではない。
自分自身であろうとすればいい、と考えすぎる性格の自分に絶望した人間が主張しても意味はない。
自分に希望をもっている人間が主張してはじめて意味を持つ。
自分の父親が政治家であるのに反発して、学者になって、「オレはオレだ」などと言っても無意味である。
父親が政治家だろうが、商売人であろうが、芸能人であろうが、そんなこととは関係なく、考えすぎる性格の自分は何にむいているか、と自分の人生をえらぶ時、自分が自分自身になろうとしている、ということである。
自信のない人は、自分自身であることを拒否しつづけてきた人である
他人と自分にむかって、自分以外の人間を演じ続けてきた考えすぎる性格の人は自信を持てない。
自分とは異質な人間を演じつつ、考えすぎる性格の人が自信をもとうと努力することは、何度も言うように、くつろごう、くつろごうと奮闘努力しているようなものである。
なぜ、自分以外の人間を自分が演じ続けてきたか?
それは恐怖心と自分への無価値感であろう。
本当の考えすぎる性格の自分には価値がない、そしてその価値のない自分では周囲の人間に叱られる、それが恐かったのではないか。
本当は考えすぎる性格の自分は父親の手伝いをして草取りなどしたくはなかった。
しかし、すすんで草取りを手伝う子どもでないと、父親はものすごい渋い顔をした。
そのしかめっ面が恐くて、過剰適応してよい子を演じつづけた
考えすぎる性格の人はそのような日常の積み重ねとして、自信を失ったのではないか。
ただの一度として考えすぎる性格の人は、実際の自分であることを自分にも他人にも示さなかったのであるから。
あるいは逆に、親は自分のすることを先回りして、みんなやってくれてしまった。
自分は考えすぎる性格の自分のやることをとおして自分自身になっていく機会を奪われていた。
いずれにしろ、本当の考えすぎる性格の自分を抑圧し、自分以外の人間を自分と他人にむかって演じ続けてきたのである。
これで自信がもてるはずがない。
大切なのは、実際の考えすぎる性格の自分の価値を信じることである。
心理学で”転移”という概念がある
考えすぎる性格の人が自信をもつためには、この概念を理解する必要がある。
親は、子どもが勉強できないと、その子をだめな人間扱いした。
だが、よい大学に合格すると立派だと言った。
そんな親に育てられて大人になったとする。
そして、いろいろな人と接するようになる。
すると、人は自分のこれから接する人も、親と同じように考えすぎる性格の自分を扱うと期待する。
自分の成績がわるければ人々に尊敬してもらえない、考えすぎる性格の自分が会社で順調でなければ女性は恋してくれない、などなど。
自分の親と、自分が世の中にでて接する人はちがう。
自分の親は、考えすぎる性格の自分が親にとって何かの役に立たなければにこやかに受け入れてくれなかったとしても、新しく接した人は、自分が相手に役立たなくても、自分を受け入れてくれるかもしれない。
ところが、どうしても、考えすぎる性格の人は親が自分を扱ったようにその人も自分を扱うと思ってしまう。
親が自分に期待したことと同じことを、その人も自分に期待すると錯覚してしまう
母親は、セックスの話をすると激しく自分を拒絶した。
すると女性に好かれるためには、一切そのようなことに関心がないように振舞う。
実際の自分の価値を信じられない人は、この転移のためである。
親が実際の考えすぎる性格の自分を受け入れてくれなかったから、他人もまた実際の自分を受け入れてくれないと錯覚してしまったのだ。
自信のない考えすぎる性格の人は、実際の自分を受け入れてくれるような人のところに行けばよいのである。
実際の自分を否定するような人の間にばかり身を置いているから、自分の無価値感に悩むのである。
そのような人の中で考えすぎる性格の自分の肯定感を求めるのは、まさに”木に縁りて魚を求む”という感じである。
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やたら悩む考えすぎる性格の人の根本的なまちがい
自分が自分を最もよく知ること、自分についての事実を知ることで、私たちは自信をもてるのである
考えすぎる性格の人はそのためには、さまざまなことに挑戦し、さまざまな行動をし、失敗し、成功しなければならないだろう。
いろいろな行動をしていれば、考えすぎる性格の人は挫折もある。
しかし、挫折して自信をなくすということはけっしてない。
挫折して、その挫折を考えすぎる性格の自分が受け入れない時に自信を喪失するのである。
私たちは失敗することで自分についての事実を知ることになるのだから、より自信をもっていいのである
考え方の根本的まちがいは何か。
失敗することが考えすぎる性格の自分の劣等感を深化させると考えていることである。
逆に言えば、考えすぎる性格の人は成功は自分に自信をもたらすと錯覚していることである。
ではどのような挫折を受け入れられないのであろうか。
一口で言えば、受け身ではじめたことで挫折した時である。
甘えた気持ちで事をはじめた時である
考えすぎる性格の人は自分で自分を守ろうという基本姿勢も、戦う姿勢もないまま、他人の力を頼りに何かをはじめた時には、挫折して傷つき、その挫折を受け入れることができない。
株が暴落すると、主婦の自殺の記事がよく新聞にでる。
あるいは自分に株を売った証券会社の家の人に一年も二年もいやがらせの電話をかけて、つかまったりする記事がでる。
なぜ、こうなるのであろうか。
もちろん、適当なことを言って株を売りつける証券会社に問題がないなどというのではない。
証券会社に入社した者はずいぶん辞めていく。
理由は、損するとわかっている株を「もうかります」と嘘をついて売らなければならないからだという。
だまして損をさせて心が痛むようであったら、どうしても証券会社はつとまらないと辞めた人からよく聞く。
しかし、ここではあえて証券会社のほうではなく、いやがらせの電話をする主婦に焦点をあてたい。
たしかに、証券会社に損をするとわかっている株を、その主婦は「儲かります」と言われて売りつけられた。
しかし、その主婦は、それがはたして本当であるかどうか、自分で調べようとしたであろうか。
十円安いものを買うために遠い店に行った時間のことを考えると、この主婦の行動には甘えがあるとしか思えない。
株を買えるだけのお金をためるのに、その主婦が使った時間はいったいどのくらいであろうか。
その百分の一の時間でもいいから、その調査に使っていたら、そんな損はしなかったはずである。
ちょっと調べれば、証券会社の人の言う通りに株を売買してもうけた人の例などほとんどないことぐらいは、わかるであろう。
それは証券会社とお客さんとの戦いなのである。
言ってみれば、その主婦は戦いに負けたのである。
その主婦は自分の判断で買ったのではない。
証券会社の人のすすめで買ったのである。
だからこそ、損をした時、あきらめきれず、その証券会社の人を恨み、夜中にいやがらせの電話をするのであろう。
自分が調べ、自分が判断して買ったもので損をしても、その人は他人を恨んだりすることはない
その人は困るかもしれないが、あきらめきれないということもない。
大学の入学試験で不合格になって自殺する例も同じである。
その人がその人の判断にもとづいて、ある大学を受験し、そして不合格になったとしても、自殺はしないのではなかろうか。
自殺した人は、親からすすめられて、周囲の眼に動かされて、その大学を受けたから不合格になって自殺したのであろう。
自分を知ろう、よりよく考えすぎる性格の自分の事実をつかもうとして大学を受けたとすれば、不合格になっても、合格になっても、自信はついているはずなのである。
社会人になってからの失敗によるノイローゼなども同じである
その考えすぎる性格の人が野望に燃えて、ある事業に自分の判断でとりくみはじめたとしよう。
そしてもし失敗しても、その人は、自信喪失することはないにちがいない。
ところが人は他人にすすめられて、受け身の姿勢で、ある事業をはじめて失敗すれば、考えすぎる性格の人は人を恨み、自信喪失するのである。
失敗しながらも、考えすぎる性格の人はその失敗をいつまでも受け入れられないのである。
だからこそ、自分は失敗させられたと解釈し、人を恨む。
人を恨む人は、いつまでも恨んでいる
人を恨むのは考えすぎる性格の人の失敗についての一時的な言い訳であり、甘えの期待が裏切られたからである。
言い訳は一時的な効果しかもたないので、いつも恨んでいないと自分の自我の価値を維持できないのである。
失敗を受け入れるということは根本的な解決であるが、考えすぎる性格の人が恨んでいるのは試練を延期しているのである。
だから、いつまでたっても恨んでいなければならない。
何もしないで考えすぎる性格の自分が何かを得ようとしたのだという甘えの反省がない限り、恨みは続く。
戦う姿勢のある人は、人を恨んだりはしない。
受け身で甘えている考えすぎる性格の人が、その甘えの期待を裏切られて恨むのである。
戦う姿勢と甘えとは両立しないから、戦う姿勢には恨む基盤がないのである。