自分に役割を与える

目的意識は居場所をつくる

目的意識を持つということは、いろいろな場面に役立てることができます。

同窓会で盛り上がったときに、自分が中心でないと居場所のなさを感じる。

人との集まりは、いつどこで盛り上がるかわからないもので、コントロールの利かない領域です。

場の盛り上がりの主役になるかどうかは、そのとき次第です。

ある話し好きな人は、別のところで盛り上がっていると「何の話だろう」という関心を隠しきれません。

「盛り上がりの中心にいられない、居場所がない」を感じるときには、やはり目的意識に立ち返ってみましょう。

自分はなぜその場にいるのか。

場の中心となって盛り上がることが第一の目的なのか。

そうではないと思います。

たとえば、同窓会という会の性質を考えれば、旧友との絆を温めることが一番の目的でしょう。

自分が中心になれない場合は、同じく中心からはずれてしまっている同窓生たちの近況を聞いたりしてみるのもよいと思います。

相手が内気な場合、それはとても貴重な「与える」行為になるでしょう。

たしかに学生時代には、場を盛り上げる人が「スター」でした。

それは気楽な学生だから、また、元気な学生は盛り上げるのも上手、という神話からでした。

でも社会人となった今は、それぞれの形で会に参加してよいのです。

決められた時間の中でどれだけ「心の平和(やすらぎ)」を感じられるか、を目標にしてみると、自分のあり方がおのずと決まってくると思います。

ポイント:集まりの目的をよく考えてみると「居場所」のつくり方がわかる。

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役割があると人と関わりやすい

「目的意識をしっかり持つ」こととも関連しますが、「役割」も私たちを救ってくれるものです。

たとえばある会合の幹事を務めていれば、「居場所がない」を感じることは滅多にないでしょう。

自分には幹事という「役割」があって、「すべきこと」がたくさんあるからです。

注文、会計、その他諸々、幹事は忙しいですよね。

そして、幹事のよいところは、自然と注目されること、また、会合に専念できないことが「仕方のないこと」と認められることです。

楽しいおしゃべりに参加できなかったのも「幹事で忙しかったから」。

それですむから楽です。

そして一方では、幹事として存在感を醸し出すことができます。

社交の中でも一番難しいのが「雑談」「おしゃべり」だと感じている人は少なくないのではないでしょうか。

話題選びから何から、自分に責任がのしかかってくるからです。

人付き合いが苦手な方にお勧めなのが、「役割がはっきりしたところから始める」ということ。

近所の人との雑談は難しくても、何らかの行事のボランティアを務めたりすれば、「やるべきこと」が明確にあります。

プライベートな人付き合いよりも仕事上の人間関係のほうが気楽、という人は案外多いのではないかと思います。

ある医師でも、白衣を着ていると饒舌なのに、白衣を脱ぐと対人恐怖症のようになってしまう人がいます。

「役割」があるほうが人付き合いは簡単。

この考え方を応用すれば、「役割」が明確に与えられていない場でも、自分なりに「役割」を決めて、その範囲で動く、という工夫ができます。

同じパーティでも「営業」と役割を決めれば、とにかく名刺を配って歩く。

よい雰囲気を醸し出す役割と決めれば、ただ穏やかににこやかに立っている。

そういうことでも十分だと思います。

出席の目的が「主催者の顔を立てる」であれば、出席して「壁の花」になっているのでもOKですし、主催者に挨拶して適当なところで失礼する、というのでもよいでしょう。

パーティだから楽しそうにしっかり社交しなければ、と思うから、居場所がないが生じるのだと思います。

そのようにすり込まれた「常識」を離れて、自分の本当の目的意識に目を向けることは、居場所がない対策としてとても役立ちます。

ポイント:役割を探すと、苦手な人付き合いが楽になる。

新しい環境での「居場所のなさ」

ある新しい環境に自分が入ったときに感じる周囲の「冷たさ」は、相手も様子を見ているからだと思います。

どんな人なのかわからないと付き合い方もわからないのだな、と思えば、それは人間誰でも同じだと思うことができます。

ポイント:新しく知り合った相手は「冷たい」わけではなく、どんな人かと様子を見ているだけ。

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ものごとにはプロセスがある

人にはそれぞれのプロセスがあります。

ある時期には「だめだ」と決めつけていた人やことを、もっと多様な側面から見ることができるようになったりします。

また、大切な人を失って「もう人生には絶望しかない」と思った人でも、周りの人のサポートなどを得て、だんだんと、「今の自分」を考えていけるようになったりします。

ですから、まずは「感じ方は人それぞれ」ということを肝に銘じましょう。

自分と同じような人生を歩む人でも、100%同じ価値観を抱く場合はないのです。

誰もが自分のプロセスを歩んでいることを尊重し、それが「よい」とか「悪い」とか評価するのをやめるようにしましょう。

どんなプロセスも貴重なのです。

もちろん、自分のプロセスも、です。

生まれたての赤ちゃんは、本当に無垢です。

何の計算も裏表もなく、生きています。

私はそれが、どんな人の心にもあると思うのです。

もちろんその後、いろいろな批判を受けたり、人と比較されたり、人格否定されたり、あるいは教育もお金もなくやむなく悪事に手を染めていく、というなかで、赤ちゃんとは似ても似つかない存在になってしまうこともあるでしょう。

ただ、それは、赤ちゃんのような無垢な部分がなくなった、という意味ではありません。

いろいろな怖れに基づいた「垢」が周りにこびりついてしまって、無垢な部分が見えなくなっているだけなのです。

身体の垢すりが大変なのと同じように、心の垢すりも、一筋縄ではいかないかもしれません。

ただ、それを「自分はどうせだめな人間だから仕方がない」「他人を信じても裏切られるだけだ」として見るのと、「ジャッジメントを手放して、心の平和だけを目標に生きていこう」と決めていくのとでは、結果に雲泥の差がつきます。

垢が自分自身の本来の皮膚と信じるか、垢をすっていけば本来の自分が出てくると信じるかは、それこそダイヤの原石のような話です。

そして、どんな人の内側にも、輝くダイヤモンドがあるのだと私は信じています。

人を変えることはできないということですが、人は変わります。

それも、それぞれのプロセスを経て、です。

たとえば、プロセスの概念が役に立つ例には次のようなものがあります。

転職1年目で、組織になじめない。嬉々として雑談している同僚たちと、打ち解けられない。

がっかりさせてしまったら申し訳ありませんが、この問題については、「プロセスを踏みましょう」「時が解決するのを待ちましょう」としか言いようがありません。

人間にとっては、あらゆる変化がストレスをもたらします。

誰でも、慣れている人のほうがコミュニケーションしやすいものです。

そこに新しい人が入ってくると、一時期、拒絶反応のようなものが起こります。

自分たちだけで楽しくやっていたのに、それを乱す「異物」が入ってきたからです。

異物の消化には時間がかかります。

その時間を尊重しつつ、自分としての目標は、「ちゃんと出勤する。礼儀正しく、感じよくする」というくらいにして、「常識的に付き合える人間ですよ」ということを示すだけで十分だと思います。

あとは職場の歓送迎会などがあるでしょうから、そういう席で「へーえ、以外とおもしろいんだねえ」などと、「仕事以外の自分」を知ってもらっていけばよいでしょう。

新しい環境での居場所のなさは、「問題」として考えるのではなく、プロセスとして受け止める性質のものでしょう。

人間は、何でも、「今、すぐに」できるわけではなく、変化に適応するだけの時間が必要なのです。

その時間ややり方もひとそれぞれです。

集団にとけ込むのが苦手な人は、かつてどのようにやったらうまくいったかを思い出すと役立つこともあります。

この例のようなことは、相手に悪気がなくても起こります。

何しろ転職1年目なのですから。

自分が「なじみにくい」と感じているように、相手も「どんな人なのだろうか」と様子を見ているのかもしれない、と考えれば少しは楽だと思います。

皆が楽しそうに雑談している近くに穏やかにいて、皆が笑うようなときには自分も笑い、自分は安全な存在だと示していけば、いずれ雑談の輪にも入れるでしょう。

平和な心でそこにいることは、相手に「居場所」を与えていることとも言えます。

焦って存在感を示そうとして会話をリードしてみたりすると、かえって「協調性のない奴」と思われかねません。

こうなると、「浮いている」と言われるような状態になってしまい、「居場所のなさ」はむしろ強くなると思います。

入社してくる、ひと回り年下の新入社員の気質やトレンドについていけない社員(30代)。同じ境遇を分かり合えた同期や先輩がどんどん退職してしまう。肩身が狭くなってきた。

たしかに、若い人たちは元気です。

若い人たちのトレンドについていけない自分を感じることもあるでしょう。

ただ、自分が「ついていけない」と感じるのは、若いときのままのとらえ方だと考えてみたらどうでしょうか。

「トレンド」を追う能力こそ、若さだからです。

歳を取り、経験を重ねる中でわかってくることはたくさんあります。

ここでも「プロセス」の概念が役立ちます。

今若い人も、やがて皆歳を取っていきます。

ですから、ある場面を切り取れば自分には居場所がないということになるのかもしれませんが、この人たちもいずれ歳を取っていくのだな、という視点から見れば、違った光景が見えるのではないでしょうか。

そうやって違う視点から見られるようになるのも、人間的成長の一つだと思います。

「自分にもこんな時代があったなあ」とのんびり眺めていられれば、若い人のほうから「先輩、スマホくらい使えなくちゃだめですよ」とやり方を教えてくれるかもしれません。

これも、若い人たちのあり方を「肯定」して得られるものだと思います。

つまり、やはり相手に「居場所」を与えれば、自分も「居場所」を与えられる、という好例でしょう。

ポイント:変化に伴う「居場所のなさ」は、プロセスで考えてみよう。

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逆効果にならないよう注意する

居場所を求める努力は、往々にして誤解されがちです。

たとえば、一生懸命相手に話しかけて親しくなろうとすると、「うるさい」「詮索がち」と思われたりします。

また、パーティなどで人について回っていると「金魚のフンみたいで、うざい」と思われることもあります。

過剰な自己開示は相手を驚かせたり警戒させたりしますし、「仲良くなりたい」気持ちを前面に出すと「なれなれしい」と不快な気分になる人もいます。

もちろん、そのように受け取られてしまうと、「居場所づくり」には逆効果です。

そんな悲しい事態を防ぐためにも重要なのは、やはり「心の平和(やすらぎ)」への注目。

自分の心が平和である限り、焦って不審な行動に出ることもありませんし、何と言っても周りの人たちに安全な感覚を与えます。

自分の心がやすらかならば、沈黙していても大丈夫。

そんな人を「社交性がない」などとジャッジする人のことは気にしなくてもよいのです。

あるいは「静かですね」と言われたら、「すみません。人見知りなもので」と言えば、温かい雰囲気になるでしょう。

ポイント:大切なのは、行動ではなく心の平和。

居場所がないに追い詰められそうなときは、生活のバランスに気を配る

自分のストレスを過剰にしないために注意した方がよいのは、勤務時間外の過ごし方です。

居場所がないを感じていたときは、生活全体のバランスに気を配ります。

あえて定時に帰り、他の分野の友人と飲んだり、料理を作ったり、仕事や学業とは関係のない本を読んだりしてみましょう。

そのことによって「まあ、こういう生活も悪くないか」と思うことができるようになったのです。

ある場面では居場所がないと感じても、生活全体のバランスをとることで、少なくとも、「この世界に居場所がない」と思い詰めずにすむと思います。

これは、環境が変化するときに常に心がけたいことです。

「変化に早く適応しなければ」と思うと生活全体のバランスがくずれてしまいますが、そんなときこそ「変わらない日常」を意識したほうがうまくいくのです。

ポイント:変わらない日常を大切にするほど、居場所を感じやすくなる。