自分を大切にする生き方とは
したい、したくないで決める自分を大切にする生き方
試しに”あなた”というコンピューターに、「したい・したくない」という自分の気持ちや感情を基準にするという入力設定をすると、どうなっていくでしょうか。
「私は、これが好きだから、したい」
「私は、これをするのが楽しいから、したい」
こんな自分の気持ちや感情を中心にして、「これをしたいから、する」という自分の欲求を満たしてあげれば、まず、それだけで満足します。
では、「これをしたくないから、しない」はどうでしょうか。
「私は、休んでいたいから、しない」
「私は、Aが好きだから、Bはしない」
「私は、これを引き受けるとつらくなるから、断ろう」
もしあなたが「しなければならない」から解放されていれば、そんな「しない」という選択も、気持ちよく受け入れることができるでしょう。
「したくなくなったから、やめる」
さらに「それをして」いて、「これをしたいから、し続ける」にも、満足があります。
自分の感情を基準にするという入力設定が明確であればあるほど、「これをしたくなくなったから、やめる」も、自分を責める材料とはなり得ないでしょう。
むしろ、「したくなくなったから、やめる」という場合でも、
- 私は自分の「やめたい」という”気持ち”を受け入れることができて、うれしい
- 私は「やめる」という”意志”を持てる自分が、誇らしい
- 私は、実際に「やめる」という”行動”ができて、よかった
というふうに、自分の選択を、肯定的に受け止めることができます。
自分を大切にするとはこのように、借り物の思考からスタートするか、自分の感情からスタートするかで、自分に対する評価がまるっきり正反対になってしまいます。
それだけではありません。
借り物を自分の人生の指標にすると、蜘蛛の子が孵化するような勢いで恐れが生まれてくるのです。
意識の中で恐れがある
こんな風に記すと、「なるほど、そうかあ。じゃあ、もっと自分の感情を中心にしよう」と納得する人もいれば、「でも、しなければならないことって、世の中にたくさんありますよ」と反駁したくなったり、「自分の気持ちや感情で決めていたら、世の中、わがまま放題、やりたい放題の人間ばかりで溢れて、あちこちで争いが勃発してしまいますよ。ただでさえ、身勝手な人ばかりが増えているんですから」
などと感情的になったり、腹が立ってくる人も少なくないでしょう。
もしあなたが、前者ではなく、後者のようについ感情的になるとしたら、その「感情的になってしまう」意識の中に、”恐れがある”と気づいていますか?
どうして自分を大切にできないあなたは、そんなふうに感情的になってしまうのでしょうか。
一つは、まさに自分を大切にできていないあなたが自覚しているように「我慢”しなければならない”」と思っているからでしょう。
自分を大切にできないあなたは「我慢したくない」と感情で感じつつも、思考で「我慢しなければならない」と思い込んでいます。
さらに、自分を大切にできないあなたが即座に「争いが勃発してしまう」と感情的になって言いたくなったのは、我慢できずに感情を爆発させて、相手と争いになって、何度も傷ついた経験があるからではないでしょうか。
少なくとも自分を大切にできないあなたは、自己中心になって自分の感情を優先すると「争いになる」と信じ込んでいて、そうなることを”恐れている”はずです。
自分を大切にできないとどうなるか
我慢しなくてもいい、そんなの無理です!?
あるセミナーで、いきなり、
「『我慢しなくてもいい』なんて言われても、そんなの無理です!!自分の感情を抑えていないと、争いになって、人間関係が壊れてしまうじゃないですか」
と、ものすごい剣幕でくってかかってきた人がいました。
一瞬、彼女のその強張った表情と怒った声に、部屋の空気が凍てつきました。
嫌な相手でも、苦手な相手でも付き合わなければならない。
つらい職場でも自分を抑えて我慢しなければならない。
相手に腹がたっても、それを表に出してはいけない。
そうしないと、争いばっかり起こる。
まさに「他人の目を気にする」思考です。
自分を大切にできない彼女の経験からすると、そうなのでしょう。
けれども、それはあくまでも彼女の経験です。
具体的にはどんなことが起こったのか、わかりません。
仮に相手がどんなに彼女の主張通りの極悪人だとしても、それでも、自分を大切にできない彼女が経験する体験は、「彼女と相手」との関係で起こっています。
彼女の目から相手を見ると、相手がそれを引き起こしているように映っても、相手の目からは、自分を大切にできない彼女がそれを引き起こしていると映っているでしょう。
彼女の目には相手しか映っていませんが、その出来事は、自分を大切にできない彼女自身の言動があって起こっていることでもあるのです。
これが「関係性」なのです。
「どんなことがあったんですか」と尋ねられると、「えっ、どんなことって、何がですかっ」とその口調もまた怒っています。
「それだけ言われても、私には、何が起こっているのか、わからないので、アドバイスしたくてもできないんですね。
どんなことがあったのか、具体的に言っていただけませんか」
その問いに答えて「具体的な出来事」を話し始めました。
が、そのとき目にしたのは、いかに相手が悪いかを、必死に訴えてさらに怒りをエスカレートさせていく彼女の姿でした。
関係性は自分で変えることができる
おそらく自分を大切にできない彼女は「自分が我慢している」と信じているので、自分の言動が相手にどういうふうに伝わっているのか、気づいていなかったに違いありません。
「相手のせいでこうなった」という思いに囚われている人達に、しばしば見られる傾向です。
すでにその「相手のせいで」というふうに、他者に囚われて思考する「他人の目を気にする」意識が、自分の目を曇らせています。
自分を大切にできない自分がどんな状況を引き寄せているのか。
自分を大切にできない自分がどんな態度をとっているのか。
どんな表情をし、どんな言動をとっているのか。
そのすべてが、相手に影響を与えている相互作用です。
これが「関係性」なのです。
一つの事象がこんな「関係性」で成り立っているのだとしたら、相手が変わっても、その「関係性」は変わります。
もちろん”私”が変わっても、その「関係性」は変わります。
相手もあなたも、お互いに、「あなたが不愉快な態度をとるから、私もあなたに対して、不愉快な対応をしたくなるのよ」
そう思っています。
もしこのとき、相手に変わるようにと要求したり強制すれば、それこそ、恐れている通りに、争って自分を大切にできず、「傷つくのが怖い」状況になっていくでしょう。
だったら、自分自身を「そんな恐れから解放するため」に、あるいは「大事にするため。守るため」にという自分を大切にする視点に立って、自分を育てることに精力を注いだほうが、より努力する価値を見い出せるように思うのですが、いかがでしょうか。
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無意識は知っている
どんなにあなたが、相手の言うことに自動的に反応していても、相手の指示や命令に気付かずに従っていても、あなたが自分の気持ちや意志を相手に奪われているとしたら、自分を大切にできないあなたの無意識はそのことに気づいています。
相手から「そうしろ」と言われているわけではなく、自分を大切にできないあなたがいつの間にか自分で「しなければならない」と思い込んでいて、自動的に反応したり動いているとき、もしかしたらあなたは自分がそうすることを、無意識のところで苦痛に感じているかもしれません。
仮にあなた自身が自分の気持ちや意志を無視しているせいで、それを苦痛であると気づかなかったり、苦痛に対して鈍感になっていたとしても、自分を大切にできないあなたの無意識は知っています。
そして、それらは自分を大切にできない自分の中に痛みとして残ります。
相手があなたを乱暴に扱ったり、あるいはあなたが自分自身を乱暴に扱えば、それを自分を大切にできないあなたが自覚していないとしても、その痛みそのものが消えてしまった、というわけではないのです。
例えばある家庭では、親が子どもの頭を小突くのは当たり前になっています。
たいした痛みではないので、子どもも慣れっこになっていて、それを心の傷として感じることはありません。
ある家庭では「お前はバカか」という言葉が、夫の口から日常茶飯事に飛び出します。
妻はそれを不快に思いながらも、我慢して、心の中で舌打ちするぐらいしかできません。
言い返せば、さらに何倍もの言葉が返ってきて、よけい傷つくだけだからです。
「これ以上、傷つきたくない」という恐れがあるために、屈辱感を覚えながらもそれを押し殺して我慢するのです。
日常生活のこんな小さな出来事でも、日々繰り返されれば、大きな痛みや恐れとなって蓄積していきます。
幼少期の痛みや苦しみが今の人間関係に関係している
自分を大切にできないあなたは職場や家庭、あるいはさまざまな人間関係で、ふと、こんなふうに思っていたりしませんか。
「話したくても、どうせ、聞いてくれるはずがないので、言っても無駄だ」
「どんなに自分の意見を言っても、否定されるので傷つくだけだ」
「約束の日を楽しみに待っていても、どうせ破られるので、よけいつらい」
「どんなに期待しても、裏切られるだけだから、もう誰も信じられない」
もし自分を大切にできないあなたが、気づくと、そんな決意にも等しい思いをつぶやいているとしたら、そんな思いがどこで形成されていったか、疑問に思ったことはありませんか。
自分を大切にできないあなたはもしかしたら、「今あなたが関係している人」に対して、そう思ってしまう。
「今起こっていること」に関して、そんなふうに思ってしまう。
自分を大切にできないあなたの目には、そう映っているかもしれません。
確かにそれもあるでしょう。
しかしそれは、本当はもっと遡って、あなたの親子関係や家庭環境や生育環境に根ざしている思いかもしれないのです。
例えばあなたの親が、過去において、「お前は黙って、親の言うことを聞いていればいいんだ」
というような態度だったり、あなたの気持ちを聞こうとしなかったり、一方的に拒絶したり、否定したりしていれば、あなたは、社会においても、「相手は私が何を言っても、どうせ聞いてくれないから、言うだけ傷つく」と、最初から諦めてしまいやすい自分を大切にできない自分になっているかもしれません。
あるいは、「相手は私が何か言おうとすると、すぐに頭ごなしに反論してくるから、怖い」
「私が何をどう言っても、反対するから、もう、話をするのも苦しい」といったふうに、話すことそのものに恐れを抱いているかもしれません。
もしあなたが、相手と約束をしたとき、約束した直後から、「本当に、相手は約束を守ってくれるだろうか」などと不安を抱いたり、恋人と付き合っていても、「相手は、最後には、私を裏切るのではないだろうか」という不信感に囚われているとしたら、自分を大切にできないあなたは、子どもの頃、楽しみにしていた約束を、両親が「仕事で忙しい。急に用事ができた」などという一方的な都合で、たびたびキャンセルされて傷ついたという経験があるのかもしれません。
こんなふうに、家庭の日々の過去の営みが、社会や人に対する思いの雛形となっていきます。
その過程で、何度も同じような方法で傷ついていれば、”それ以上、傷つくことへの恐れ”が心に深く刻み込まれているでしょう。
そんな過去の恐れや痛みが、自分を大切にできないあなたの今の職場や家庭やさまざまな人間関係の一場面で、ふと顔をのぞかせるのです。
そういった意味で、一つの場面での自分を大切にできないあなたの思いや反応は、その場面だけでのことではありません。
そんな一つの場面の背景にすら、あなたが育ってきた歴史があって、その歴史も含めて、その場面で反応しているのかもしれないのです。
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恐れは幻想にすぎない
こんなふうに見ていくと、自分を大切にできないあなたが今感じているもろもろの恐れは、あなたの過去の経験に基づいて形成された恐怖であると気づくに違いありません。
例えば過去において、あなたの親がその時々で、
「あなたは、どう思うの?どう感じるのかなあ。どうしたいんだろう」
などと「自分中心」の目が育つように反応していたら、あなたは、自分の気持ちや感情、欲求、思い、意志を大事にして、「自分を愛することができる」自分になっているはずです。
そんな自分の中には、自分がそれを欲求することへの罪悪感はありません。
自分の選択を認められるので、自分を大切にでき「相手に認められないのではないか」という恐れはありません。
その選択も、自分を大切にできる自分が取れる責任を自覚した選択ができるので、「過剰に責任を取ってしまう」ような恐れを抱かずに済みます。
自分を大切にできる自分の意志を気持ちよく認められるので、「相手にそれを認めさせるために戦う」というような恐れも減ります。
自分を大切にすればするほど、”戦って勝つ”必要はないと体験的にわかってくるので、”戦って、勝たなければならない”といった恐怖からも解放されていきます。
このように、今あなたが感じているもろもろの”恐れ”は、もともとあったものではなく、過去の生活環境の中で作られた恐怖ということができるでしょう。
つまり、大半は本当の恐怖ではなく、「自分を大切にできない自分が勝手につくり出した恐怖」ということができるのです。