乳幼児期からはじまる自己無価値感の形成

乳幼児期の体験が心の形成に大きな影響を与え、その影響があとあとまでも残ることは、精神分析がしてきしたことであります。

そして、その後の動物実験や不幸な環境に置かれた子どもたちについての研究は、この指摘が事実であることを実証しています。

近年では、胎児期から乳児期を対象とした周産期心理学の発展により、従来考えられていた以上に胎児や乳児に学習能力があることが明らかにされています。

こうした早期の学習能力に裏付けられて、自己無価値感の形成もまた早期にはじまるといえます。

この点について、アドラーは、子どもの基礎的な心は5歳までに決定されてしまうと述べており、交流分析の創始者であるバーンは、八歳頃までに固まってしまうといっています。

こうしたことから、基底的自己無価値感は、児童期初期にはほぼ確定してしまうと考えられます。

私たち大人は、主体としての自分と客体としての自分とを分けてとらえていますが、乳幼児期にはこれが未分化です。

痛いとか暑いなどの諸感覚、悲しい、嬉しい、恐い、楽しいなどの感情、抱っこしてほしい、甘えたいなどの願望は、すべて「自分そのもの」にほかなりません。

ですから、これらの感覚や、感情、願望が否定されたり、拒絶されたりすることは、「自分そのもの」が否定され拒絶されることなのです。

この点で、たとえば、次のような実験は示唆的です。

この実験では、生後四ヵ月の赤ん坊を二群に分け、半数には赤ん坊がほほえんだときに実験車がほほえみ返し、残りの半数にはそうした反応をしませんでした。

すると、ほほえみ返された赤ん坊はよくほほえむようになり、そうでない赤ん坊には変化は見られませんでした。

そのあとで、今度は、実験者は正反対の反応をしました。

すると、ほほえみ返されるようになった赤ん坊は、ほほえみが多くなりました。

逆に、ほほえみ返されなくなった赤ん坊は、とたんにほほえまなくなり、実験者の顔を見なくなるばかりか、目をそらしてそっぽを向くようになってしまいました。

このように、赤ん坊は、非常に早い時期から周囲の人々の対応にすばやく反応をしているのです。

ごく幼いうちにこの実験のように拒絶される体験が繰り返されれば、幼児は自分の感覚や感情、欲求、願望などを表出することをやめてしまいます。

ひどい場合にはそうした自分自身の感覚、感情、欲求、願望などを消滅させてしまうこともあるのです。

願っても満たされないものならば、もともと願わないほうが心安らかにいられるというものです。

基底的自己無価値感を形成できない親と子の不幸な関係

それでは、基底的自己無価値感の形成条件とはいかなるものでしょうか。

基底的自己価値感の獲得条件は、一つは十分な安心感と安全感が得られること、二つ目は、適合感が得られること、そして、三つ目は、自分が歓迎されているという実感が得られることでした。

したがって、基底的自己無価値感は、これらの実感がえられないことによって形成されることになります。

1.十分な安心を与えられないこと

赤ん坊は、子宮という快適な環境のなかで、安心感の原型を形成して生まれてきます。

そして、誕生後に適切に庇護されることで、安心感を発展させていきます。

しかし、適切な庇護が与えられないと、誕生したこの世界は不快で、脅威に満ちた世界に感じられることになります。

濡れたままのおむつで放置されれば、冷えてきて不快ですし、やわらかな肌はただれてかゆくなり、しまいには痛くなります。

暑くて気分が悪いのに厚いふとんをかぶせられたり、手足の自由がおさえつけられたりします。

また、見知らぬ人が恐いのに、その人の腕に預けられたりします。

不安なので甘えたいのに、甘えさせてもらえない。

一緒にいてほしい気持ちに反して、しょっちゅう一人にさせられる。

「勝手にしなさい」など、見捨てられるかのような言葉を投げつけられる。

乱暴に、冷たく、邪険に扱われる。

こうした体験が繰り返されると、子どもは安心できず、自分が安全に守られるほどの価値もない存在だという感覚を持ってしまいます。

2.不適合感を与えてしまうこと

親は、子どもの発達段階や心理的状態に合わせるのではなく、無意識のうちに一般の基準に子どもを合わせようとしてしまうことがあります。

ミルクを飲む量が標準より少ないと、つい、もっと飲ませようと強制してしまいます。

標準より体重が少ないと、食べる量を増やそうと努めます。

発する言葉が少ないと、もっとしゃべるようにと無理に働きかけてしまうことがあります。

キャリアウーマンをめざす女性のなかには、産休の間に同僚たちと仕事の差がついてしまうことに焦りを感じる人がいます。

そもそも親になることを望まなかった親もいます。

このような親は、赤ん坊の世話をしながら、無意識のうちに赤ん坊から身を引いてしまっています。

赤ん坊を抱きながら、目も心も赤ん坊に向いていないことがあるのです。

こうしたことが、赤ん坊に体感的な違和感をもたらします。

また、幼いうちから、意識的あるいは無意識的に、子どもを競争に巻き込んでいることも少なくありません。

たとえば、他の子がおしめをはずしたと聞くと、うちの子もと急がせてしまうことなどです。

厚生労働省が2001年に生まれた子どもを追跡調査している「21世紀出生児縦断調査」(2004年、2005年、2006年)によれば、2歳半の子どもの14%が習い事をしており、3歳半になると23%、4歳半では38%にのぼります。

習い事とは外の基準に自分を適合させることであります。

こうした早期の習い事は、いまの自分では駄目だから、外の基準に合う自分に作り変えなければ価値がないのだ、という感覚を子どもに植え付けてしまう恐れがあります。

愛情が深くても、性格的に子どもに適合感を与える対応が出来ない親もいます。

過度に感情抑制的な親は、幼い子どもの高ぶった感情に共鳴することができません。

性格的に柔軟性の乏しい親は、子どもの心への感応性に欠けています。

自分の心を相手に投影してしまうプロジェクション傾向の強い親は、意識せずに自分の自我を子どもに押しつけてしまいます。

親と子の間に、不幸な資質の不適合が存在する場合もあります。

感受性と能力に恵まれた早熟な娘が、18歳で不幸な亡くなり方(自殺)をしたとき、「不思議な子だった」と、しみじみとその母親が述懐していました。

この男性的な性格の母親には、繊細すぎる娘の心の動きを理解するだけの資質が備わっていなかったのです。

3.歓迎されている実感を与えられないこと

「お前さえ、いなければ」「お前なんか生まなければ良かった」

あからさまにこのような言葉を口にする親はほとんどいないでしょう。

しかし、暗黙のうちにこうしたメッセージを伝えてしまうことは、決して少なくないのです。

子どもを膝に抱きながら、夫(妻)の悪口を言う親。

結婚生活への後悔をいつも口にする親。

こうした親は、「自分は歓迎される存在ではない」というメッセージを子どもに発してしまっているのです。

保育所に子どもを迎えにいき、一緒に帰るときに、親は何げなく「疲れた」という言葉を発します。

すると子どもは、自分は疲れた親をわずらわす存在だ、と感じてしまうことがあります。

親が子育ての喜びよりも、子育ての大変さを感じている場合も、同じような危険があります。

また、子どもが楽しく遊んでいると、つい水をささずにいられない親がいます。

「宿題は終わったの」「明日の準備はすんだの」と。

子どもと一緒に楽しめない親は、成長する過程で、楽しむことは罪悪だ、という意識を持たされてしまった人です。

子ども時代に自分が楽しむことに熱中できなかったために、楽しいことに熱中する子どもを無意識のうちに嫉妬していることも稀ではありません。

このような家庭では、子どもは自分に浸りきることができません。

「いま、自分は大丈夫だろうか」と、しじゅう自分への疑惑を心にとめておかなければなりません。

自己無価値感の養育環境

親の一つ一つの行為が、子どもの心の形成に決定的な影響力を持つわけではありません。

自己無価値感に陥る根本原因に述べたような行動に共通する姿勢が、日常生活のなかで無意識のうちに繰り返され、家族全体の雰囲気としてにじみ出るのです。

子どもがつねにそうした刺激にさらされることにより、自己無価値の感情が形成されていくのです。

以下、そうした環境がもたらされやすい要因を詳述します。

多忙さと生活の厳しさ

昨今の労働環境の厳しさにより、多くの親は、自分たちの生活を営むことで精一杯という感じです。

子どもに愛情を持っていても、その愛情をしっかりと子どもに注ぐ時間とエネルギーが失われているといってもいいでしょう。

休日以外、子どもと接する時間がほとんどない父親も少なくありません。

独立行政法人国立女性教育会館の国際比較調査(2006年)でも、子育て上の悩みとして「子どもと接する時間が短い」ことをあげた父親が40%を越えています。

父親の労働環境は、母親にも影響します。

たった一人で子育てをまかされ、なおかつ疲れて帰宅する夫の世話もするのです。

親がこうした余裕のない状態で子どもに接していては、安心感や安全感、適合感、さらに自分が歓迎されているという感覚を十分に与えることが困難になります。

このような場合、子どもは、守られる自分、愛される自分としての心を形成するよりも、疲れた親を思いやる心のほうを優先させねばなりません。

自分を抑えて、親の大変さを救おうとする心性が作られてしまいます。

ある学生は、次のような話をしてくれました。

彼女は、親が共働きだったので、幼い頃から祖父母の家に預けられて育ちました。

親も祖父母も、「遠慮しないでいいのよ」と、よく言っていました。

当時、自分には遠慮しているつもりはなかったのですが、現在では、過度に周囲に気遣ってしまう性質のために、自分をつらい状態に追い込んでしまっています。

それは、無意識のうちに幼いときから自分を抑え、過度の遠慮と周囲へ気遣いをする傾向が作られていたのです。

祖父母も親もそのことに気づいて、「遠慮しなくていいのよ」と言ってくれていたのだと、いまは理解できるといいます。

親は自分が働くことは、子どものため、家族のためと思っています。

子どもは親の背中を見て育ってくれる、と考えています。

しかし、もっぱら仕事だけに関心を向ける親の背中を、子どもは自分への拒絶の壁と感じて育つのです。

なぜなら、幼い子どもは自分の願望で世界をとらえるという性質があるからです。

懸命に働く姿は、それだけでは子どもに歓迎されているという意を伝えることにはならないのです。

また、親が生活する大変さを強調すると、子どもはこの世界を生きていくことに不安を持ってしまうことがあります。

努力すれば幸福に平穏に生活していけるという楽観的な自分への信頼感を形成することができなくなるのです。

「生きていくのは、大変なことなのよ」、というのが口癖だった母親に育てられたある男子は、子どものときから「きっとそのうち失敗する」とか、「どこかが間違っていて、やがてそれが暴露される」という感じをずっと抱いて生きている、といいます。

むしろ世の中は「なんとかなるもの」なのです。

まじめに努力すれば大丈夫、完璧でなくていい、なんとかなるものだ。

そうしたメッセージを子どもたちに送りたいものです。

忙しく働く大部分の親は、子どもと一緒にいる時間の短さを、密度の濃い接触で補うことを心がけています。

たとえば、保育所に子どもを預けている親への調査結果では、いっぱい子どもの話を聞いてあげる、いっぱい抱きしめてあげる、子どもが眠るまで絵本を読んであげる、休みの日には、目いっぱい一緒にいてあげる、こうした姿が浮かび上がることが多いのです。

子どもの自己価値感の形成にとって大事なのは、子どもと一緒にいる時間の長さではありません。

無条件に愛されているという実感を子どもに与えられることであり、そのためには親が一緒にいられる喜びで包み込んであげることです。

忙しさそのものが、子どもの無価値感を作るものではないのです。

自己無価値感をつくる未熟な親

結婚は、ある程度の心の準備により、決断を経て成立します。

そして、結婚生活のなかで、しだいに親になる心が準備され、多くの人びとの歓迎のなかで赤ん坊が誕生することになります。

これに対し、「できちゃった婚」では、結婚生活への準備も、親になる準備もないうちに、親としての役割に直面させられます。

「もっと自由な時期がほしかった」「若すぎてお互いに相手を見る目がなかった」「本当にこの相手とやっていって良いのだろうか」「この子ができなければ、別な人生を歩んでいただろうに」

こうした結婚への疑惑が強いと、無意識のうちに態度に表われ、赤ん坊は不適合感や歓迎されていないという感覚を幼いうちから植え付けられてしまいます。

子育ては、自分の欲求を抑えて、子どもを優先することが求められます。

たとえ自分は食べなくても、子どもには食べさせます。

自分のものは買わなくても、子どもに惨めな思いはさせないようにと努めます。

このような子どもを大事にする親の行為が、子どもに自己価値感と親に対する感謝とをもたらすのです。

ところが、子どもよりも、自分の欲求を優先させてしまう未熟な親がいます。

おいしいものを、子どもの目の前で、一人で食べてしまう父親。

チャンネル権を独占する父親。

夜、幼い子どもたちだけを残して、パチンコやカラオケに行く親。

こうした状況では、子どもは、自分は親から大事にされるほどの価値はない、自分はパチンコやカラオケほどの価値もないのだと感じさせられてしまいます。

未熟なために、自分の感情をコントロールできず、気分の波の変動が大きい親もまた、子どもに無価値感を与えてしまいます。

たとえば、子どもの感情に配慮するよりも、短気で気性の激しい父親の感情を損ねないことが優先される家庭があります。

家族の平穏のために機嫌を損ねがちな母親の気分に気を遣わなければならない家庭もあります。

こうした家庭では、大事なのは親の感情であり、自分たちの感情や欲求は親の感情のために犠牲にされて当然だ、という信念が子どもに形成されてしまいます。

また、こうした家庭では、子どもは自分を抑え、もっぱら父親(あるいは母親)の気に入られるように振る舞う姿勢が身につくことになります。

この場合、女子はまだ良いかもしれません。

人に気を遣う姿勢は、女性に求められる性役割と合致するからです。

子どもや夫や周囲の人に献身する姿勢に通じるからです。

しかし、男子の場合、男性性の獲得を妨害することがあります。

達成を求めて果敢に挑戦する姿勢、独立的な判断能力、他者をリードする能力、こうした男性的な姿勢や能力が育たず、感情的に相手に取り入ることで相手を操作する傾向が身についてしまうからです。

親の気分しだいで、子どもが振り回される家庭があります。

親の機嫌の良いときには、お気に入りの人形のように溺愛され、親の機嫌が悪いときには、飽きられたぬいぐるみのように放っておかれます。

この場合も、子どもは親の機嫌を察知し、それに対応しなければなりません。

自分の感情や欲求よりも、親の機嫌を優先させねばならず、親が不機嫌なときには自分を抑え、親の機嫌が良い時には、機嫌の悪いときの分を取り返すほど甘えるという不安定な心が形成されやすくなります。

その結果、自己価値感と自己無価値感との間を大きく揺れ動き、安定した自己価値感を獲得することができません。

不仲な親

夫婦仲の悪さは、子どもの心に無価値感を形成します。

それは、まず何よりも、安全と安心を十分に与えることができないからです。

また、適合性の感覚を与える対応が困難になるからです。

さらに、歓迎されている実感を与えることも不可能だからです。

しかし、これ以外にも、自己価値感の形成に不利に働く要因があります。

それは、子どもは、夫婦仲の悪さそのものが、自分に責任があるように感じてしまうためです。

幼い子どもは、夫婦げんかを見ると、けんかの原因が自分にある、と思い込んでしまう傾向があるのです。

夜、両親がけんかしている声で目が覚めて、起きていくことはできず、眠ったふりをしている。

そして、布団のなかで、なぜか自分を責めている。

そんな子どもの頃の体験はないでしょうか。

親が離婚した子どもも、離婚の原因が自分のためだとおもいこんでいることが少なくないのです。

親が病気になると、「自分が良い子にしていないからだ」と、思ってしまう子どももいます。

親に自殺された子どもも、自分を責めてしまいます。

幼い子どもがこのような思い込みをするのは、自分のために親が犠牲になって尽くしてくれていると、確信しているからです。

親の関係を悪くする自分への罪責感、親を仲良くさせることができない無力感、これらが根深い無価値感をもたらすことになるのです。

「子はかすがい」という言葉のように、子どもが不仲の夫婦をつなぎとめる役目を担っていることがあります。

こうした場合、子どもは自分のために親が別れられないということで、自分の存在を否定的に受け止めてしまうことがあります。

親から片方の親の悪口を聞かされて育つと、少なくとも自分の半分は愛されない部分と感じます。

また、女性性や男性性への否定的な態度へとつながりやすくなります。

女の子が母親の悪口を聞かされて育つと、女性としての自分を否定されているように感じ、女性性の受容が困難になることがあるのです。

夫が妻に暴力をふるう家庭でも、女の子が女性としての健全な自己価値感を発達させることが困難です。

暴力的な父と耐える母

OLのA子さんは、ついつい恋人をわずらわせる行動をしてしまいます。

いつもたいした理由はなく、恋人に迷惑をかけていることは自分でもわかっています。

自分がいけないことを十分わかっているのですが、それでも彼を困らせることをしてしまうのです。

たとえば、彼が電話で、「今日は夜まで仕事なので会えない」と言うと、「自分を嫌いになったからだ」とか、「自分のことを大事に思ってくれていない」などと、長い時間ぐずぐずと彼を責めてしまいます。

あるときなどは、ホテルで気分を害して、洋服のまま風呂に入ってしまいました。

彼が「出て来るように」と言っても出てきません。

仕方なく、友達に電話して洋服を持って来てもらい、友達と一緒にようやくA子さんを風呂から引き出した、というようなこともありました。

彼は、このまま彼女を包容しきれるか、自信を失いかけています。

A子さんも、また、なぜ自分がこうなってしまうのか、苦しんでいます。

A子さんが育った家庭は、父親がしばしば母親に暴力をふるっていました。

母親はだまって耐え、A子さんや妹が母親をかばおうものなら、暴力は子どもたちにも向けられたのです。

そうしたときには、長女であるA子さんは、妹を守らなければと必死だったそうです。

A子さんが小学校高学年になっても、父親は母親との夜の営みを隠そうとすることはありませんでした。

夫を嫌いながら夫を受け入れてしまう母親に幻滅を感じていたといいます。

こうしたことから、A子さんには根深い男性不信と女性であることへの否定的な心理が刻印されてしまったのです。

これが、男性を加害者として仕立てる行動へ無意識のうちに導き、女性として素直な愛情を受けることを妨害してしまうのです。

要求が高すぎる親

適切なしつけは、子どもの自己価値感を高めますが、不適切なしつけは、無価値感をもたらします。

しつけとは、子どもの内発的な欲求と外界の要請との折り合いを求めることです。

適切なしつけは、子どもの内発的な欲求、感情、意思、願望などを尊重しつつ、社会のルールに従うように導きます。

このために、自律性や自発性の感覚をともないながら、しつけが成立します。

こうした適切なしつけにより、子どもの適応能力が増大します。

そのために、子どもは自分が自分をコントロールできるという自信とともに、有能感を実感できます。

また、自分が大事にされているという感覚が与えられ、子どもはしつけを親の愛情の伝達と受け止めることができるのです。

これに対し、不適切なしつけとは、早すぎること、要求が高すぎること、厳格すぎること、一貫性のないことなどです。

早すぎるしつけの場合を見てみましょう。

たとえば整理整頓をしつけるには、子どもが無我夢中で遊びに浸りきるという体験をたっぷりした後でないと、遊びに熱中することが悪いことであるかのような心性が形成されてしまいます。

なぜなら幼い子どもは本来無秩序であり、夢中で遊べば、乱雑になるのはあたりまえだからです。

人に優しくすることをしつけるには、自分の感情や心を大切にすることをしっかりと学んだ後でなければ、「優しさとは、自分の心に反して、相手の要求に服従することだ」と誤解してしまいます。

厳格すぎるしつけでは、子どもの内発的なものを無視して、もっぱら外界の要請に服従することを強制します。

このために、価値あるものは外的なものであり、自分の内なるものは無価値なのだ、という感覚を持ってしまうのです。

こうして外見上はよくしつけられた子どもが、生身の感覚や欲求、感情、意思、願望を無価値なものとして捨て去ってしまった姿である場合があるのです。

もっぱら「良い子」として振る舞ってはいますが、その実、自分の内面は無内容であるという感覚を強く持っていることがあるのです。

完璧であろうとする親

子どもを愛し、子どものために尽くし、理想的な家庭を築こうとする良心的な親が、一歩間違うと無価値感の強い子どもを育ててしまう危険があります。

それは、子どもに子どもとしての生活に没頭させるのではなく、小さな大人であることを求めてしまうからです。

高学歴の夫婦やがんばってきた夫婦で、表面上どこにも問題がない幸福な家庭でこれがおこなわれていることがあります。

このような家庭では、家族間の感情が抑制的であり、知性化の傾向が強く、大人たちは率直な感情を出してぶつかりあうのではなく、それぞれが立派な大人として我慢しあっています。

そして、これを子どもにも求めてしまいます。

明るく、屈託がなく、素直で、行儀良く、しっかりとお手伝いができ、お利口な子ども。

もちろん人に迷惑をかけるなど論外。

外からは、理想的な家族として羨ましがられています。

しかし、そもそも人間とは、不完全なものです。

互いの未熟さや歪みを受け入れ、許し合いながら生活していくものです。

とりわけ、子どもは不完全な存在ですから、ときには幼稚な感情を爆発させ、ときに退行し、また、ときには過ちを犯しながら、成長していくものです。

完璧を求める親は、子どものこうした不完全さを歓迎することができません。

幼さに目をつむることができず、「不十分さ」としてしか、見ることができないのです。

そのために、「不十分さ」や「未熟さ」を早期に卒業させようとする養育になります。

ですから、こうした親は、過干渉になることが多く、また、「お前なら、もっとできるはずだ」とか、「お前なら、がんばれるよ」など、プライドや激励を与えようとする言葉が多くなりがちです。

しかし、子どもにとっては、自分がいつも不完全なのだと言われているようで、不全感を強めてしまいます。

親の要求に応えきれない自分を意識せざるを得ず、親に迷惑をかける存在として、無価値感を強めてしまうことになるのです。

いじめにあっている中学生は、次のように書いています。

「死を選ばなくて相手に罰を負わせて恨まれないような方法はないのでしょうか。

今の日本には絶対にないんですよ。Bestな方法が・・・。

結局いじめられているのをがまんするか、先生に打ち明けてまた倍になって返ってくるのを耐えぬくかの方法を選ぶしかないと思うんです。

親には知られたくないんです。
これ以上迷惑かけたくないんです。
受験のこと以外は」(進研ゼミ中学講座編『学校で起こっていること―中学生たちが語る、いじめの「ホント」』ベネッセコーポレーション 1997年)

自分が完璧であろうとする親は、子どもが批判されると、自分の育て方が批判されているように強く感じてしまいます。

また、自分が一所懸命なので、つい、子どもにも同じ程度の懸命さを求めてしまいます。

こうした親は、子どものすべてを知っていないと気がすみません。

学校から帰ると、毎日「今日はどうだった?」と、訊ね、遊びから帰ったときも、その様子を根掘り葉掘り聞くことになります。

これは、子どもにとっては裸にされるような苦痛です。

自分の心の奥まで、親に掠め取られてしまうかのように感じられます。

自分だけの世界を持つことさえ許されない無力感を持ちます。

ダブル・バインド(二重拘束)の親

完璧であろうとする親は、感情的に激することを自制し、子どもに対して丁寧に言い聞かせる接し方をしようとします。

しかし、表面上は立派に見えるこうした親の態度は、子どもに心から納得させようとするものではありません。

実態は絶対的な親の力を背景にした押し付けに過ぎないのです。

このために、子どもは、内面で反発しつつも、その反発を表出できない自分に無力さを感じてしまいます。

こうした親の言葉は、建前だけが述べられて、親の生身の感情や要求と乖離していることがあります。

そうなると、子どもにとって「ダブル・バインド(二重拘束)」の状態となります。

ダブル・バインドという概念は、子どもが相反する二つの要請に応えることが求められ、どちらに応えようとも片方は満足されず、そのために、救いのない不安を背負わされる。

そのような状況をさしています。

たとえば、勉強しているとき、友達が遊びに誘いに来たとします。

子どもは「遊びに行っていい」と親に聞きます。

すると、親は「あなたの好きにしていいのよ」と答えます。

しかし、その表情は明らかに不快感を漂わせ、「遊びに行かないで、ちゃんと勉強しなさい」と語っています。

この場合、子どもは親の「好きにしていいのよ」という言葉に従って遊びに行けば、親の無言の本音の要請に反抗することになり、また、遊びに行かなければ、親の名言された建前の言葉に反抗したことになります。

どちらを選ぶにせよ、子どもは親に応えられない自分でしかあり得ないのです。

子どもが大きくなってもこうしたダブル・バインドにより、子どもに罪責感を負わせ、無価値感を強める親がいます。

「年頃なのだから異性の友達の一人くらい作りなさい」と言いながら、いざ異性の友達から電話がかかってくると、聞き耳を立て、「どなたなの、どういう方」と詰問するような口調になるなどです。

中学生や高校生になれば、子どもは、こうした親の言う事が欺瞞であり、自分への接し方が不適切であることを知るようになります。

それが反抗期を生み出すのですが、反抗すると親が傷つくので、ただ黙って表面だけ従っている賢い子どもも少なくありません。

しかし、なかには、親に反抗するほどの力さえ育てられなかったために、反抗できない子どももいます。

こうしたことのために、完璧な親が子どもにとって良い親なのではなく、「まあまあ満足できる」程度の親が良い親なのだ、と提言する心理学者もいます。

過度の願望を託す親

親自身の願望を実現させることを子どもに強く求める親がいます。

子どもを一流校へ入れようとする親、子どもを医者にしようとする親、スポーツ選手に仕立てようとする親、自分の跡を継がせようとする親などがそうです。

この場合、親が自分に期待してくれ、注目してくれるということで、自己価値感を強める子どももいます。

しかし、たとえ親の願望通りの地位を得ても、自らの願望の実現ではないので、心からの自信を得にくく、空虚感に苦しむことがまれではありません。

他方、親の願望を満たせない子どもは、親の期待に応えられない自分ということで、無価値感を形成してしまいます。

いっそう悲劇的なのは、こうした親は、子どもが期待に応えられる存在ではないことがはっきりしてくると、あからさまな失望を示すことも少なくないことです。

親自身ががんばりやで、一代で財を築いたとか、社会的地位を得たなどの場合、親は自分に課した厳しさを同じようにこどもに押しつけてしまい、子どもを肯定的に見ることができません。

このために、ほどほどの成績を上げているのに、深い無価値感に悩む子どももいます。

子どもに対する期待が親の生きがいになっているような場合、子どもが多少それに応える能力があると、過度のがんばりやになることがあります。

親を喜ばせることで自己価値感を獲得しようとするからです。

しかし、こうした過度の努力は、関心とエネルギーを狭い領域に限定し、柔軟な精神性の発達を犠牲にしていることです。

そのために、思春期以降に挫折を体験すると、もろく崩れてしまうことがあります。

いわゆる優等生の息切れタイプといわれる登校拒否などはこの典型です。

自己無価値感の強い親

自己無価値感の強い親のなかには、意識的、無意識的に子どもに自己無価値感をもたらす行動をしてしまう人がいます。

それは、子どもにより自分の無価値感を刺激されるからであり、

また、無価値感を子どもを利用して補おうとするからです。

自己無価値感人間は、愛されることにひどく執着するので、他の人が愛されていることに嫉妬してしまいます。

たとえば、子どもが自分以外の人に愛情を示すと、ひそかに嫉妬を感じます。

子どもが父親になつこうとすると、母親が感情を害するということもあります。

子どもが母親との世界に浸っていると、父親はのけ者にされたかのように感じてしまうというようなことも起こります。

祖父母の愛情を子どもと争ってしまう親さえいます。

祖父母の前で、子どもの親としてではなく、祖父母の子どもとして振る舞ってしまうのです。

祖父母が孫をほめると、自分の子どもがほめられたことを喜ぶよりも、自分の育て方がほめられたと感じ、祖父母が孫を叱ると、叱られていない自分を「良い子」と感じてしまう親さえいます。

ひそかに大人が子どもの愛を得る争いをしている養育環境では、子どもは大人の顔色をうかがい、愛情のバランスをとる努力を強いられます。

そのために、だれにでも愛情を分配はしますが、深い愛情を交換する姿勢が身につきません。

なかには、自分が注目を引くことが罪のように感じられ、影の薄い存在であろうとする姿勢を身につける子どももいます。

むろん大部分の親は、こうした嫉妬の感情をあからさまには表現しません。

しかし、子どもは親の微妙な表情や行動のなかに、なにかそぐわないものを感じとり、自分のどこかがいけないのだという疑念にかられるのです。

子どもを無力化する過保護、過干渉な親

親が自分の無価値感を補うために子どもを利用すると、過保護や過干渉になります。

過保護であることは、「この子のために自分はこんなに尽くしているのだ」という自己満足が得られますし、「自分はこの子に必要とされている」ということで、自己価値感が得られるからです。

過干渉はさらに、この子を支配しているという自分の力への満足や、自分がこの子を良い方向に変えているのだ、という自己高揚感をもたらします。

人は自分より弱い者に依存されることで、自己価値感が高まります。

そのために無価値感の強い親は、子どもが無力であることを無意識のうちに歓迎し、じっさいに無力化してしまうことが珍しくありません。

過保護や過干渉は、子どもを無力化するという点で大きな影響を与えます。

なぜなら、過保護・過干渉とは、子どもが自らの力で外界に対処する機会を奪い、外界に対処する諸能力の発達を妨害するからです。

また、過保護、過干渉とは「あなたには自分で対処する力がない」と親が暗黙のうちに決めつけていることであります。

親の子どもに対するこうした見方は、子どもに伝わり、子どもは自分を無力な存在であると受け止めてしまうのです。

さらに、過保護な養育環境は、成長することや自立することが親の愛と保護を失うという恐れと結びついています。

このために、子どもは無力なままにとどまろうとする心性を形成してしまいます。

過保護・過干渉の養育環境ではこのように自分の力への確信が育たず、自分の安全や欲求の満足は他人しだいだという心理状態がもたらされます。

そのために、子どもは他の人を自分のためにうまく利用しようとする姿勢を身につけます。

自分が依存できる場面や、依存できる相手がいるときには、恐れず自分を出せますが、依存が許されない場面では、自信のなさが顕著に表われてしまうことになるのです。

過保護とは、親が子どもの欲求や感情に屈服することでもありますが、それ以上に強制が多い養育環境です。

過保護はいつでも何らかの形の過干渉と結びついています。

なぜなら親は、子どもの感覚や感情を先取りし、子どもが感じないことを感じさせ、ほしくないものを押し付けるからです。

「お腹がすいたでしょ、これ食べなさい」「寒いでしょ、もう一枚着なさい」「風邪ひいたんじゃないの。薬のみなさい」「疲れたでしょ、早く寝なさい」「プレゼントもらって、嬉しいね。お礼を言いなさい」などなど。

親が先回りして欲求を満たしてくれ、親が先回りして感情を言語化してくれます。

このために子どもは現実とぶつからず、自分が感じているもの、自分の感情、自分の欲求を、生身の自分の感覚として体験しないままに済んでしまいます。

こうして、身体感覚や、感情、好みさえ希薄化していきます。

「お腹がすいた」とか「疲れた」ということが、本当はどんな感覚なのか、子どもの頃はわからなかった、という人がいます。

大人になっても、「本当は何が好きなのか」「本当は何をしたいのか」わからない。

「うれしい」「楽しい」「しあわせ」といった感覚が、本当はどんなものか確信が持てない。

そうした状況も生まれてきます。

現実とは、感覚や感情そのものにほかなりません。

ですから、このような状態がさらに進むと、自分という存在そのものが現実的なものとして感じられなくなってしまいます。

生きている自分が夢のなかの出来事のように感じられたり、離人感を持ったりするようになることもあります。

過保護、過干渉により無力化されて育てられたために、親に世話を焼かせる以外に、親の愛を得る方法が身についていない子がいます。

無力さを演じることで、自己価値感を得ようとする姿です。

ころんで怪我ばかりする子。

しょっちゅう体調が悪くなる子。

非行で親を悩ませる子。

借金を作ったり、仕事を転々としたり、異性問題を繰り返したりして、いつまでも大人になりきれない子。

親はこうした子どもを愚痴るけれども、心の隅ではこの関係に甘味を感じて満足しているところがあるのです。

過保護、過干渉は、見かけ上は子どもに依存させることですが、このように、じっさいには親が子どもに依存しているのです。

過保護、過干渉は、見かけ上は子どもに依存させることですが、このように、実際には親が子どもに依存しているのです。

過保護、過干渉を受け入れてくれる子どもを、親が必要としているのです。

そして、この関係は親が絶対的に立場の強い強制的な関係なので、子どもが自分からこの関係を脱することは不可能です。

そこで、子どもは親が自分に依存せざるを得ないという弱みを突いて、なんとか自己価値感を最大限満たそうと試みることになります。

ぐずったり、意固地になったり、わがままになったりして親をてこずらせる行動をとる子どもがいます。

虚言や窃盗、非行などで親を振り回す子どももいます。

このように、親と子がお互いの自己無価値感を満たそうとするきょう共棲的関係になって、最終的には引きこもりや家庭内暴力に至るような例もあります。

ここでは親に依存しながら、親を召使いのように支配する行為をとることがすくなくありません。

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論理や特権で丸め込む自己無価値感の強い親

自己無価値感の強い親のなかには、子どもが自分よりも劣位であることを確認させることによって、自己無価値感を満たそうとする人がいます。

子どもはこれを繰り返し体験させられることで、無能感や無力感が強まることになります。

具体的には、次のようなやり方が用いられます。

1.論理で言い負かす

幼い子どもを、かなわない論理で丸め込むことです。

「だからあのとき、ママが言ったでしょ」など過去の話を持ち出したり、あるいは、「みんながそうしたら、どうなると思うの」などと不当に論理を拡大するのです。

2.親の特権を使う

言うことを聞かなければ「お小遣いをあげない」とか「夕食を作ってあげない」など、親が持つ力によって、子どもに劣位を確認させることです。

この手法はもっと巧妙な細工が施されることがあります。

たとえば、明らかにわかっていながら母親が、「明日、お弁当いる?」などと聞きます。

「うん、いるよ」と子どもに答えさせることで、子どもが自分に依存していることを確認させているのです。

もっと自分の優位さを示したい場合には、「明日、お弁当いらないよね」と聞くのです。

この問いに対して、「ううん、いるよ」と答えさせることで、依存していることをさらに明確に確認させることになるからです。

表面上は子どもに献身的な親なのに、じっさいにはこの手法を多用していて、子どもに徹底的に無力感をもたらしてしまう親がいます。

3.不十分さを確認させる

子どもの落ち度を見つけて、補足し、「・・・しておいてあげたわよ」と言うなどです。

これは、「あなたには、まだ、まだ私の助けが必要なほど幼いのよ」と暗に伝えているのです。

この傾向が強い親は、子どもが自分で完全に物事を処理してしまうと、自分の存在価値が低減されたかのように感じます。

子どもはこの親の微妙な気持ちを読み取り、何かするとき、どこか不完全な箇所を残すという癖がつくことがあります。

4.愛情を剥奪する

「もうお母さん、知りません」「そんな子はうちの子じゃありません」など、親が子どもへ向ける愛情を引きあげてしまうことです。

子どもの哀願を無視する手法もよく用いられます。

幼い子どもにとって親の愛情が剥奪されることは、世界にたった一人で放り出されたようで、ひどく恐ろしいことです。

それなのに、この手法は暴力をふるうわけでもないので、親は自分を責める度合いが少ないのです。

このために、良心的な親が、これを切り札として用いていることも少なくありません。

5.暴力で従わせる

なぐるとか、押入にとじこめるなど、身体的な苦痛を与えたり、拘束したりすることで、親に対する劣位を肝に銘じさせる方法です。

直接暴力をふるわなくとも、「お父さんに言いつけるよ」などと、暴力をにおわす手法も用いられます。

以上、無価値感を持つ親が、子どもに無価値感を埋め込みやすいことを指摘してきましたが、むろん自己無価値感の強い親が、かならず子どもに自己無価値感を植え付けてしまうわけではありません。

自己無価値感に悩まされた賢明な多くの親は、子どもにはこの苦しさを味わわせないようにと、意識的に努力して、子どもにはしっかりとした自己価値感を育んであげようとします。

両親の愛に恵まれなかったSさんは、父親の姉である伯母の家で育ちました。

気性の激しい伯母は、愛憎半ばする感情をSさんに向け、「お前の父親は優秀だったんだから、お前も・・・」
という反面、「お前は親に捨てられた子」などと言い、出来が悪いとあざ笑うこともありました。

こうした養育環境のなかで、Sさんは自分が歓迎されていない子どもであり、よけい者であるという強固な無価値感に苦しみました。

このために、現在は家族の愛情を人一倍大切にし、「生まれてきて本当に良かった」と実感できる生活を与えてあげたいと願いながら、子どもと接しているといいます。

虐待される子ども

児童養護施設は、従来、親のいない子や親が面倒を見ることができない子どもを収容する施設でした。

ところが現在では、親はいるのですが、その親に虐待を受けている子どもたちで満杯の状態なのです。

2000年に施行された児童虐待防止法では、虐待を次の四種に分けています。

1.暴行を加えること
2.わいせつなことをおこなったり、させること
3.食事を与えないなど監護を著しく怠ること
4.ひどい心理的外傷を与える言動をおこなうこと

虐待された子どもは、自分が大事にされるに値しない存在であり、自分は愛されるほどの価値がないという信念を植え付けられます。

また、虐待は愛しているがゆえのしつけだと合理化されておこなわれていることが多いので、愛情と暴力とが切り離しがたく結びついてしまいます。

このために、こうした育ち方をした若者は、恋愛においても暴力的な要素が入り込みやすくなります。

すなわち、暴力を加えがちな異性に惹かれたり、愛していながら苛めてしまうということを繰り返すことになりがちです。

さらに、反復強迫といって、自分が親になったときに、子どもに虐待を与えてしまう傾向があるともいわれています。

性的虐待の体験は、とりわけ自分の性の拒否につながり、愛されることを素直に受け入れられなくなることがあります。

人によっては、性を異性に対する復讐の道具として使うようになることもあります。

言葉での虐待は、虐待と思われていないことがあって、他の三種の虐待に比べて、頻繁におこなわれています。

「あなたなんか産まなければ良かった」「堕ろそうと思ったのに」「やっかい者」など、虐待的な言葉は、子どもの心の深部に内在化し、この言葉に沿った心と行動へと導かれることがあります。

非行、精神的疾患、自殺未遂など、いっそう迷惑をかけ、親に嫌われる行動をすることにつながることがあります。

虐待とまではいえなくても、子どもを無価値感に陥らせる多くの言葉があります。

「男(女)の子だったら良かったのに」「〇〇ちゃんのような子なら良かったのに」「もう少しマシかと期待してたんだけど」「お前ならこの程度だな」「お前ビリなんだもの、恥ずかしかったよ」

虐待は一般に幼い時期に与えられるほど、その影響は深刻です。

幼い時期は、急速に心が形成される時期で、また、外的世界と戦う能力が未形成の状態だからです。

発達初期の心的外傷は、なんらかの形で人生全体を通して作用することも少なくありません。

ところで、虐待されている子どもが親を憎むようになるかというと、ことはそう単純ではありません。

自分は親から愛されず、虐待されているというあまりにもひどい事実を認めることは、徹底的に自己価値感を破壊してしまいます。

このために、虐待されていることを否認することで、本当は愛されているのだという幻想に寄りすがり、自己価値感を保とうとする心理が働くためです。

虐待されたり、捨てられたりした子どもでも、親を慕い、親孝行したいと思うのです。

「親の心子知らず」ではなく、むしろ「子の心親知らず」といっていいでしょう。

これもまた、親に愛されていることを信じることで自己価値感を保とうとする心理機制が影響しています。

自己無価値感の遺伝的な素質について

最後に、無価値感に陥りやすい遺伝的な素質について考えておきましょう。

すなわち、もともと無価値感を形成しやすい子どもと、そうでない子どもとが存在するだろうか、という問いです。

その答えはおそらく「イエス」です。

たとえば、過敏な神経系を持つ子どもは、自己無価値感を導きやすいと考えられます。

なぜなら、それは環境への感受性の鋭さとなり、外界のちょっとした刺激に、不安や不適合性を感じやすいからです。

あるいは、気分的に「うつ」に陥りやすい素質を持って産まれた子どもの場合です。

たとえば、脳内物質であるドーパミンは快感情に、セロトニンはうつ的気分に関係するとされていますが、そうした脳内ホルモンはある程度遺伝的な要因に規定されています。

遺伝的にうつ的気分に陥りやすい人は、いろいろな出来事を否定的方向に受けとめやすいので、自己価値についても当然否定的になりやすいと推測されます。

単純な身体的虚弱さも、自己無価値感に関係する可能性があります。

ちょっとした身体的異変がストレスとなり、外界との不適合感を感じやすいからです。

また、こうした素質の子どもは気むずかしく、親にとっては手のかかる子どもなので、親のほうもストレスや疲労感、子育てへの不安感を多く体験することになります。

こうしたことのために、柔軟性を欠いた対処や過保護・過干渉などになる可能性が増大します。

さらに、親が子育てを歓迎し、楽しむ心を弱める作用も果たす可能性があります。

競争の敗者と勝者

幼い時期には、ものごとの出来具合で競争することはありません。

幼い時期の競争は、親の愛を得る兄弟間の競争で、親に好かれようとする競争です。

このために、競争には嫉妬がともなうようになります。

また、愛情欲求が満たされない子どもほど、嫉妬心が強く、競争にこだわるようになります。

学校に入ると、同一時間に同一課題を達成することが求められます。

このために優劣の差が明確になります。

また、学力を中心とした達成水準で評価されます。

こうしたことのために、学校では他の子どもとの競争という意識が強められます。

親や教師も、意識的、無意識的にこの競争をあおり立てます。

基底的な自己価値感が確立していれば、この競争で多少敗北しても自我全体が脅かされることはありません。

現在の自分を受け入れ、子ども時代、青春時代をそれぞれ楽しみ、自分に満足しつつ生きていきます。

しかし、無価値感の強い子どもにとって、競争に負けることは価値のない自分であるという証明になってしまい、ストレートに自我を脅かされます。

このために、負けることを受け入れることができず、なんらかの形で勝利を得ようと大きな努力を傾けるようになります。

学校で成功するための能力が与えられた子どもの場合には、この競争は結果的に賢明な選択になるかもしれません。

彼らは学業成績によって一定の自信を自己価値感を確保し、これをよりどころに、自分の人生を作り上げるからです。

このタイプの人は、社会へ出てからも地道な努力を続け、一定の業績を上げ、人から評価され、信頼され、自信を獲得し、状況的自己価値感を高めます。

しかし、本当の自己価値感を形成するのは、自分の内からの目標への挑戦やその達成であります。

このようなケースでは、自分の人生目標を自己無価値感を埋めるための道具で置き換えてしまっています。

このために、基底的無価値感を根底的に払拭することはできません。

その子に適性がない場合には、勉強での競争で勝利するために、過大な努力が要求されます。

小学校レベルであれば、努力によって適性の欠如を補うことが可能ですが、中学や高校になると、努力だけでやっていくことは困難になります。

この段階で自分の適性との折り合いをつけて選択し直せば、その後の人生への現実的見通しに沿った努力ができるようになります。

しかし、この段階においても、勉強ができることに固執していっそう強迫的な努力へと向かってしまう子がいます。

どのような目標にたいして努力しているかではなく、努力そのものを評価する日本の教育では、この絶望的ともいえる努力さえ、好ましいものとして奨励されてしまいます。

こうした子どもは、勉強ができるということの虚しさを感じています。

勉強ができるということは、社会への準備ができているということを意味しないことを知っています。

逆に、勉強だけに縛られることで、社会を生きていく本当の力がついていないことを知っています。

自分は無内容だ、無能力だと、そんな感じを抱いています。

ですから、生活する力としての能力に自信が持てず、社会に出る頃になって強い不安を感じます。

自己価値感の形成にとって不利な環境に置かれ、その上、学校での成績を上げることでも不利な素質を持った子どもにとって、学校での競争は絶望的な状況です。

彼らは、通知票に並ぶ1や2の数字を、「まぎれもなく君は劣った人間だ」「確かに君は無価値な人間だ」という烙印として受けとめざるを得ません。

通知票を、無能力で、将来の見込みのない無価値な自分の証明書として実感せざるを得ないのです。

このような子どもたちの多くは、社会的な価値の達成で自己価値感を得る可能性に見切りをつけ、刹那的な喜びを追い求める生活を選択することにもなります。

容貌が自己価値感に作用する

小学校では、女の子も男の子も、勉強ができることへの価値を疑わず、多かれ少なかれ努力をします。

思春期になると、第二次性徴期を迎え、性的対象としての異性への関心が強まります。

このことにより、容貌という人を評価するまったく別な価値基準の比重が大きくなってきます。

とりわけ女子は、努力や達成力や誠実さなどの人格特性よりも、容貌が優先するという現実を頻繁に体験することになります。

身体的魅力を持つ女の子には、多くの男子の関心が集中し、多くの好意が寄せられます。

こうしたことのために、容貌が、その人の自己価値感に大きな影響を与えるようになります。

これまでにしっかりした自己価値感を持てなかった子どもは、自分の容姿が魅力的であることに気づき、身体への自信を得て、明るく積極的な性格へと変わることがあります。

しかし、この場合、自己無価値感を補うものが性的魅力としての容姿のみにとどまってしまうと、地道に努力することで生活を築いていこうとする態度が身につかず、もっぱら容姿を武器にする生活スタイルをとってしまいがちです。

容貌の上で不利な女の子は、これまでに築いてきた自己価値感が多かれ少なかれ侵食されてしまいます。

容貌は生まれつきのものであり、努力の対極にあるものですから、努力で無価値感を埋めてきた人ほど、努力の虚しさを感じさせられます。

そうした人のなかには、これまでの努力で作り上げた自分の全てを否定してしまいことがあります。

そうなると、新たな自己価値の方向を見出せず、諦めや恨み、自棄的色彩の強い性格になります。

なかには、自分の性的存在としての側面を切り捨てて、なお勉強だけにしがみつき、青春を勉強への努力だけで生きようとしてしまう人もいます。

大部分の女子は、現実の自分との折り合いをつけ、容貌の変えられない部分は受け入れ、その上で、より美しく変えられる部分に着目します。

そして、化粧をしたり、服装を選んだり、ダイエットによりスタイルを修正しようとします。

また、これまでの努力を継続することにより、自分の生活を作り上げていこうとします。

男子の場合も、上記のことは基本的にあてはまります。

しかし、男子では、女子ほど容貌が重要な評価軸にはなりません。

勉強ができること、スポーツで優れること、ひょうきんさ、何らかの特技など、自己価値感を得る多様な方法が存在します。

さらに、この時期、男子は文字通り大きな力を獲得しつつあることを実感します。

それは、身体が急速に大きくなり、腕力や体力で大人に負けないほどになることです。

この身体と力の強大化により、男子は大人になったという尊大な意識と、社会を自分生きていけるという思い上がった気分が湧いてきて、自己価値感の高揚を体験します。

これまで勉強でも特技でも目立つことができなかった男子のなかには、もっぱらこの体格と腕力で自己価値感を高めようとする人がいます。

それが、荒々しい言動、ケンカなど腕力での粗暴な行動、集団リンチなど反社会的行動として表われるのです。

体格や腕力での自信と努力とをうまく折り合わせることができれば、こうした自己価値感は人生を肯定的な方向に推し進めることになります。

自信のある体力や腕力を基礎に、ある職種の技能を身につけることで、仕事での充実感、満足感を体験します。

仕事への自信は広範囲な自己価値感へと広がっていき、ある年齢に達すると、腕力を誇示する必要性を感じなくなります。

これに対し、身体的自信を努力と結合できなかった青年は、いつまでも粗暴さや、荒々しさで人や社会に対処し、対抗し、反抗することになります。

こうした男子は、同じような仲間で集まり、仲間のなかでも、また、同じような他のグループとの間でも、力を誇示する争いを続けます。

青年期に身体的な自己価値感を獲得できない男子もいます。

それは、身長が伸びない、体格が貧弱、腕力や気力が弱い、運動神経が鈍い、容貌も優れない、徹底的に基底的自己無価値感情が形成されてしまったことなどがその原因です。

こうした男子は、これまでの延長線上の努力を継続することで、自己価値の維持を図ろうとします。

それは勉強であったり、幼い頃から習っていた特技であったりします。

しかし、これまでに地道に努力する習慣がついていない場合には、自分の世界に閉じこもることで自己価値感を守ろうとします。

そうして、親友のいない孤立した男子になったり、ゲームオタクになったり、さらには引きこもりやニートへと至るような場合もあります。

無価値感をもたらすショッキングな出来事

生きていくなかで、人は多かれ好かなかれ自己価値を左右される出来事に遭遇します。

このときに、基底的自己価値感が確固としていないと、そうした出来事によって深刻な影響をこうむることになります。

1.失敗

大事な場面での失敗は、自己価値を基底から突き崩すことがあり、「自分は駄目だ」という思いが一生残ってしまう人がいます。

中学一年生のとき、Aさんは、通っているピアノ教室で一番上手だということで、発表会の最後に演奏することになりました。

ところが、何でもない箇所を間違えて、混乱してしまい、最後まで弾くことができませんでした。

それ以来、長いことピアノに触れることができず、大学生になったいまでも、ピアノを見ると胸が苦しくなるといいます。

Aさんはもともと活発で明るく、「なんでもできる」と先生に言われた子どもでした。

小学校では、ずっとクラスの委員長であり、6年生のときには児童会長もやったほどでした。

しかし、その発表会での失敗をきっかけに、いろいろな面で自信がなくなり、引っ込み思案な性格に変わってしまった、ということです。

2.挫折

目標の達成を目指してがんばってきたのに、それが挫折したとき、その目標が自分にとって大事であればあるほど、無価値感に襲われます。

たとえば、就職試験に落ちると、多かれ少なかれ「あなたは無価値である」と通告されたように感じさせられます。

また、長いこと会社に尽くしてきた人が、降格されたり、リストラされるなどの体験は、いっそうひどい無価値感をもたらします。

3.いじめ

いじめのなかでも、とりわけ集団全体からいじめを受けることは、惨めな自分、無力な自分という感情を強く持たざるを得ません。

こうした状態が継続すると、怒りや憎しみ、反抗心などよりも、はるかに強い無価値感が心全体に広がってしまいます。

いじめられて自殺した子どもの遺書に、いじめた相手を非難するのではなく、「俺はだめな人間だ」「自分は弱い人間だ」と、自分の無価値さを責める言葉を残すことが少なくないのです。

4.失恋

失恋は、人によっては、自分の人生と生命さえも危険にさらす無価値感をもたらします。

恋愛とは、お互いのかけがえのない価値を感じ合うことであり、何よりも自己価値感を満たしてくれる体験です。

ですから、その関係が壊れることは、自己価値感をまともに直撃することになるのです。

5.レイプ

レイプされた女性は、むろんレイプ犯への怒りや憎しみの感情を持ちます。

しかし、同時に、自分が女であることへの呪いの感情や自責の感情を持ってしまいます。

自己無価値感の強い女性ほど、相手を責めるのではなく、自分を責めてしまいがちです。

さらに、自責の念には、「もっと早く帰れば良かった」など、自分の行為を責めることと、「誘いに乗ってしまった自分の心が弱かったからだ」などと、自分の性格を責めることとがあるのですが、自己無価値感の強い女性は、自分の行動を悔いるよりも、自分の性格を責める傾向があるのです。

そのために、いっそうひどい無価値感がもたらされてしまうのです。

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「外に出す自分」と「内に秘めた自分」のギャップ

自己無価値感の強い人は、自分の感覚、感情、欲求を抑えて、親に認められることを求めて、自分の心と行動を作り上げてきた人です。

このために、内面と外面との分裂が大きく、その分裂が、無価値感をいっそう強める作用を果たしています。

それは第一に、自分自身を生きていないためです。

努力や達成感が自己価値の感情を高めるのは、自らの内発的な課題に挑戦して、そうした目標を達成した場合です。

ところが、自己無価値感の強い人は、親の容認を得るための手段であったものが、自分の目的・目標にすりかえられてしまっています。

たとえば、幼稚園や小学校時代は良い成績をとることは、親を喜ばせる手段でしたが、中学、高校となると、これが内面化され、自分の目標となってしまいます。

このために、勉強がちっとも面白いと感じられないのに、良い成績をとることにこだわるようになります。

親に受け入れられるために自分を抑えて「良い子」でいたことが、やがて自己目的化し、「良い子」としての自分から離れられなくなってしまうのです。

このように、親の期待や意向を自らの課題にすりかえてしまうと、努力は辛さを増し、達成は空虚さを強めることになります。

「面白くない」とか、「嫌だな」という感覚や感情とは裏腹の行動をしなければならない自分。

こうした自分と自分の人生は空虚で、無価値だという感覚に至らざるを得なくなります。

自己の分裂が無価値感をもたらす第二の道は、虚構の自己像に逃げ込むためです。

思春期以降、自己の分裂が急速に拡大します。

すなわち、「外に出す自分」と「内に秘めた自分」とのギャップが大きくなります。

そして、外に出す自分は演技している自分であり、仮面の自分であり、かりそめの人生を生きている自分である、という意識が強くなります。

このために、「外に出す自分」は「偽の自分」だと思おうとします。

そして、内面の秘めた自分こそ「真の自分」だ、という思いを持ちます。

この「真の自分」は、卑劣で、淫らな「汚れた自分」であると同時に、「卓越した自分」であって、いじめる奴をやっつける力を持っていたり、文学賞の最年少受賞者であったり、将来のサッカーのスター選手であったり、だれからもうらやましがられるスタイル抜群の美人であったりします。

この「卓越した自分」によって、自己価値感を支えようとするのです。

しかし、この「真の自分」とは、イメージだけの虚構の自分でしかあり得ません。

ですから、いざ外界と接すると、そうではない事実としての自分の姿を確認させられ、自己価値感が大きく揺らいでしまうことになります。

このために、内的世界に閉じこもる傾向を強め、これまでの友達とのつきあいを制限し、また、つきあいはしても心の内は明かしません。

自己価値を脅かされる危険の少ないヴァーチャルな世界でのつきあいに向かう人もいます。

このようにして現実世界に働きかける体験が欠如すると、現実世界に対処する自信を獲得できません。

傷つきやすい自我のままにとどまり、その自我をいつでも守ろうとするために、つねに他人の目が気になります。

他の人から翻弄されているという感じになり、弱く脆い無価値な自分をいっそう意識させられることになるのです。

なかには、外界へ攻撃的に対処することで、この虚構の「真の自己」を守り抜こうとする若者がいます。

無価値感を高い虚構のプライドで補い、自分の優位を攻撃的な行動で確認しようとするのです。

こうした若者の表面だけを見て、自己尊大な若者と見誤ってしまう人もいます。

そして、現在の若者の高すぎる自己価値の感情こそ問題だと主張します。

しかし、こうした若者の心に多少とも丁寧に踏み入ってみれば、彼らの心の底に横たわる自己無価値感という鉱脈に突き当ります。

じっさい日本の子どもや青年の自信のなさ、自己価値感の低さは国際的に見てもきわだっているのです。

他の人の優れたところも、ありのままに受け入れること。

自分の劣ったところも、ありのままに受け入れること。

こうした姿勢をとろうとすると、自己価値感が大きく脅かされてしまうために、他者を見下し、尊大な態度をとり、これによりなんとか自己価値感を守ろうとする悲劇的な姿こそ、彼らの真の姿なのです。

自己価値感を守ろうとする反抗期

以上のように見てくると、反抗期が自己価値感の発達に対して持つ意味が理解されます。

子どもにとって反抗期とは、自己価値感を守ろうとする闘いの時期であるとは、すでに触れました。

ですから、自己価値感を脅かされるような養育環境でなければ、反抗期は生じません。

つまり、内発的成長力が妨害されず、また、自己価値が脅かされない幸運な環境に置かれた子どもであれば、反抗など必要としないのです。

しかし、完全にこうした環境を与えることなど不可能です。

このために、行動としては反抗が表現されなくとも、心のなかでの反発や、親に対する冷静な分析という形での反抗はなされているのが通常です。

ともあれ、こうした環境に置かれた子どもは、確固とした自己価値感を形成しており、自我の分裂も健全な範囲にとどまっているので、将来の問題行動につながることはありません。

さて、反抗期が生じる条件として、次のような要件があげられます。

第一に、自分の感覚、感情、欲求、要求、意思、願望などが価値あるものとして子どものなかに位置していることです。

赤ん坊でもほしくないものを強制されると拒絶し、怒ります。

やりたいことを妨害されると怒ります。

自分のやりたいことに介入されたり、親のやり方を押しつけられたりすることに、反抗します。

このように、「自分」が犯されることへの怒りや不当性を感じさせるだけの自己信頼が形成されていることが反抗期が存在する一つの条件です。

第二に、強い大人に対して反抗できるためには、自分の力への一定の自信が必要です。

第一反抗期は急速に運動能力や言葉の能力が伸びる時期であり、第二反抗期は、身体も頭脳も親に負けないほどに発達する時期です。

こうした自分の力への自信が、親や社会への反抗を出現させることになるのです。

第三に、親との間に絶対的な信頼感が形成されているという確信の存在が必要です。

反抗期における反抗とは、あくまでも甘えのなかでの出来事です。

反抗しても決定的に見捨てられることはない。

この確信があるからこそ、子どもは親に反抗できるのです。

反抗期は親子が発達を遂げるチャンス

子どもにとって、それまで絶対的な存在であった親に反抗できたということは、自分の力へのいっそうの確信を得ることになります。

大人と「対等に」戦えたということで、自分が一歩大人に近づいたという自信がつきます。

こうした反映として、第二反抗期以降、親と対等の口をきくようになるなどのことが見られるのです。

親の側からすると、反抗期によって、「いつまでも自分のいいなりになる子どもではない」という事実を確認させられます。

これにより、反抗期は、親の子離れをもたらすのです。

すなわち、親は、子どもをたんに未熟な存在としてではなく、自立しつつある一人の人間として見る姿勢を強め、そして、それに応じた接し方をするようになるのです。

この親の側の接し方の変化は、自分が成長したという自覚と自信を子どもに与え、自己価値感を高揚させることになります。

このように、反抗期とは、子どもの一定の自己価値感をもとに生じる現象であり、反抗期を適切に通過することで、子どもの自己価値感を拡大する作用を果たすのです。

このことから、反抗期がない子どもの問題点が明らかになります。

第一に、反抗できないのは、確固とした自分が存在していない場合

反抗してでも守るほどの自己価値が存在しないのです。

自分の感覚、自分の感情、自分の願望、自分の意思、そうしたものが掠め取られてしまった子どもなのです。

第二に、自分の力への自信が持てない場合

すなわち、自分が大人に反抗できるほどの力を持っていると、自分を信じ切れないのです。

反抗できるほどの力を持っていないため、教師の理不尽な言動にただ服従していた体験を持つ人は多いのではないでしょうか、これと同じことです。

第三に、親に対する絶対的な信頼を形成できなかった場合

反抗できるほどの甘え、また甘えさせる関係が成立していないのです。

反抗すれば「勝手にしなさい」「家を出て行け」などと、見捨てられる不安の方が強いのです。

親が感情を害しやすいので、反抗はいっそう悪い状況を引き出し、それが持続するという恐れがあり、あるいは、父母の不安定な関係がいっそう悪化し、最悪の結果さえ予測されます。

そもそも親が自分のことで精一杯で、自分が反抗したら、対処不能なほど混乱してしまう。

こうした場合には、子どもは内面に敵意や憎しみを蓄積しつつも、反抗を控えざるを得ないのです。

反抗期の欠如は、反抗期を通して獲得される力への自信が得られないままになってしまうことであり、また、親離れの機会を失し、親の介入、支配を継続させてしまうことでもあります。

このように、基底的自己無価値感は反抗期を奪い、反抗期の欠如は自己無価値感を強化してしまう作用をするのです。