心温かい人の人間関係
なぜ虚勢を張るのか
心温かい人間関係とは、たとえば、歳をとってからの友人を言えば、お茶を飲みながらどうと言うこともない世間話をしたり、お互い、日常的な小さなことでも困った時に助け合ったりということがイメージされる。
そしてそれは、一年に二回ぐらい何かの会合であったり、一年に一回のゴルフのコンペで会うということではない。
心温かい人になりきれないナルシシストは、現実をあるがままに受け取ることができない。
自分のナルシシズムに適合するように世界を変形して受け取る。
ヒトラーやナポレオンは、自分たちの信者を発見し、批判者を弾圧した。
そして、自分を神だと信者に思い込ませようとしたし、信者もまた神だと狂言従った。
こうなると、まさに石が流れて、木の葉が沈むことになる。
しかし、彼らのような例外を除いて、普通の人は、自分は神であると他人の同意を求めることはできないし、力でもって同意を強制することもできない。
ところで、もしヒトラーやナポレオンやシーザーが神になれなかったらどうなるか?
つまり、彼らが現実の世の中で、世俗的な意味で挫折したらどうなるか、と言うことである。
まず第一は、眼が覚めてまともな人間に向かって歩き始める。
第二は、自殺するか、他人を殺すかする。
第三は、自分が神になれない代わりに誰かを神にする。
人々が「神様、神様・・・」ある神を狂信するのは、この第三のケースである。
間違った方向に歩み続けた人間が、現実に挫折して始めるのが狂信である。
自分が神になることに失敗した人間が、狂信できる神を必要とする。
間違った方向とは、つまり他人との間に橋をかけて行こうとするのではなくて、自分の周囲に城壁を築いて他人から自分を守ろうとする方向である。
あるヒステリー―の人がいる。
彼は虚栄心が強くて、いつも自分を実際以上に見せようとしている。
他人は別にその人をバカにしようと、絶えず様子を窺っているなどと言うことはないのに、その人は他人に対して絶えず「馬鹿に等されないぞ!」と肩を怒らせている。
彼はあらゆる人に向かって虚勢を張る。
去勢そのものが性格と思われるほどにまで虚勢を張り続ける。
時には逆に、気が引けて、自己卑下して他人に迎合していく。
虚勢を張るのも、自己卑下して他人に迎合していくのも、心理的には同じことである。
いずれにしろ、はたから見ていると、あれでは疲れるだろうなと思うほど虚勢を張る。
そして、嘘が多い。
その人のもの凄い話はどこまで信じていいのか、どこまで嘘なのかわからない。
「オレの友人は日本を動かしている大物ばっかりだ」などと言った種類のことを、絶えず言いふらしている。
もともと、友人という言葉の意味を、この人は理解できていないのである。
つまり、人間の愛情とか信頼とかいうことを理解できていない。
心温かい人の心理
心温かい人間関係とは、お互いに小さな居間などで、今の若者の悪口でも言いながらお菓子をつまむ、あるいは近所の川などに、安い釣竿を持って一緒に魚を釣りに行く、そして川べりで、例によって例の如く若い頃の自慢話をいつまでもしている・・・そんな間柄が年を取っての友人なのであろう。
それを、おずおずと会ったり、虚勢と嘘で固めて年に一回「やあ」などとホテルやゴルフのコンペで会うのは友人と違う。
ある時、嘘が多く虚勢を張っている人が、遺産で、生活には不必要な家を建てた。
それは巨大な家である。
巨大な家によって、その人は他人から自分を守ろうとしたのである。
他人は、決してその人の欠点を見つけて攻撃しようなどとしているのではない
ところが、劣等感から虚勢を張っているその人は、敵の中で生きているように錯覚しているから、何かで自分を守ろうとする。
その手段が、生活には全く不必要なほど豪勢な家なのである。
この人は小型シーザーである。
友人というのは日本の指導者でなければならず、他人と接するには豪勢な家でなければならない
世間の人は別にその人に向かって弓を引いているわけではない。
その人は失敗を恐れて、自分が試される機会をことごとく避ける。
したがって、嘘と言い訳で固められた人生になってしまう。
そこで、弓矢に向ける盾として豪勢な家が必要になる。
この人は、このおかしな盾を持つことによって、いよいよ弓矢を恐れることになる。
決して飛んでこない弓矢を恐れて、より強固な盾を作ろうとする。
また、他人を見ればすぐに利用しようとする。
自分の劣等感を刺激する者には仮借なき非難を浴びせて、執拗に憎む。
勝ち気で自己中心的。
勝ち気ということは、事実をそのまま認めることができないということである。
彼もまた自分の欠点を認めることができない。
自分の幼稚さを認めることができず、自分は大物であると曲げて解釈する。
彼は心の冷たい人である。
心の冷たい人が心温かい人間になるためには、まず自分の心の冷たさを自分で認めることである。
自分の心の冷たさを自分が受け入れることによって、心温かい人間になっていくことができる。
しかし、勝ち気で自己中心的な人にはこれができない。
そして逆に、自分が愛情深い人間であるかのごとく自分にも他人にも振る舞う。
本当の愛情がないだけに、必要以上に自分にも他人にも愛情が強いような”ふり”をする。
常に自分の心の冷たさをむいしきにおぎなおうとしているので、態度がオーバーになる。
普通よりはるかに打算的だからこそ、無理に鷹揚に振る舞う。
オーバーで不自然な愛情表現の裏には、ゾっとするような心の冷たさがある。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するにはまず自分の心の冷たさを自分で認めることである。
自分の心の冷たさを自分が受け入れることによって、心温かい人間になっていくことができる。
我執の人は本質的に冷たい人である。
だから、心温かい人とつきあわなければならない。
「温かさ」とは、骨惜しみしないということである。
冷たい人は、骨惜しみする。
心温かい人は、他人のために骨を折ることを苦痛には感じていない
いや、むしろ逆に楽しんでいる。
この点が、我執の強い人に育てられた人にはどうしても理解できないところなのである。
しかし、この点こそ、自己無価値感、負い目の苦痛から解放されるためのポイントでもある。
負い目のある人、自己無価値感に苦しんでいる人は、人に何かしてもらうと、どうしても何かお返しをしなければならないと思ってしまう。
他人と1時間喫茶店で話しても、その相手に自分が何らかの利益を与えなければならないと感じてしまう。
幼児の頃から親に話をしてもらったのである。
話し合って楽しんだのではなく、してもらったのである。
だから、そのお返しをしなければならない。
我執の強い親に育てられた人は、どうしても、自分と話してくれる人は迷惑しているだろうと感じてしまう
相手は自分と話して楽しんでいる、だから自分は何も相手につくさなくてもよい、ということが理解しにくい。
心の温かい人は、相手に世話することを楽しんでいる。
したがって、心の温かい人に世話してもらったからといって、そんなに心の負担を感じる必要はない。
世話をされたことで、もう相手にお礼はできている。
ところが、このことが、我執の強い人、つまり心の冷たい人に囲まれて育った人には理解できない。
心の冷たい人にとって、相手を世話することは、嫌なことなのである。
迷惑をかけられたことになる。
だから世話をされたほうは、心の負担を感じなければならない。
心の温かい人は相手を受け容れるが、心の冷たい人は相手を所有する
所有するということは、自分の原理を押し付けるということである
たとえば、恋人を所有している人は、恋人が自分と関係のない世界で楽しい時を過ごすことを喜べない。
我執の強烈な父親は、息子が自分の世界から巣立っていくことを喜べない。
ところが心の温かい人、相手を受け容れることのできる人は逆である。
つまり、自分の恋人が自分と関係のない友人たちと楽しく過ごしたということを聞いて、うれしく思う。
同じことを一方は嬉しく思い、他方は不愉快に思うのである。
自分の存在に負い目を感じている人、無意味に苦しんでいる人は、自分のことをまったく逆に感じる人々がこの世にいるのだということを納得できない。
彼らは、地獄の人々に囲まれて生きてきたのである。
生きることが地獄となっている奥さんに、ご主人が、友人と楽しく酒を飲んできたといえば不愉快な顔をされる。
しかし、生きることが天国である奥さんに、ご主人が、友人と楽しく酒を飲んできたといえばどうなるか。
奥さんは「ああ、よかったわね」と、うれしそうな顔になる。
したがって、楽しく酒を飲んできたことに負い目など感じる必要はない。
自己無価値感に苦しむ人々は、我執の人の役に立つか、それとも役に立てなくて不愉快な顔をされるかしながら生きてきたのである。
このようにして育てば、誰だって、付き合いに自信がもてるはずがない。
対人恐怖症、社交不安障害を克服したい人は、我執の人の所有をくぐり抜け、心温かい人と付き合うことである。