負い目から逃れる人

負い目を感じる心理とは、他人とあるがままに接しなかった結果である。

そして、負い目を感じることは素直な自分で向き合わなかったことが無意識に後悔に変わっていく。

また、その負い目から逃れようとすればするほど後悔は大きくなり、結果的に負い目を感じる心理は強くなっていく。

素の自分で他人と接すれば、負い目を感じる必要もなくなる。

そんな負い目を感じる心理と対処法について記してみたいと思う。

負い目を感じる心理

人はあるがままに他人と付き合わなければ、様々な形となって症状が現われることになる。

ある人は、あがり症になったり、またある人はよく眠れなくなったり、ある人は負い目を感じるようになる。

またナルシシストは無意識下で負い目を感じている。

そして無意識に弱い人に負い目を攻撃に転換して発散するのだ。

負い目を感じる人は、ありのままの自分で他人と接して、人間関係に本当の意味で上下などないのだということを認識することだ。

会社の上司と部下は上下関係があるではないかと思うかもしれないが、それはあくまでビジネス上でのことだ。

友達にお金を貸して、なかなか返って来ない。

恥ずかしがり屋の人は返してほしいけど、なかなか「返して」と言いだせない。

そして、負い目を感じてしまう。

それは、言うと相手嫌われるかもしれない。修羅場を呼ぶかもしれないと思うから。

人は晴れた日に公園を散歩しているだけで楽しい。

夜になると月が見えるだけで幸せを感じることができる。

しかし、負い目を感じている人は、そうしたささやかな幸せを感じることができない。

負い目を感じるとは

負い目を感じるとは、やってしまったこと、あるいはやらなかったことに後悔し、それをいつまでも引きずる心理状態にあることである。

そして、それは苦しく、生きるエネルギーを消耗する。

なぜ、生きるエネルギーを消耗するか、言ってしまえば、なぜ負い目を感じるか、それは自信がないからである。

やっていることに自信がなければ負い目を感じて当然である。

また、負い目を感じることが苦しく、負い目から逃れようとする人もいる。

それは真に負い目から解消されることではなく、歪んだ負い目の消し方である。

その心理を記してみたいと思う。

第一の負い目から逃れる人は恩着せがましい

負い目を感じる苦しむ人の対人反応の第一は、このように、気分がひかる、あるいは、尽くすということである。

しかし、第二の反応はこれと正反対である。

身近な人間に負い目を負わすことで、自分の負い目から逃れようとする。

おまえのような酷い女と付き合ってやっているなどと恋人を非難し責めることで、負い目から逃れようとする。

その人がいかに酷い女であるかを強調し、その女性が自分は酷い女だと思い込んでくれれば、恋人との関係において負い目から逃れることができる。

恋人の条件が悪ければ悪いほど、安心感を得られる。

ある抑うつ的男性が恋人について次のように語った。

「恋人の父親が死んだということを聞いた時ほど、なぜかほっとしたことはない」

父親もいないお前と付き合ってやると男性が思い、そんな私とつきあってくれていると女性が思えば、この負い目に苦しむ男性は救われる。

負い目に苦しむ人間にとって、”私のような人間が”というような、相手の自己を卑下した発想程救いになるものはない。

また、ある抑うつ的女性が自分の恋人の評判について次のように語った。

「その人がいないところでみんながあの人の悪口を言っている時、ああ、あの人が聞いていてくれたら、と思いました。」

つまり、こんなに評判の悪いあなたと、私は付き合ってあげると思えることで、彼への負い目から解放されるからである。

生きることに喜びを味わっている人であるならば、恋人の親の死の知らせに接して、ああかわいそうだ、なぐさめてあげたいと思うであろう。

しかし、負い目に苦しむ人は逆で、ああよかったとなる。

愛情豊かに育った人であるならば、
自分の恋人が陰口をたたかれているのを聞けば弁護したくなるであろうが、負い目に苦しむ人は逆である。

第二の負い目から逃れる人は相手を傷つける

相手を傷つけることで、自分の負い目の苦しみから逃れようとする者は恐ろしい。

弱い立場にある相手をとことん傷つけるからである。

負い目を生み出すのは親子関係でも同じである。

子供が失敗して自分が助けてやらなければならないことを喜ぶ。

親の子に対する恩着せがましさは、今まで述べてきた通りである。

何かの本に、親は自分の荷物が重くて持てなくなると、それを子供に渡してしまう、というようなことが書いてあった。

このことは負い目を負った親に良くあてはまる。自分に対して子供が負い目を感じることで救われるのである。

したがって、子供が自分に負い目を感じるようにしむけていく。

そのためには傷つけつつ世話をすることである。

相手が自分から離れられないようにしたうえで傷つけていく。

負い目を負った者の対人反応の第一は、絶えず気が引けていたり、とにかく他人のために尽くしたいということであり、第二の反応は、相手を傷つけて、相手を自己卑下させて、自分の負い目から逃れようとすることである。

これは正反対のようであるが、ともに自分の存在理由を自分なのかで見つけることができず、他者へ逃避しているという点では同じである。

第一と第二は表面的に正反対であるが本質は同じなのである。

たとえば、第一の”他人のために尽くす”という対人関係の在り方を考えてみよう。

生きることに負い目を負った父親が、いつも家族の為だけに生きているとする。

この父親は愛情があるわけではない。

とすれば、
恩着せがましくなってくる。

対人反応の第一の様式と第二の様式は紙一重である。

いつも家族の為だけに生きていながら、家族の気持ちを大切にするわけではない。

家族が、それぞれ何を望んでいるかを理解できるわけではない。

ただ事物のためにいきるのと同じように、家族のために生きているのである。

このような人は”他人のために尽くし”ながら関係者にとっては押しつけがましく感じられて、なんとはなしにうるさがられている。

やることは立派なのだけれど、どうも注意の人に親しまれないという人が、このタイプの人である。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには負い目から逃れようとしている人と距離をとることである。

べき思考が与える影響

負い目を感じる人は何々すべきという思考に影響を受けている。

ご飯は残さず食べるべきという思考を持った人が、会社の上司が誘ってくれたランチを緊張してほとんど喉を通らず、残してしまった。

そして、やってしまったなと負い目を感じる。

何々すべきという考え方は小さい頃の親の躾けによって作られるもので、心の底に根を生やしている心理でやっかいなものだ。

しかし、実際パニックになっているのはその状況ではなく、その人の頭の中である。

つまり、客観視すれば、それはたいしたことは無いのだ。

負い目を感じる人は、それは本当に恥ずかしいことなのか、そして本当に嫌な人は誰なのかを客観的に見つめてみることが大切である。

やって後悔するかやらないで後悔するか

根拠のない自信の無い人は、やっても、やらなくても後悔する。

そして負い目を感じるようになってしまう。

逆に、根拠のない自信のある人はやってもやらなくても後悔しない。

トラブルが起きても、それに対応するエネルギーもある。

つまり、何をやった、やらないの内容は負い目を負うか負わないかには、ほぼ関係ないことになる。

負い目を負わせる側の心理

負い目を負わせる側の心理

生きることに負い目を負わされた人間の側から見れば、この人間はいくら非難しても非難しすぎることはない。

しかし、彼がそうすることにも、もちろんそれなりの理由がある。

彼にとっては自分が生きるために、やはりそうする必要があったのである。

負い目を感じる人間は、最も身近な人間に負い目を負わすことで、自分の負い目の苦しさから逃れようとする。

つまり相手に負い目を負わせた人間もまた、負い目を負っていたのである。

負い目を負った人間は、まず当然のことであるが、他人からあらゆる点において借りを作ることを避ける。

恩着せがましく育てられた人間は、とにかく恩をきることを嫌がる。

他人から借りを作ることが苦しい。

当然のことながら、他人にものを頼むのが嫌である。

他人にものを頼むことは、負い目をさらに大きくすることだからである。

したがって、他人に何かしてあげることはあっても、他人に何かしてもらうことは避けようとする。

どうしても自己を主張できない。

ほんの小さなことでも他人に頼めない。

負い目に苦しんでいる以上、他人の助力は、土下座しても償えない気持ちになる。

とにかくいつも気が引けているのである。

コーヒーを飲もうということになって、どの店に入るかということさえ、他人に譲らざるを得ない。

いわんや何を食べるか、和食か洋食かなどと言うことになれば、すべて他人優先。

他人に譲っている方が心理的に楽なのである。

自分の好みを主張すると、負い目が増してしまう。

絶えず気が引けて、絶えず他人に譲りながら、絶えず何か不満である。

それでも自分の好みを主張して借りを作るよりはいい。

テレンバッハの「メランコリー」に次のような一文がある。

「他人との関係は、尽くすということを媒介として営まれる。

メランコリー親和型の人は、決して無条件にものを受け取ることができない。

他人から何かもらうと、すくなくともそれと同等の、たいていは何倍ものお返しをする。
他人からの借りを作ることができず、他人からの恩義を背負いたくないからである。

具体的な尽力を伴わないで、ただ純粋に他人のためにある、というようなありかたは、彼には考えられない。

自分がただそこにいるだけで他の人を幸福な気持ちにしたり、喜ばれたりすることができるようなどという考えは、そのような人には到底受け入れられない。

・・・ある1人暮らしの女性メランコリーが「私は自分がすべきことをするということによってしか、他の人への要求を出せません」といっているのは特徴的である。

マトセックらが、次のように書いているのは正しい。

「愛は、うつ病者によっては、独自の個性を持った独立の人格を肯定することとしてではなく、相手の愛を要求しうるために必要な行為の遂行として生まれる」-

彼はさらに、うつ病の男性においては性的ないとなみですら「妻に対する真の愛情関係の表現などと言うものではなくて、それによって妻を満足させなければならないという愛の仕事」であると述べている」

負い目を感じる人は根拠のない自信をつけよう

負い目を感じる人は根拠のない自信をつけよう
負い目を感じやすい人は自信がない人に多く見られます。

なぜなら、自信がない人は後悔しやすいから。

しかし、自信をつけるといっても、官僚のエリートだからとか英語がペラペラに喋れるからといったような理由づけた自信では負い目を感じてしまいます。

そこで必要なのは根拠のない自信である。

しかし、根拠のない自信のつけ方がわからない人も多いかと思います。

根拠のない自信のつけ方は、背伸びしない楽な自分で他人と接することである。

例えば、大勢の人前で話すとき、緊張して声が震えてしまう人などは、むしろ声が震えてしまった方が楽なのです。

すると、生きるエネルギーがみなぎってきます。

これが根拠のない自信である。

しかし、楽な自分を無意識下へ抑圧してしまっているため楽な自分とはどういうものかわかならない場合があります。

その楽な自分を見つけるには、本当に嫌な人は誰なのか、本当にやりたいことはなんなのかを改めて深く考えることがまず初めの一歩として大切です。

また、根拠のない自信のない人は、コップに水がない方ばかりに目を向けがちです。

しかし、コップの中の水は実はオレンジジュースじゃないかといった個性を伸ばすことで根拠のない自信が得られます。

根拠のない自信を持つと、自分を信じているから負い目を感じることは無くなります。

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負い目を感じる人は他者との心理的距離を離してみよう

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負い目を感じるのは、たいてい半見知りの人だ。

仲の良い友達には負い目を感じることは少ない。

かといって電車に乗っている隣の席に座っている初めて会う人に負い目を感じることも少ない。

それは適切な心理的距離が保たれているからである。

負い目を感じやすいのは会社であれば、そこまで仲良くない同僚、学校でいえばクラスメイトである。

これらの人とは心理的距離が近くなりすぎて苦しくなっているのだ。

イメージでいうとピント糸が他人と張った状態である。

この近すぎる心理的距離を電車の隣に座っている他人のように遠く離すことだ。

まとめ

負い目を感じる心理としては、ありのままの自分で人と接しなかったことで申し訳ないなどの感情が沸き上がるのが根本的な原因である。

負い目から逃げる人は、恩着せがましく、相手を傷つける。

根拠のない自信をつけて後悔を無くす。

他人との心理的距離を離すことで負い目から解放される。