”なすべきこと”と”できること”をきちんと見定める
負い目についてテレンバッハの「メランコリー」に、「自己の要求水準に遅れをとるという、かかる事態の本質をなすものは、あらゆる場合において負い目を負うことである」と明記されている。その通りであろう。
自分のなすべきことへの要請が大きすぎる。
したがってその要請を果たせない。
ここから負い目が出てくる。
しかし、彼が考えているなすべきことは、本来彼のなすべきことではないのである。
「他人の疝気を頭痛に病む」ということわざがある。
他人の腰や腹が痛いのは自分の責任ではない。そんなことで頭痛になることはないのである。
前にも述べた通り、卵を見て、時を告げることを期待した人がいたら、その期待した人が悪いのである。
時を告げられない卵が負い目を感じることはない。
性生活においても、夫に負い目を感じて、うまくいかない女性がいる。
彼女の自分に対する要求水準が高いのである。
夫を喜ばせなければならないと感じてしまう。
夫を喜ばせることは自分の義務であると感じてしまう。
夫が喜ばなければ彼女は憂鬱になる。
それは男性の性不能についても同じである。
相手の女性が喜ばなければ負い目を感じ、喜ばせよう喜ばせようと気持ちが焦り、不能に陥っていく。
絶えず恩に着せられ、何かあると迷惑そうな顔をされながら育った人は、今、ただここに生きていることにさえ、負い目を感じてしまうのである。
負い目に苦しんでいる人は、幼い日、周囲から要求されることが大きすぎたのである。
こうして成長し、社会人となった彼らが客観的に休息する時間はあっても、心理的に追い立てられて休息できないということも、理解できるであろう。
休日でも休めない人、休日にゴルフに行くと奥さんに責められているような気持ちになる人、他人の不機嫌になんとなく巻き込まれて嫌な気持ちになる人、他人が喜ばないと自分が責められているように感じてしまう人、これらの人は、みんな同じことに苦しんでいるのである。
前者は仕事に現れる負い目であり、後者は人間関係に現れる負い目である。
いつも仕事に追われている方が気が楽な人と、いつも他人のために尽くしている方が気が楽な人は、ともに生きることの負い目に苦しんでいるのである。
どちらも、自分自身に遅れをとっている。
自分の要求水準を実現できなくて焦っているのである。
絶えず負い目を感じながら生きている人は、あるべき自分と実際の自分との隔たりがあまりにも大きい。「夜と霧」の著者、ヴィクトル・フランクルの言葉を借りるなら、まさに”越えられぬ深淵”なのである。
仕事における自己に対する高すぎる要求水準であろうと、なぜそんなにまで高い要求水準が出てきたのか。
それはいうまでもなく親の高すぎる要求を内面化したからである。
仕事や試合や試験を前にして、不安な緊張にとらわれ、力を発揮できないことは”かたくなる”ことの原因である。
これもやはり要求水準が高いからなのであろう。質においても量においても要求水準が高い。
彼は見事にそれをやらねばならない。
幼い日、失敗すると親に失望されてきづついたことについては前に述べたとおりである。
「あなたは私を失望させることはできない」
このような親を持った子供は、決して生きることに負い目を感じないであろう。
対人恐怖症、社交不安障害を克服したい人は「あなたは私を失望させることはできない」と何度も何度も頭の中で言い聞かすことである。