”自分をダメにする愛し方”
相手が独身だと思って尽くしていた女性がいた。
男性の側が、自分は独身であるとウソをついていたからである。
ところが、それがバレてしまった。
その時、「くやしい!」となる。
自分の青春を相手のために捧げていれば捧げているほど、「くやしい!」と感じる。
「もう二度と返らぬ自分の青春を、よくもこんなにメチャメチャにした」と相手をのろうことになろう。
しかも、どんなにあがいてみたところで、自分の青春が返ってくるわけではない。
相手を殺してしまいたいが、行動に移すとなるとやはりためらいがある。
自分の人生をメチャメチャにされながらも、相手に復讐することもできない。
相手から酷い目にあわされながらも、どうすることもできない無力感、これが”くやしさ”であろう。
憎しみプラス無力感が”くやしさ”なのである。
多くの女性が”くやしさ”に耐えて生きている。自分の愚かさを受け容れるよりも、相手を憎んでいる方がたやすいからである。
そんなひどい男と恋に落ちるということは、自分の側にも心理的な弱点があったからなのである。
それが虚栄心であるか、父親コンプレックスであるか、何であるかはわからないが、何らかの弱点があったから騙されたのである。
甘い汁を吸おうとしたか、利己主義であったか、劣等感が強かったか、何であったか・・・とにかく何かの弱点に付け込まれたのである。
たびたび人を騙す人間でも、誰でも彼でも騙せるわけではない。
やはり、騙しやすい人というのがいるのだろう。
ずるさは弱さに敏感であると前にも書いたが、ずるさは敏感に相手の迎合を見抜く。
他人に迎合する弱い人間を素早く感じ取って、騙す。
他人の称賛を必要とするような劣等感の強い人間は、その弱点を利用され、お世辞を言われていいように操作されてしまう。
商売とは相対の騙しあいだ、と言った人がいる。騙される方が悪いというのである。
確かに、騙される人間というのは、なんらかの弱点をもっているのだろう。
もちろん、だまされたほうは「それはそうだけれども、いくらなんでもこれはひどいじゃないか」と言うだろう。
相手を信頼していたからこそこうしたのだ、あの人を信じていたからこそああしたのだ、と思えば、どうしても相手を許せなくなる。
相手を信じる気持ちが強ければ強いほど、裏切られた時のくやしさの感情は強い。
「あんなに温かい言葉をかけておいて」「あんなにやさしい態度を見せておいて」それでもってこんな・・・許せない、くやしい!
と騙された側は感じる。
しかも、騙された私はこんなにみじめな生活をしているのに、騙したあの人はあんなにのうのうとした安楽な生活をしている、あの人はあんなに皆にチヤホヤされているのに、私はもう誰も相手にしてくれない。
世の中なんて信じられない、許せない・・・くやしい!
確かに、この人の感じるとおりであり、主張する通りである。
確かに「あんなにやさしい言葉をかけておいて」と思うにちがいない。
しかし、もしこの人に弱点が無かったらどうであろうか。
自分の心が冷たかったから、相手の心の冷たさを見抜けなかったのではなかろうか。
もし自分が心の温かい人間であったら、「なんかあの人の温かい態度って、わざとらしくて信じられない」と感じたかもしれない。
「あの人のいうことをしんじたからこそ、自分の青春を賭けて尽くしたのだ」というのも本当だろう。
しかし、自分が他人に対して本当の愛情をもっていたら、「なんかあの人の愛情表現って不自然だなあ」と気づいたかもしれない。
「あの人の主張する愛情や温かさは、幼児的依存心にすぎないみたい。本当の愛情や温かさとは全く違う」と言った言葉で理解はできなかったとしても、「なんかあの人は冷たい」と感じたはずなのである。
また、相手があなたを騙そうとして騙した時も同じである。
「この女は虚栄心が強い」と見抜かれたのである。
適当におだてられて遊ばれて捨てられたのである。
「もう男なんか信じられない」とその時思うのは当たり前である。
しかし、時がたって成長してみれば「どうして私は、あんな見え透いたお世辞に踊らされたのだろう」ということを感じるに違いない。
虚栄心がなくなってみれば「どうしてあんな見え透いた・・・」となるのである。
騙す方にもいろいろあろう。
あいつを騙してやろう、と思って騙すこともあろう。
あるいは、相手がヒステリー性格で、自分の心の冷たさを自分で抑圧していて、逆にオーバーな愛情表現をすることもあろう。
最大級の愛の言葉が並ぶラブレターを書く。
しかし、本当の愛情など全然ない。
こんな誇張された偽りの愛情を真に受けて、恋愛関係に入り、ズタズタになって捨てられる。
これは、二人ともが本当の自分の姿に気付いていないから起きることなのである。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するには、本当に心の温かい人を見極める眼をもつことである。