人付き合いが怖い

人付き合いが怖い

今まで楽しかったことが楽しくなくなる。

今まで人と会うことが楽しかった。

でも人付き合いが怖くなり出すと、人と会うのが億劫になる。

今までは会うのが楽しかった人でも、会うのが億劫になる。

今まで興味があった、その同じ勉強でもする気にならなくなる。

人付き合いが怖い人は「楽しかった」ことが、「しなければならない」ことになる。

人付き合いが怖い人は欲するものがないということは、自分の体が自分の体ではないということである。

そういうときが、うつ。

何となく甘いものが食べたい-最近、そういう気持ちが湧かない。

いつも食べていたのに、今日は食べたくない。

人付き合いが怖い人は自分で自分がわからない。

人付き合いが怖い人は何をしても面白くない。

人付き合いが怖い人は愉快と感じる能力そのものが麻痺しているのだから、何をしても意味がない。

人が怖くなった人はあまりにもつらいことなかりで、生きる能力を消耗し尽くしたのである。

心理的健康な人から「君はそんなに、”いいこと”ばかりして」といわれても、意味を感じる能力そのものがないのだから、無気力でもしょうがない。

人付き合いが怖い人は何をしても、それはただつまらないだけである。

生きることも、死ぬこともできない。

死ぬのも億劫なのである。

生きるのも億劫である。

人付き合いが怖い人は誰といても面白くない。

人付き合いが怖い人は何を聞いても面白くない。

人付き合いが怖い人は何を見ても面白くない。

心理的健康な人が、夕陽を見て「わー、綺麗」と手を合わせても、緊張している人付き合いが怖い人には「美しい」という感動はない。

人付き合いが怖い人は美しいということを感じる能力はない。

人付き合いが怖い人は小さい頃から、ただ人に怯えて嫌なことに耐えて生きてきて、もう美しいなどと感じる心の余裕はなくなっている。

その消耗しきった心を、心理的健康な人は理解しない。

そこでつい「ねー、あんなに真っ赤な夕陽で・・・」という。

だから緊張している人付き合いが怖い人にとってはその人がそばにいるのが煩わしくなる。

人は生きているからこそ感動がある。

しかし緊張している人付き合いが怖い人は、その感動すること自体ができなくなっているのである。

人付き合いが怖い人は小さい頃から嫌なことばかりだったら、何かを見て感動するだろうか。

人付き合いが怖い人は小さい頃から不愉快なことばかりだったら、何か積極的にする気になるだろうか。

人付き合いが怖い人は何を食べてもおいしくない。

人付き合いが怖い人は何を飲んでもおいしくない。

何かを体験してうれしいとか楽しいと感じる能力が、緊張している人付き合いが怖い人はもう、擦り切れている。

人付き合いが怖い人はあまりにも我慢しすぎたのであろう。

我慢に我慢を重ねて生きているうちに、人付き合いが怖い人は楽しみを感じる能力そのものが失われてしまった。

人付き合いが怖いあなた自身が変わってしまった

緊張している人付き合いが怖い人にとって生きることは、ただ耐えることであった。

人付き合いが怖い人は人のいいなりになりながら、苦しみに耐え、悲しみに耐え、痛みに耐え、不愉快さに耐え、虐待に耐え、黙ってただ生きてきた。

人付き合いが怖い人にとって生きることはつまり我慢することであった。

人付き合いが怖い人は「楽しい」などということは言葉を知っているだけで、それがどのような感情だかも知らない。

人付き合いが怖い人は、小さい頃から人間関係でつらい思いしかしていない。

人付き合いが怖い人は、人との関係が、朝起きてから夜寝るまで嫌なことだけだった。

小さな嫌なことでも、それが続くとエネルギーがなくなる。

人付き合いが怖い人は自信をなくす。

その集積で病気になる。

そうなると色々いいことがあっても、人付き合いが怖い緊張の気分から回復できない。

いいことが楽しみにも喜びにもつながらない。

これが人付き合いが怖い人。

アメリカの臨床心理学者ジョージ・ウェインバーグの本に、イギリスの詩人ウィリアム・ワーズワースの次のような詩が載っていた。

緊張の体験である。

かつて草地も森も小川も

大地も、あらゆる平凡な眺めが

私には確かにみえた

神々しい光と、栄光と夢の生々しさに

おおわれているように

今はそうではない、もう昔のこと-

どこにいても振り返る

夜も昼も

かつて目にしたものを、今はもはや見ることはできない

ここで大切なのは、「変わったのは自然ではない」ということである。

変わったのは、見るほうの「私」である。

自然は今も昔も神々しく輝き、夢におおわれている。

楽しくないのは人生ではない。

生きている人付き合いが怖い私のほうである。

夢は今も「そこ」に、ある。

それを見ようとしないのは、私である。

人付き合いが怖くなるような人は、人間関係が嫌なのである。

成長の過程で人間関係の楽しさを体験していない。

人付き合いが怖い人はただ人からよく思われたくて、ここまで流されて生きてきた。

人付き合いが怖い人は人から嫌われたくない、人から変な人と思われたくない-要するに人からどう思われるかということだけが行動の動機だった。

嫌われないための努力は今すぐやめる

ある人付き合いが怖い人である。

まったく気力がない。

エレベーターの前まで来ているのに、そのボタンを押す元気がない。

15分間もただ立っていた。

でも人が近づいてくると途端にボタンを押した。

それは「変な人と思われないため」である。

これはその人が、「人が自分のことをどう思うか」をいかに恐れているかを表わしている。

このことは、人付き合いが怖い人がいかに日常生活で、「人がどう思うか」で動いているかを表わしている。

人付き合いが怖い人は自分が人から変に思われないために動いている、人からよく思ってもらうために動いている。

自分を押し殺してきた対価は大きい

小さい頃、相手に何かメリットを与えないと、誰からも相手にされなかった。

そういう体験を積み重ねると、大人になってからも、「相手に何かメリットを与えないと、相手は自分を相手にしてくれない」と思う。

相手の関心が欲しくても、ありのままの自分では関心を集められなかった。

人の怖い人は、じつは抑圧型の人が陥る依存症の、最後の段階ではないのか。

では何の依存症か?

それは「従順依存症」である。

はじめは従順であることで、誉められた、気に入られた。

その喜びはあった。

小さい頃に権威主義的な父親に従順であることで、父親に気に入られた。

しかしだんだんと大人になり、周囲の人に従順であることからは何の喜びも得られなくなった。

そして色々な本を読んで、「従順であることが必ずしも望ましいことではない」とわかってきた。

自己主張の大切さもわかってきた。

そこで、自己主張をする努力もした。

しかし結局は失敗する。

そして人のいいなりになることが苦痛になってきたにもかかわらず、人のいいなりになることしかできなくなっていた。

周囲の人は「自己主張ができるように自分を訓練すること」という。

色々な本には「従順をやめるように」と書かれている。

しかしそれはちょうど、ギャンブル依存症の人にギャンブルをやめるように説得しても意味がないのと同じである。

人付き合いが怖い人の心の中

人付き合いが怖い人は、「自分の家」に鍵をかけていない。

うつ病になるような人は、「家」の中に誰かが入ってきても「出て行ってくれ」とはいえない。

人付き合いが怖くなるような人は態度も行動も言葉も従順だが、心の中は怒りで煮えくり返っている。

本人も自分の心の底の怒りを意識していないことが多い。

しかし実際には、相手の失礼な言葉や態度に接して傷つき、怒っている。

その言葉を聞いているときには、従順でにこやかだけれども、実は心の中は相手を殴り殺したいほど怒っている。

人付き合いが怖くなるような人は、周囲の人をみんな嫌っている。

でも直接の対決を避ける。

心の中はくやしくて、眠れないでいる。

だから人付き合いが怖い人は表面的には穏やかだけれども、心の中はイライラしている。

人付き合いが怖くなるような人は、ずーっと従順に生きてきた。

しかし服従の裏にはつねに「敵意」があった。

人付き合いが怖くなるような人は毎日怯えて生きてきた。

人の顔色を見て生きてきた。

今までずーっと怯えて生きてきた。

そしてどんどん従順になった。

ギャンブル依存症やアルコール依存症は、周囲の人に迷惑をかけるから社会的に色々と問題になる。

しかし従順依存症である人付き合いが怖い者は、実際に人が怖くなり、入院でもするまでは、じつは周囲の人にとって「都合のいい人間」なのである。

それが従順依存症の決定的な特徴である。

人付き合いが怖いと同じなのは、あとは「仕事依存症」であろう。

これも周囲の人にとって、それほど困ることではない。

仕事依存症の父親であれば、家族が寂しい思いをすることはあるが、アルコール依存症やギャンブル依存症のように経済的に破綻するわけではない。

しかし心理的にいえば、人が怖いのもギャンブル依存症も、同じように自分で自分をコントロールできていない。

ギャンブルに関して言えば、依存症の前の段階である「問題を抱えたギャンブラー」といわれる時点で、すでに周囲の人にとっては大問題である。

しかし、うつ病とか仕事依存症はその前の段階では、周囲の人には都合のいい存在である。

従順依存症が外から見て判らないというのはギャンブル依存症と同じである。

ギャンブル依存症の人を外から見ても、とてもわからないという。

ギャンブル依存症は、結婚するまではパートナーにさえわからない。

ギャンブル依存症は、恋に落ちるときにも、相手にはまったくわからないという。

ある女性である。

交際相手の彼は知的で、野心的で、やる気があって、エネルギッシュで、よく働いて、彼らの将来に壮大な夢をもっていると思った。

はたからはパーフェクトなカップルに見えた。

結婚するまでは、恋人にもギャンブル依存症とはわかない。

そしてギャンブル依存症の人は経済的にも破綻しているが、「もう一度勝てば、自由になる」と思う。

仕事依存症の人が「この仕事だけ、とにかくすれば」というのと似ている。

人が怖い人も、生き方を変えないで、「今の生き方で、もうひとつ大きな仕事を達成すれば」と思う。

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人付き合いが怖い人の隠れた願望とは?

人が怖い人は何を抑圧しているのか。

人が怖い人は「退行願望」を抑圧している。

人付き合いが怖い人は心の底のそのまた底では、責任のない時代に戻りたい。

幼児はその場の満足を求める。

うつ病の病前性格である「執着性格者」も退行願望を抑圧しているから、その場の成果を求める。

だから疲れても休めない。

人が怖い人は退行願望を抑圧しているということを、本人自身も周りも理解する必要がある。

人付き合いが怖い人は最も周囲からの理解を必要としているが、最も理解されない病気だという。

人付き合いが怖い人は退行願望があるから、前向きになれない。

人付き合いが怖い人は退行願望を抑えて頑張った。

しかしその努力はあまりにもつらかった。

そして消耗した。

人付き合いが怖い人の特徴的な動機は「退行傾向」である。

こういう動機を持っている人にとっては、大人の仕事はつらい。

退行願望を持つ者は、その場の満足を求める。

待てない。

ためておくことができない。

人付き合いが怖い人は退行願望をもっているということは今、生きているのが精一杯ということである。

今この世の中で生きるのが、もう嫌だということである。

人付き合いが怖い人はそこで努力しないでいいように、「幸せになれないことを、たまたま自分に欠けていることと結び付けて解釈する」。

「自分は幸せになるためのものを欠いている」と解釈すれば、もう努力しないでもよい。

「学歴がないから」「お金がないから」といっていれば、努力をしないことを正当化できる。