人恋しいとは
人恋しい人はひとりになるのが嫌だ
人恋しいとは他人に依存してしまっている状況を言います。
人間は社会的な生き物ですから、基本的には人との関係の中で、お互いに影響を与え合いながら生きています。
完全にひとりで生きていくことは困難ですし、精神的にも人恋しく感じる人がほとんどだと思います。
それは人間として当たり前のことなのですが、人によって、ひとりについての感じ方はずいぶん違います。
そもそも「ひとりで行動する」というのは、単なる行動様式であって、その人の好みや性質、都合が大きく反映されるものなのです。
そして人恋しい人とは、実はかなり先天的に決められている性質の一つです。
人間には、とても人恋しさが強い人と、そうでない人(他人にあまり関心がないタイプの人)がいるのです。
いわゆる「人情家」と呼ばれるような人は前者の「とても人恋しさが強いタイプ」に当たります。
これは、「ひとりでいるとどう思われるかが不安」なのでもなく「ひとりでいることが不安」なのでもない、単に、「人と一緒にいるのが好き」「人と一緒にいないと寂しい」という性質です。
「他人の目」など関係なく、ただただ、誰かと一緒にいたい、他人と一緒にいるのが好き、というタイプなのです。
先天的に人恋しさが強く、かつ「他人の目」が気にならない(=他者からの評価に対する不安があまりない)タイプの人たちは、本当にひとりで食事をとることが必要なら、つまらなそうに、寂しそうに、ひとりぼっちで食べるでしょう。
そこに顔見知りの人や店員さんなど話し相手になりそうな人がいたら、すかさず話しかけたりするはずです。
トイレで食事をすることなどは考えず、むしろそんなことをさせたら、その環境の寂しさに、さらに寂しくなってしまうでしょう。
反対に、「人恋しさをあまり感じない」「他人にあまり関心がない」タイプの人もいます。
中でも「他人にあまり関心がない」程度がとても強い人は、そもそも「どのくらい孤独に耐えられるか」ということよりも「どのくらい人と一緒にいることに耐えられるか」ということよりも「どのくらい人と一緒にいることに耐えられるか」ということのほうが問題になる場合も多いです。
「どの程度人と一緒にいるのが心地よいか」は、複数の要因によって、かなり先天的に決まってくるものです。
これは単純に二つに分類できるものではなく、「程度」の問題です。
また、単なる人恋しいという軸だけでなく、人と一緒にいるのは嫌いではないけれども、ひとりの時間がかなり確保されていないと落ち着かない、疲れてしまう、というタイプの人もいます。
人と一緒にそれなりに楽しく過ごした後、家に帰ってからしばらくひとりだけの静寂の時間を持たないと、脳が興奮してしまって寝付くことさえできない、という人もいるのです。
ひとりという状況に対する感じ方や耐性は、このように人それぞれなのです。
ポイント:ひとりを好むか好まないかは、ほとんど先天的に決まっている
ひとりに対する感じ方は、本当に人それぞれ
ひとりに対する好みや耐性は、基本的には変えることができないものなので、自分の性質として知っておくと役立ちます。
とても人恋しさが強いタイプの人が、自分基準で人を誘ったりしてしまうと、相手からしつこいと思われることもありますので、ほどほどのところで寂しさを引き受ける覚悟が必要となる場合もあるでしょう。
また、人恋しいの程度が低い人は、その淡泊さゆえに相手から「嫌われているのではないか」と誤解される可能性がありますから、決して相手のことが嫌いなわけではなく、ただ自分はひとりでいるのが好きなタイプなのだということを、何かの形で示しておいたほうがよいと思います。
パーティーのような場が天国のように楽しい人もいれば、「おもしろくもない、うるさいだけの場」と感じる人もいるのです。
後者のタイプの人にとって、仕事の必要上参加しなければならないパーティーは、本当に苦痛でしょう。
そんな人がパーティーでつまらなそうにぽつんと立っているからといって、無理に話の輪に入れ込んだりすると、むしろ迷惑になる場合もあります(そういう人は、「ここで皆さんを見ているほうが楽しいですから、お気遣いなく」と言って身を守る必要があります)。
逆に、本当は人恋しいタイプなのだけれど内気であるためひとりで立っている人の場合は、誘ってあげるとほっとして喜ぶでしょう。
「ひとり=寂しい人」「ひとり=かわいそう」といった解釈は絶対ではなく、ひとりという状況に対する感じ方は、本当に人それぞれなのです。
自分自身の「ひとり」への耐性や傾向を知っておくことは、職業選択にも生かせるはずです。
ひとりでいることが寂しくてたまらない、というタイプの人が、たったひとりで黙々と何かを入力するような仕事を選んでしまったら、かなり苦しいことになると思います。
逆に、ひとりで何かに黙々と取り組むことを好む人が、柔軟な対応や愛想を必要とする接客業などについてしまうと、やはり不適応を起こすはずです。
これらは基本的には変わらない生来的な性質なので、自分の性質を知って、自分らしい社交性を持って、社会に適応していけばよいでしょう。
また、以上のことを知っておくと、人のあり方を考える際にもとても役立ちます。
つまり、「社交的な人=人として望ましい姿」というわけでもない、ということなのです。
ポイント:ひとりに対する好み・耐性は生来的なもの、「社交的な人=人として望ましい姿」というわけでもない
人恋しい人の克服
自分にとって最も気持ちよい程度の社交で生きていけばよい
どうも昨今は「コミュニケーション能力」「対人関係力」が重視される傾向にあります。
もちろん、コミュニケーションも対人関係も、間違いなく重要なのですが、それは何も「いかにも社交的」なものである必要はありません。
誰もがペラペラと気の利いたことを話す必要はなく、その人に合った形で、伝えるべきことを伝え合い、その人らしい形で人と関わればよいのです。
その人が生来的にどの程度、社交を好む人なのかによって、「望ましい姿」は人それぞれです。
ですから、自分にとって最も気持ちのよい程度の社交で生きていけばよいのであって、ひとりを好みがちな自分を「人間としておかしい」と思う必要もないのです。
また、「ひとりでいることを好む」人も一定程度存在することを知っておけば、あらゆる人に「目に見える『つながり』」を押し付けるようなことはむしろ暴力的でもあるということがわかるでしょう。
一般に「つながろう!」というメッセージはよいこととされていますが、それぞれの人に合ったつながり方があるものなのです。
ある程度、距離を置いて見守ってもらうことが、最も気持ちの良い「つながり」として感じられる人もいます。
あるいは、普段は自分のことなど意識の外に置いてもらって、自分が助けを求めたときだけ助けてもらうくらいがちょうどいい、という人もいるのです。
ポイント:あらゆる人に「目に見える『つながり』」を押し付けるのは暴力的でもある
どのタイプなのかは、現在の姿からは分からない
過去に他人から心の傷を受けた人は、全体に、他人に対して警戒的です。
ですから、「安全」を感じない限り、心を開かずに「ひとり」で過ごすこともあります。
もちろん心の中もひとりきりで、孤独です。
これは、先天的に他人に関心がない人とは違います。
安全な人との関わりの中、だんだんと過去の傷が癒えてくると、本来の性質である人恋しいがでてきて、むしろ人との交わりを求めるようになることもあります。
また、とても内気で、対人関係全般に緊張が強く消極的な人であっても、生来の人恋しさは強い、というパターンもあります。
そんな人の場合、いったん親しくなると、打ち解けてそれまでとはまるで違った人格に見えることもあるのです。
ですから、先天的にどの程度人恋しいタイプなのかを現在の姿から簡単に決めつけることはできず、その人の歩んできた人生をよく知る必要がある場合も少なくありません。
一つの目安として、他人に本当に関心がない人は、ひとりでいても、むしろ落ち着いていて自己充足的に幸せそうであることが多いのに対して、心の傷や内気さによって対人関係が広がらない人は、ひとりでいると「自分はダメだ」と思っていることが多い、という傾向は指摘できます。
本来はひとりであるべきでないのに、自分の対人関係能力の低さゆえ、あるいは自分の人間的魅力の低さゆえにひとりになってしまっている、と感じるのです。
そういう人たちは往々にして「生きづらさ」を感じているものです。
つまり、他人に関心がない人にとって、ひとりでいることはあるべき姿として問題なく受け入れられるけれども、心の傷や内気さによって対人関係が広がらない人にとっては、ひとりでいる自分は、「あるべきでない姿」であり、自分がダメな証拠という意味づけになってしまう、ということなのです。
ポイント:ひとりへの耐性や傾向を知るには、その人の歩んできた人生をよく知る必要がある
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社交性とひとりへの耐性
人恋しいの程度が強くない人は、そもそもひとりが好きなのです。
しかし、それでも、完全にひとりぼっちで生きていけるかと言うと、やはりそこには何らかの寂しさや取り残され感が感じられることもあります。
そんなとき、普段「ひとり」で過ごしている人にとって、人との関わり方がよくわからない、というケースは案外多いものです。
また、ひとりの時間の楽しみ方をさらに広げるために、あるいは、「ひとり」でいられない人を理解するために、人恋しい心理を考えてみたいと思います。
生来的に人恋しい程度が強い人は、「ひとりでいるより、他者といるほうが落ち着く」という人です。
ひとりでいる自分を受け入れられるようにはなっても、「人といるよりも、ひとりでいるほうが好きになる」わけではありません。
やはり人恋しい人は強いままなのだということは知っておいていただきたいと思います。
これは生来的な特徴である以上、当然のことです。
ただ、そうは言っても、状況としてどうしてもひとりになってしまうことはあります。
そんなときに、ただ寂しさだけに圧倒されてしまったり、「どうしても誰かと話したい」と非常識な時間に人に迷惑をかけたり、寂しさのあまりアルコールなどに依存したり、というような問題を避けるために、ひとりの状況に慣れていくことが、人恋しい人にも安らぎを与えてくれるヒントになります。
つまり、「社交好きだけれど、ひとりでもいられる人」になることは可能なのです。
人と楽しく交わる機会があればそちらを優先して楽しむけれども、なければただ「ひとりでいること」を抵抗せずに受け入れ、何かとのつながりを感じたり、ひとりでなければできないことを楽しんだりすることができるようになれば、怖いものなしですね。
どうしても他者と触れ合いたければ、本を読む、ネットを活用する、などもよいでしょう。
ポイント:社交性とひとりへの耐性、両方を身に付けることは可能です
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無理をしなくていい
いじめなど、過去に疎外された体験がある人は、特に、ひとりでいる状況に不安を覚え、ひとりを怖れます。
これは当然のことです。
疎外される体験は、心を傷つけます。
そして傷ついた心は、「もう二度と傷つきたくない」という態勢に入りますから、ほとんど無条件に「ひとり」を怖れるようになるのです。
ですから、自分にはそれに該当する体験があると思ったり、理由はよくわからないけれども「ひとり」を極度に怖れたりする方は、自分にはそれに見合うだけの事情があるのだと思ってください。
そのような傷も癒さずに、ただ一人に慣れようとしても、つらくなるだけかもしれません。
なぜなら、「ありのままの自分を受け入れること」ができていないからです。
自分が受けた傷を認めなければ、ひとりを受け入れることはできません。
そのような人にとって、ありのままの自分を受け入れるということは、「過去に疎外されて傷ついたため、ひとりを極度に怖れている」という自分を、その事情と共に受け入れるということです。
「今はまだ癒やしが十分に進んでいないから、ひとりが無条件に怖いのは仕方ないな。
でもだんだんと癒やしがすすんだらいいな」というふうに思えれば、ありのままの自分を受け入れ、人恋しくてもひとりでいるときに感じる不安が小さくなっていくでしょう。
ありのままの自分を受け入れたら、安全そうな環境を選んで、時々ひとりで行動して何が起こるかを観察してみる、などというところから始めてみるのもよいでしょう。
安全そうな環境というのは、例えば、多くの人が個人行動をしているような場所とか、どんなあり方も受け入れてくれるような人たちの集まりなどです。
ポイント:ひとりを極度に怖れる自分には、それに見合うだけの事情がある
まとめ
人恋しいかどうかは先天的に決まっています。
ひとりでいる、あるいは大勢でいることが正しいことかどうかは決まっていません。
人恋しいかどうかはそれぞれに事情がありますが社交性や人恋しいに耐性をつくることはできます。
極度に人肌恋しい人は、安心できる環境づくりからはじめよう。