控えめな人とは
控えめな人はくやしい人
我慢を強いられた人の「くやしい!」という叫びは攻撃的であるが、同時に助けを求めている。
助けを求める手段が「くやしい!」という叫びである。
目的は、「自分をもっと愛してほしい」である。
その目的を果たすために「私はこんなに苦しい」という悩みを表現している。
周囲の人に悩みを大げさにあらわしている人は、周囲の人を攻撃しているのであり、「もっと私を愛してほしい」と叫んでいるのである。
「くやしい!」と叫んでいる人がいる。
その叫びが心の中にとどまっているのが、敏感性性格の人であり、外に大声を出して騒いでしまうのが、発揚性性格の人である。
子どもは助けを求める。
飢え、痛み、その他の肉体的不快感は不安とミックスされる。
この不安が、助けを求めるものとして機能する。
オーストリアの心理学者アドラーは「攻撃的不安」とか「攻撃的悩み」という言葉を使っている。
心配とか不安は、「助けを求めること」として機能するとアドラーはいう。
そしてすべての人に、これはおなじみのことであるとアドラーはいう。
これをアドラーは社会的に表現された攻撃だという。
もちろん直接的に表現されるわけではない。
不安として表現される。
先に書いたように敏感性性格の人は「繊細な傷つきやすい野心家」「過剰な自意識のある野心家」である。
この繊細で傷つきやすい名誉心が「喉に刺さった魚のトゲ」である。
繊細で傷つきやすい名誉心が力への願望である。
なぜ力への願望をもつのか?
それは野心家であるからである。
不安から逃れるためである。
しかもその野心は隠されているし、野心とは反対の繊細さをもっている。
ひと言でいえばパーソナリティーに矛盾を含んでいる。
それが敏感性性格の人を苦しめる。
敏感性性格の人は、先に述べたように「小心な野心家」だから攻撃的不安をもって苦しんでいる。
敏感性性格の人は、「自分はこの繊細で傷つきやすい野心家である」という点を理解しないと、苦しみから抜け出すことはむずかしい。
彼らは現実の虚しさを埋めるための名誉がほしい。
繊細な野心家だから、苦労して実力以上の自分を世の中に見せている。
「実際の自分」以上の自分を世の中に見せている。
「実際の自分」と見せている自分との違いが彼らの脅えの原因である。
敏感性性格の人は、いつも「自分の正体を見破られないか?」とおびえている。
その不安が攻撃的不安である。
完全な人間になろうとするから悩む。
だから力を望む。
「嫌われるのが怖い」のも同じ理由である。
「実際の自分」は世の中に見せている自分ではない。
しかも「実際の自分」に対して無意識で自己蔑視がある。
心の底で自分が自分を軽蔑している。
だから普通の人以上に「嫌われるのが怖い」のである。
人に認められても、自分は自分の心の底では「本当の自分」を知っている。
だから人に認められようとして努力するのではなく、自分の内側に向かって歩き始めればよい。
自分の心のあり方を変えようとして努力すればよい。
どんなに虚勢を張っていても、心の底では捨てられた猫のようなイメージである。
この繊細で傷つきやすい名誉心が、いつも傷つけられるから、いつもくやしい。
それをいつも我慢している。
だから口惜しさで生きるエネルギーを消耗してしまうのは当たり前である。
「野心的な人はいつも緊張が解けない。(中略)大部分の神経質者は、野心がくじかれた人々なのである。
これはほとんど公式といえる」
問題は、なぜ野心をもったかということである。
それは「自分がひどく劣等に思えるので、名声や富や力なくては人生は耐え難いという連中なのだ」。
もう一つ大切な考え方がある。
それは社会心理学者フロムの考えである。
要するにあんたは周囲の人から気に入られても、あなたの不安は決してなくならない、という考えである。
周囲の人に気に入られることは、あなたの心の問題を解決しない。
敏感性性格の人は、気にしている自分の弱点を他人に気づかれるのではないかと恐れる。
この恐怖感で、人は好かれようとして無理をして犠牲を払う。
肉体的に無理をする。
病気でも時間をつくって嫌いな人でも会う。
好かれたいから憎しみの表現を抑える。
怒りを我慢する。
そして隠された敵意をもってしまう。
それが根深い憎しみのパーソナリティーを形成する。
嫌われまいと無理をする、好かれようと無理をする、これが隠された敵意の原因である。
アメリカの精神科医ジョージ・ウエインバーグは、関係を第一にしないことと述べている。
アドラーは著書の中で社会的に表現され、かつ隠されている攻撃性の例としてD氏という人物をあげている。
D氏は、外面は「よい銀行員」だが、家に帰ってくると気むずかしい。
彼は家では、皆からもっと大切にあつかわれようとする。
もっと大切にあつかってもらえないのがくやしい。
もっと大切にあつかってもらえないのが不満である。
そこでひそかにもっと大切な立場に立とうとする。
力があれば、その立場を得られるとD氏は思っている。
だから力への願望が強い。
のどに刺さった魚の骨にあたるのは、この隠された「力への願望」である。
敏感性性格の人は、じつは不安で、力を望んでいる。
しかしその願望実現に向かって直接的な行動ができない。
彼がするのは過度のお世辞、過度の優しさ、過度のなぐさめなどである。
それは力への欲求をつくりだし、次に優越への努力になっていく。
攻撃的不安はいろいろなかたちで示される。
自己憐憫におちいっていることでも表現される。
自己憐憫というかたちで間接的にあらわしている。
「自分の問題を口にしすぎること、自分の問題のことばかりを考えていること、人々の同情を得ようと運動すること」なども自己憐憫の兆候である。
表面的には自分を憐れんでいるようであるが、内容は攻撃性である。
自分を憐れむことを通して相手を攻撃している。
自己憐憫しつつ、「お前たちのためにこうなった」ということで相手を責めているのである。
「こんなにつらいのにお前の態度はひどい」という気持ちが攻撃性である。
D氏はいつも不安なのであろう。
「自分が望む愛情を得られないかもしれない」と不安なのである。
それだけ人が自分をどう思うかを気にする。
D氏が「嘆く」ことに隠されている密かな目的は、優越への願望である。
あざむいたり、自己憐憫したり、自己卑下したり、お世辞をいったりいろいろするが、根底に流れているのは攻撃的不安である。
D氏は「私はこんなにたいへんなのだ」といつもいっていないではいられない。
「私はこんなにたいへんなのだ」といつもいっていることで心のバランスを保っている。
「私はこんなにたいへんなのだ」を訳すと「私はくやしい」である。
表面的には自分を憐れんでいるようであるが、内容は攻撃性である。
自分を憐れむことを通して相手を攻撃している。
彼の行為の目的は他人と協力するのではなく、他人を攻撃することである。
自分の希望、自分の願い、自分の要求、自分の意志をはっきりと相手にいわない。
自分が不安だから皆が自分を愛するようにさせようとする。
そのために人を操作する。
相手に向かって「愛してほしい」と直接的にいえない。
それがアドラーのいう攻撃的不安である。
ドイツの精神医学者クレッチマーは『新敏感関係妄想』の中で、ある性格の中にあらわれる強力性を判定するのに、三つの尺度が決定的であると述べている。
第一は感動の高さである。
これは印象能力という概念と結びついている。
第二は感動の持続性である。
これは保持能力に応じている。
第三は感動表出性の度合いである。
これは伝導能力に応じている。
決して強力性のほうがいいとか、無力性のほうが悪いとかいう概念ではない。
利他的倫理は、人間の無力性の体験から発生するといわれる。
自分の性格を正しく把握し、そしてどうしたら生きやすく、そして自分にとって意味ある人生を送れるかということである。
そのためには、自分の感じ方というものを唯一のものと考えてはならない。
また感じたことをその後、内面的にどう処理するかということも人によって違う。
クレッチマーの言葉を使えば、保持能力も違う。
そして当然ながら、高まった緊張を平静にする適応能力、つまり伝導能力も違う。
感情の高さが持続され、緊張をとくための表現能力がない。
このように伝導能力がないのにもかかわらず、感じやすい人々が敏感性性格といわれる人々である。
外から見ていれば、たいそう控えめな人に見える。
それだけに敏感性性格者は日本の社会の中などでは、人格者のように見られがちである。
日本では出しゃばることは評価を落とす。
出すぎないということが大切な日本の社会の中にあって、控えめなことは徳である。
しかし本人の心の中の葛藤はたいへんなものである。
敏感性性格の人は腹が立っても、会議などではじっと我慢して発言しない。
発言しないからといって、怒っていないわけではない。
心の中では「あんなことをいってけしからん」と怒っている。
しかし「それはおかしいじゃないですか」と発言はできない。
そこで自分の内面を外に表現してしまえばいいのであるが、内気だからそれができない。
そうすると、どうなるか。
家に帰ってひとりになって、心の中でその不満を処理できずに、心の中でひとりごとを言い続ける。
心の中ではいろいろ不満を相手に向かって表現するが、いざ面と向かうと人のよさそうな笑いをうかべてしまう。
しかし不満の感情は、いつまでも保持され続ける。
やがて白昼夢でも見はじめる。
自分が相手を会議の席でやっつける場面などを想像したりする。
そしてその白昼夢で疲れてしまう。
敏感性性格の人が疲れやすいのは、いつも内面が緊張しているからであろう。
いつもくやしいからであろう。
緊張があるという点で敏感性性格者は、純粋な無力性性格者ではない。
無力性の反応では、傷つきやすいが緊張のない抑うつという形態をとる。
彼らはあまり人と争わないが、心の中が満足していて争わないのではない。
心の中ではいつも人と争っている。
しかしそれを表面に出せないのである。
夜も床につけば心の中では人と争っている。
その人に不満をぶつけている。
だからこそ不眠症などになるのである。
もし伝導能力があって、その場その場で自分がいいたいことをいっていれば、心の中で不満をいいつつ、不眠症になどなるはずがないであろう。
敏感性性格的な人は、いつもなにかにとらわれている。
いつもなにかを考えている。
「心ここにあらず」という状態である。
つまりあることで不満がある。
会社の人事のことかもしれない。
「あいつが昇格するのはおかしい」という不満かもしれない。
自分を昇格させない上司への不満かもしれない。
いずれにしろなにかの不満がある。
するとその不満が意識の中心を占めてしまう。
上司にははっきりとものがいえないことはもちろん、正式に会議で発言もできず、かといって飲み屋で不満をあらいざらいぶちまけて荒れるということもできない。
そこで道を歩いていても、電車に乗っていても、心の中ではいいたいことをいっているのである。
歩いている道の景色を見ているのではなく、心の中でいつも不満を述べている。
その場面を頭の中でいつも想像している。
「あいつが昇格するのはおかしい」ということが意識の中心にでんと腰をすえてしまっていて、そのことを中心にした想像劇を心の中で演じている。
その心の中の劇では、自分は発言している。
彼は電車に乗っていても、道を歩いていても、その劇の中の自分のほうに気をとられてしまっている。
したがって、いつも「心ここにあらず」なのである。
現在に集中できない。
現在に集中できないのは、過去のことに納得がいっていないからである。
そして対人的な場面では、その納得のいかなさを表現できない。
対人的に表現するのではなく、心の内へ向かって表現しているから消耗するだけで、平静さはいつになっても得られない。
みんなに好かれたいという願望を手放す
敏感性性格者にはごく少量の強力性の特徴があり、それが無力性性格の中核を刺激するとクレッチマーはいう。
トゲのように強力性性格が無力性性格に刺さっている。
このトゲのように刺さっている強力性性格のゆえに、不満が高まるのである。
それゆえに納得がいかないのである。
純粋に無力性性格であるならば、「あいつの昇格はおかしい」とか、「自分を昇格させないのは上司がおかしい」とかいうことで、相手を攻撃しない。
純粋に強力性性格であるならば、それははっきりと発言できるし、発言してどうしようもなければ、それはそれとして、いつまでもその不満を意識の中心に置いておかない。
ところが敏感性性格者は、少量の強力性性格がトゲのように刺さっているから、相手を攻撃する姿勢はある。
しかし無力性ゆえに攻撃できない。
そして少量の強力性性格ゆえに、それをそのままにしておくこともできない。
すべて中途半端なのである。
アメリカの心理学者、デヴィッド・シーベリーが人間の心理的健康にとって中途半端なことはよくないといっているが、まさに敏感性性格者は中途半端なのである。
純粋に無力性の人というのは、「あの極度に心情がやわらかで、意志が強く、防ぐすべもないような人たち」(クレッチマー)である。
もちろん無力性の人々は悲しむ。
しかし、悲しむが、クレッチマーのいうところの抑留というのがない。
たとえば激しい出世欲がないから、自分の出世した場面を心の中で描いて、白昼夢の中で消耗するということもない。
自分の敏感性性格について悩んでいる人は、他人の自分に対する態度についてもう一度考えてみることである。
自分は周囲の人に対して控えめな態度をとっている。
では自分がいま腹を立てている人は、自分に対して控えめな態度をとっているだろうか。
なぜ相手は自分に対して控えめでないのに、自分は相手に対して控えめでなければならないのだろうか。
なぜ自分は相手の態度に対してこんなに我慢しなければならないのに、相手は自分の態度に我慢しなくていいのであろうか。
相手にとって自分は都合のいい人間なのに、自分は相手のことをこんなに我慢しなければならない、そんな理由はどこにあるのだろうか。
自分が相手に対してしているように、相手は自分にしてくれたことがあるだろうか、ないではないか。
そしてそれだけ我慢したからといって、それでどうしたのだろう、なにかあったであろうか。
たしかに「人のいい人間」という評価は得たかもしれないが、皆に軽く見られているだけの話ではないだろうか。
我慢するだけで、くやしい気持ちを味わいつつ人生はどんどん過ぎていっているのではなかろうか。
そのうちなにかあるだろうという気がしながら、なにもなく人生はどんどん過ぎていく。
我慢というより、不満を表現できないまま過ぎていくといったほうがいいかもしれない。
相手に許されていることは、自分にも許されていいのではないだろうか。
自分に許されないことは、相手にも許されないと考えていいのではないか。
相手は利己的であってもいいが、自分は利己的であってはいけないなどということはない。
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純粋に強力型の人間とはまさに健康な人間である、とクレッチマーは述べている。
「持続的な行動力とたくましい感動表現形態をもち、明朗で小事にこだわらず、また周囲にかまわず我が道を行き、阻害に出会うと激しく湧立って戦うが、それに打ち勝てない場合には、健康な自意識をもってそのままにしておく(『新敏感関係妄想』)
これはまことに健康である。
ただ、このクレッチマーの強力型の人間を二つに分けて考えなければいけないと思っている。
情緒的に未成熟な強力型の人間と、情緒的に成熟した強力型の人間である。
控えめな人間にとってかなわないのが、情緒的に未成熟な強力型の人間である。
強力型なのであるが、利己主義で自分本位な人間というのは、控えめな人間にとってはたまらない。
このタイプは相手の立場を考えないで、自分を一方的に主張する。
その主張の仕方が強力なのである。
控えめな人間にとってさらに耐え難いのは、クレッチマーのいう発揚性性格者である。
発揚性性格者というのは利己主義者のことである。
そして三つの能力についていえば、印象能力も保持能力も強いが、伝導能力は部分的に阻害されている。
発揚性性格者も傷つきやすい敏感さをもっているが、部分的に表現できる。
それが利己主義的傾向だろうと思う。
敏感性性格者が無力性に強力性のトゲが刺さっているとすれば、発揚性性格者は強力性に無力性のトゲが刺さっているとクレッチマーはいう。
失恋したとき、相手をうらんでいやがらせをする人としない人といる。
発揚性性格者というのは、しつこくいやがらせをするほうであろう。
大人の恋だといって恋をはじめ、うまくいかなくなりだすと、相手をうらんでいやがらせをしないと気が済まない。
ひどい人になると、相手の家のまわりでビラをまくなどという人もいる。
レストランに入ってウエイトレスの態度に傷ついて、そのレストランの前でビラをまいたり、早朝に行って戸にベタベタ貼り紙をしたりという女性もいる。
刺激されやすい神経質者なのであるが、敏感性性格者と違って、悪意に満ちた陰謀などによって発散しようとする。
神経質で傷つきやすいということまでは敏感性性格と発揚性性格は同じであるが、その傷ついた感情の処理の方向が逆である。
株で損をした主婦で、証券会社の人の自宅に毎夜電話しつづけるなどというタイプは、発揚性性格のほうである。
控えめな人間にとって、この発揚性性格の人なども耐えられない。
基本は強力性なのである。
それで傷つきやすい。
しかも利己主義で、利己主義という点ではたくましい。
刺激されやすくてエネルギッシュなのであるから、すぐに怒って相手を犠牲にすることなどなんでもない。
同じ利己主義者でも、自分の利己的部分を恥じている人もいるが、このタイプは平然と利己的な行動をとる。
おずおずビクビクして他人に迎合するような弱さはない。
無力性がトゲのように刺さっているからといって、純粋に無力型の人がもっているやさしさや感情のこまやかさがない。
要するに、利己的でずるくてたくましいのである。
気の弱い人間や控えめな人間を踏み台にして自分の利益を求めていき、しかもそういうように他人を踏み台にしたということでは決して傷つかない。
この発揚性性格者の傷つきやすさとは、他人の心の痛みがわかるがゆえに傷つきやすいのではない。
自分の名誉心などが傷つくという意味で傷つきやすいのである。
こういう人間にとってつきあいやすいのが、控えめで内気な人間である。
発揚性性格的な者というのは、相手を利用できるかぎりにおいてはよく相手とつきあう。
自分は敏感性性格だと思う人は、できればこの発揚型の人とはコミットしていかないことである。
こんなタイプの人間とつきあい、称賛されることで自分の孤独をいやそうとしてはいけない。
このタイプの人間とコミットしても、決して愛情飢餓感は本質的にいやされるものではない。
できることならこのタイプの人間と関係のない世界で生きることだし、それが無理なら心理的に別の世界で生きることである。
大切なことは、「かかわらない」ということである。
ところが愛情飢餓感のある人は、ついついかかわってしまう。
そしてよりいっそう傷つき、よりいっそう不快な体験に苦しめられ、心の葛藤の重荷はよりいっそう重くなる。
自分が敏感性性格だと思う人は、自分の中の愛情飢餓感のとりあつかいにいつも注意しているべきである。
その飢餓感ゆえに、ふっとそうしたたくましい利己的人間にすりよっていってしまうからである。
本当に大切な人は誰か
相手を見る。
しかし相手を見られない人がいる。
自分から外に関心を向けられない。
なぜ向けられないのか。
それはいつも自分に執着しているからである。
防衛的性格の特徴は相手を見ていない。
だからだまされる。
だから悔しい思いをする。
心の能力とは相手を見ること。
相手を観察することである。
相手がなにかよいことをいってくる。
そのときにそのニンジンは本物か偽物かを見る。
そして、自分が走っても手に入らないものか、それとも手に入るものかを見る。
それを見極めていくと案外その人と別れられる。
自分と相手とどれくらい違うか。
相手は無意識の領域がどのくらい大きいか。
それをみきわめる。
自分は敏感性性格だから、敏感性性格でない人になりたいという人は多い。
「なりたい自分」になるには、はじめは、なりたいことを一つに絞る。
「あれもこれも」はやめる。
相手を見るときにもう一つある。
悩んでいる人は、相手を見ていない。
失敗した自分を評価している人自身がどういう人かを、つまり相手を見ていない。
こちらを評価している人は否定的な人で、自分のメンツだけを考えている人かもしれないし、自信がなくて、人をけなすことで自分の偽りのプライドを維持している人かもしれない。
そういう卑しい人に、なぜおびえるのだろう。
また、人にはいろいろな人がいる-。
そのことを理解することで、自分の人生をどう考えるかという視点を広げることができる。
「自己実現者は、他のどんな大人よりも深遠な対人関係をもっている」とマズローは述べている。
そして自己実現者は、誰にでもいい顔をする八方美人とは異なり、自分にとって大切な人は誰かということを知っている。
その少人数の人と深く結びついている。
「自己実現者は以上のように特に深い結びつきをどちらかというと少数の人々ともつということがいえる。友人の範囲はかなり狭い」
まとめ
出すぎない控えめな性格は日本では美徳であるが、本人の心の中の葛藤は大きなものである。
そして相手は控えめではないのに、自分は控えめなのはくやしい。
控えめな人にとって、ずるい人はたまらない。
なぜなら、こちらを評価してくる人は、自分のメンツだけを考える自信がない人かもしれない。
また、自己実現している者は自分にとって大切な人を知っている。