敏感性性格とは
敏感性性格が人間関係に与える影響
職場の人間関係などでも、伝導能力のある人とない人とでは、いったんこじれたりすると尾の引き方が違う。
また人間関係をうまくやっていけるかどうかも全然違ってくる。
職場で同僚なり、上司なりが自分にとっておもしろくない発言をしたとする。
自分の利益に反する態度をとる。
今度は自分がその仕事を任せてもらえると思っていたら、上司は同僚のほうにその仕事を任せてしまった。
そんなとき、敏感性性格者は深く傷つく。
普通の人よりはるかに深く傷つく。
彼は普通の人よりはるかに感じやすく傷つきやすい。
「その仕事は私に任せてほしい」
こんなひとことは決していえない。
同僚のほうは、「これは私がやります」と平気でいえる。
そういわれると、もう反論できない。
「でも、私の順番だから・・・」というかもしれない。
しかし「こんなのに順番なんてないよ」といわれれば、もう黙ってしまう。
黙ってしまうけれど、このひとことで普通の人以上に傷ついているのである。
そして普通の人より、はるかにくやしいと感じているのである。
上司は、この敏感性性格者の悔しさを理解できない。
それだけに繊細な神経の持ち主である敏感性性格者は無念である。
「なんで俺だけこんな損をするのだ」と悔し涙をひとりで流す。
もし彼がこの不愉快な気持ちを、友達と飲んで騒いで晴らせればいい。
しかし彼にはそれができない。
その夜、仲間をさそって飲みにいき、上司の悪口、同僚の悪口をいえれば、少しは気持ちもすっきりするかもしれない。
しかし敏感性性格者は、普通の人のように悪口をいうことがなかなかむずかしい。
そして仮に普通の人のように悪口をいえたとしても、それでも普通の人のように気分がすっきりするわけではない。
なぜなら傷つき方が普通の人より深いからである。
もともと感受性が強いのである。
上司や対立した同僚のひとことが、侮辱されたという意識をもって心の中に焼きつくと、なかなかその傷はいえない。
その話し合いの場での体験は、ちょっとやそっとのことで発散されるものではない。
それが印象能力が高く、保持能力も高いということである。
怨念という言葉があるが、このイメージはやはり敏感性性格者の無念の気持ちをあらわしているのではなかろうか。
伝導能力がないということは、飲んで上司や同僚の悪口をいえないということである。
しかし「この野郎」という気持ちはある。
「なぐってやりたい」という気持ちはある。
伝導能力がないということは、心の中の攻撃性を表現できないということでもある。
表現できないということと、心の中にそれがないということとはまったく異なる。
「ぶんなぐってやりたい」という攻撃性はあるのだけれど、表立って悪口ひとついえないというのが、伝導能力がないにもかかわらず、印象能力が高いということである。
「なぐってやりたい」「この気持ちを思い知らせてやりたい」という攻撃性をもちながら、誰にもいえず内にこもってしまうのである。
誰にもいえないまま、くやしくて夜ひとりで寝床の中でうらみの鬼のようになっている。
その憎しみの炎でひとり眠れずにもんもんとする。
どうしても眠れない。
そのくせ翌日会社にいけば、ついついいい顔をしてしまう。
心の中は憎しみの鬼と化していながら、顔だけは聖人君子の顔なのである。
パッシブ・アグレッシブ=受動的攻撃性という言葉どおりなのである。
攻撃的であるのだけれど、受け身の姿勢がくずせない。
恨めしくなって化けて出るような人は、基本は受け身である。
しかし受け身になりきれない。
必ず「恨めしや」といって出てくる日本の幽霊こそは、敏感性性格者の無念の気持ちを表現しているのではなかろうか。
受け身の人間になりきっていれば、憎しみをもち、その憎しみの対象に報復をはたせなかったうらみなどもつものではない。
「恨めしや」といって出る日本のあのお化けの姿こそ、敏感性性格者の気質を表現している。
あのお化けの両腕である。
攻撃性を思いきり表現して、のびのびとしているわけではない。
腕のひじのところまでは体につくようにして、両手だけは攻撃性を表現して外に向いている。
萎縮した攻撃性である。
たいてい口や片方の目から血が流れて、髪はぼうぼうに長い。
まさに深く傷ついている姿である。
内部には憎しみが活発に働きつつ、伝導能力を欠いてその憎しみが保持されている。
クレッチマーが抑留という言葉で表現したものである。
体験を受け取り、保持し、加工し、片づけるということができない。
体験を受け取り、保持するところまでで、片づけることができない。
それこそが、憎しみをもちつつ報復をはたせないでいる、うらみのお化けの姿なのではなかろうか。
われわれ日本人がよく義経をはじめとして悲劇の英雄のほうに一体化していくのは、この自分の心の中の遺恨ゆえではなかろうか。
いずれにしても日本のお化けは、敏感性性格の一面をよく表している。
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クレッチマーは敏感性性格について、じつにみごとな表現をしている。
つまり基本的には無力性なのであるが、それに少量の強力性がまじっていて、その少量の強力性が無力性性格の中核を刺激するというのである。
日本人がよくいう、「あいつは執念深い」などという性格は、これではなかろうか。
強力性の人間であれば、どんな人とも対立し、争える。
そしてその闘いをする中で、たとえ負けてもさっぱりとしていられる。
執念深い人間というのは、人間関係を含めて人生のさまざまな闘いを果敢に闘うにはあまりにも弱い。
だからといって、憎しむことも怒ることもないほど弱くはない。
そのように、純粋に無力型の人間ではない。
まさにごく少量まじっている強力性の特徴が、無力性性格の中核を刺激しているのではなかろうか。
正面から果敢に闘えれば、いつまでも怨念をもっていることもない。
正面から果敢に闘えないからといって、では流れにさからわず、人々の意志に身を任せられるかといえば、それほど受け身にはなれない。
受動的に流れに身を任せることもできないくせに、正面から自分の利益を守るために主張し、闘えない。
そこでいつも自分の利益は害される。
そこで「私はいつも損している」といううらみをもつにいたる。
表面的にははなやかに闘わないが、内側の闘いはすさまじい。
周囲の人はこの人たちの内的葛藤のすさまじさに気づいていない。
ことに強力性性格の人間は、この内的葛藤に気づかない。
なぜなら、そんなにくやしいなら、どうしてあのときもっとはっきりと主張しなかったのか、という疑問をもつからである。
ここらへんの受け取り方の問題が、じつは社会のさまざまな人間関係のトラブルの中核にあるのである。
会社内での人間関係のトラブルなども、この点の認識を欠いたところでおきているものが多い。
繊細な敏感性性格者としては精いっぱい主張したつもりになっている。
しかし声が小さい。
心の底からの願いを必死になって訴えたつもりになっても、強力性性格の人間などから見れば、一つも必死になっていないように見える。
とても「あんな言い方」が心の底からの願いであったとは、強力性性格の人間には感じられない。
そこで敏感性性格者からすれば、「いつも自分は踏みにじられている」という気持ちになる。
周囲の人は敏感性性格者の心の願いをたいてい理解していない。
敏感性性格者としては、理解してもらうための努力をしたつもりになっているが、周囲の人からすれば「気がつかなかった」ということになる。
周囲の人はたいてい善良でやさしい人と思っている。
たしかに彼は善良でやさしく従順である。
他人に同情し、他人のために働き、他人の不幸を慰める。
しかしそれだけであれば、無力性性格の人としてそれほど問題はない。
ところがそのように内気で従順でやさしいにもかかわらず、こころの核を刺激する強力性をもっている。
この二つの内的葛藤がすさまじい。
したがって周囲の人は、「その事件」をとっくに忘れてしまっても、彼はいつまでもおぼえている。
無力性性格の弱さ
執念深さは、その厳しい内的葛藤をあらわしている。
しかし、それを外にあらわせない。
外にあらわすことで内的緊張をやわらげることができない。
「やっぱり俺にはあの決定はおもしろくない」と、社内で仲間うちで親戚の集まりでいいだせない。
決して納得していないのに、納得した顔をしてしまう。
そこが無力性の弱さなのである。
しかし純粋に無力性の人間のように、仕方ないとその決定に身を任せてしまうこともできない。
悔しさは残る。
声を荒げて主張する人に対して、さらに大声で立ち向かえないのに、納得もできない。
傷つきやすく、しかもその傷をいやすこともできないので、ひとり内的にもんもんとする。
夜中など、ひとり目をさまして、じっとそのことを反芻して、悔しがる。
何度も何度も同じことを心の中で主張してくやしがる。
しかし面と向かって相手にぶつけないので、いつまでも内的緊張はやわらがない。
おかしな言い方であるが、強力性性格者の中の強力性は発散されるが、無力性性格者の中の強力性は発散されない。
だからこそ、不快な印象には長く長くつきまとわれるのである。
まとめ
敏感性性格者は人の悪口を言うことができず、その無力感を感じられる。
また、いつも踏みにじられている気持ちになる。
そして周囲の人は敏感性性格者の人の心を理解していない。
したがって、敏感性性格者はいつまでも覚えていることを周囲の人はとっくに忘れている。
だから不快な感情はいつまでも残ることになる。