将来への絶望から立ち直る道

”自分への否定的イメージを取り除く”

小さい頃、何かに失敗し、失望されて自尊心が傷ついた、あるいは、迷惑顔で世話されて身の縮む思いをした、親の不機嫌に責められてどうしていいかわからなかった・・・このような数々の体験の積み重ねによって、そのひとはだんだんと、自分は他人に愛されるだけの価値のない人間である、他人は自分とは喜んでつきあってくれない、何をやってもうまくいかない、自分はダメな人間なのだと心の底で感じるようになる。

かくて彼は、自分についての否定的なイメージをつくりあげてしまう。

かといって、自分はダメな人間なんだと居直ることも許されない。

親が許さない以上、怖くて自分はダメな人間なんだなどとはいえない。

ダメな人間として扱われながら、ダメな人間だと自ら感じることを禁止される。

そこで、ダメな人間という自分についての感じ方を意思の力で無意識へと追いやる。

無意識の領域で、誰も自分を喜んで愛してはくれない、自分は他人から喜んで愛される価値のない人間だと感じている。

その無意識における低い自己評価が、高い要求水準となってあらわれる。

彼は心の底にある低い自己評価を、他人から高く評価してもらうことで、なんとか回復しようとあがいているのである。

しかし、心の底にこびりついている低い自己評価というのは、はたして正しいのであろうか?決して正しくはない。

確かに、その人は幼い頃から喜んで愛されることはなかった。

しかしそれは、その人に愛される価値が無かったからではない。

周囲の人に愛する能力が欠如していたからである。

愛情についての決して忘れてはならない原則、それは、相手に愛情を持つのは、もつ人間の愛の能力によるということである。

心の底にこびりついている低い自己評価は、周囲の人にその人を愛する能力が欠如したことから生まれてきたものである。

負い目に苦しむ者は、そのことをはっきりと自覚しなければならない。

人が自分の中に感じる愛情は、その人自身の愛の能力である。

それを理解できない人は、たとえば犬好きの人の犬の飼い方を見てみればわかる。

そんな野良犬でもいったん飼い始めればかわいがる。どんな名犬よりもかわいがる。

もちろん名犬を飼ったとしても、良く世話をする。

犬をかわいがるのは、決してその犬が世話をするに値するからではない。

ただその犬を可愛いと感じる能力があるからかわいがるのである。

家の中で飼って、トイレの世話もきちんとやる。

雨の日もカサをさして散歩に連れ出してやる。

家に帰ってくると、足を拭いて入れてやる。

客観的に見るならば、決して名犬ではない雑種の犬を可愛がる。

あるビジネスマンはどんなに夜中遅く帰っても、それから犬を散歩に連れていく。

三時に帰っても、四時に帰っても散歩に連れていく。

彼は大企業の部長で、ビジネス戦争のまっただ中にあり、四時に帰れば、明日の激務のために、一分でも早く眠りたいところを、犬を連れて散歩に行く。

しかもそれが苦労ではない。心の安らぎである。だから犬も安心している。

ところが、犬を愛する能力が欠如している人間は、雑種を嫌う。

血統書付の名犬を散歩に連れて行こうとする。

しかしトイレの世話はしない。

犬の気持ちが分からない。

犬の体の調子がおかしくなってもわからない。

犬が可愛がられるかどうか、喜んで世話されるかどうかは、犬に原因があるのではなく、犬を飼う人の、犬を愛する能力にあることは明白である。

「愛は、ある対象を肯定しようとする情熱的な欲求である」とは、社会学者エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」の中に出てくる言葉である。

親の愛情とは、子供によって生まれてくるものではない。

もともと親の中にある愛する能力が、子供に触れて、現実化してくるものである。

しかし、自己評価の低い人、負い目に苦しんでいる人、それらの人は、親が喜んで自分を愛してくれなかったのはじぶんが愛するに値しないからだと間違って感じてしまうのである。

仕事の負い目と対人的な負い目に苦しみ、自分は余計なものだと感じている者は、愛の原則を知り、幼い日自分が失望されたのは、自分に価値が無かったからではなく、失望した人自身が自分に失望していたからにすぎないと、はっきり自覚することである。

失望された時、深く静かに大きく「はーっ」とわざとらしいため息をつかれた時、本当は、失望の表情をした人間に向かって攻撃すればよかった。

しかし、相手の方が圧倒的に強い以上、相手に攻撃をしかけることはできない。

そこで、彼は自分に攻撃を向けて、自分を責め始めた。

そもそもそれが憂鬱のはじまりだったのである。

つまり
失望される→自分を攻撃する→悲観的になる
というわけである。

アーロン・ベックの「うつ病」を読むと、うつ病患者はうつ病ではない人間に比べて、マゾヒスティックな内容の夢を見るという報告が書いてある。

事実、うつ病になる前に、繰り返しマゾヒスティックな夢を見たといううつ病患者の回想もある。

ナーサン・ライテスの著書「うつ病とマゾヒズム」を読むと、そこにはやはり、「うつ病患者は、誰も自分を愛してくれないのは、自分が無価値であるからだと信じている」と書かれてある。

何か些細な失敗でも、すぐに自分はダメだと思い、憂鬱になる。どうしてそんなささいな失敗で、自分はダメだなどといえるのだろうか。

今からでも遅くはないのだ。対人恐怖症、社交不安障害に苦しむ人は、ガックリと肩を落とし、わざと聞こえるように大げさにため息をついて、自分に失望して見せた人間に、攻撃を向けることである。

その人に対して抑圧していた敵意を自覚することである。

自分に向けていた攻撃を、自分に失望した人に向けることである。

それが、将来への絶望から立ち直る道である。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには小さい頃育めなかった愛情を今育むことである