和解できない人と和解できる心の技法
人生には、どう振り返ってみても、簡単に「和解」する心境になれない人物との出会いもある。
例えば、逃げ出したくなるほど過酷だった上司、仕事のミスで何時間も罵倒された顧客。
例えば、信じていたのに裏切られた親友、相続の問題で骨肉の争いとなった親戚。
人生においては、自分の非を認めるどころか、何年経っても、相手を許す気にさえなれない人間との「不幸な出会い」がある。
そうした出会いに対して、
「それでも、相手を許すべきではないか」
「自分にも非があったことを認めるべきではないか」
「何があっても、自分から心を開くべきではないか」
といったことを、述べるつもりはない。
実は、人生には、過去の「不幸な出会い」と思えるものが、「意味のある出会い」であったことに気付き、「有り難い出会い」であったことに気づくときがある。
それは、あるとき、一瞬の気づきとして訪れるときもあれば、行きつ戻りつの心境の中で、時間をかけて気づいていくときもある。
では、その「気づき」は、どのようにして訪れるのか?
それは、その相手を許せるのか、許せないのか、という問題として考えている限りは、決して訪れない。
では、どのような問題として考えるべきか?
なぜ、自分の人生において、その相手と出会ったのか?
その問題として考えるとき、我々は、「その相手を許せるのか、許せないのか」という次元を超えた、人生におけるその相手との出会いの「意味」を深く考えるとき、一つの視点を心に抱くことによって、しばしば、その「意味」が明瞭に浮かび上がってくる。
それは、
人生における、人との出会いは、すべて、自分という人間の成長のために、与えられた出会いではないか。
その視点である。
もとより、人生において、我々に、人との出会いを与える「何か」が存在するのか否かは、分からない。
それもまた、おそらく「永遠の謎」であろう。
しかし、もし、我々が、心の中に、「人生における、人との出会いは、すべて、自分という人間の成長のために、与えられた出会いではないか」との視点を抱くならば、そこから、さらに具体的な、次の問いが生まれてくる。
この人との出会いを通して、そして、この苦痛な体験を通して、
いま、自分が人間として成長するべき課題は何か?
いま、何を学べと言われているのか?
いま、何を掴めと言われているのか?
実は、こうした問いは、このように明確な形ではなくとも、人生において「不幸な出会い」が与えられたとき、読者の多くが、心の深いところで、感じ、考えてきたことではないだろうか?
読者それぞれに、これまで歩んで来られた人生を、振り返って頂きたい。
そして、この問いを、問うてみて頂きたい。
自分は、いつ、人間として成長することができたか?
人間として成長できたのは、どのような体験においてであったか?
その体験は、決して楽しい体験ではなく、苦痛な体験ではなかったか?
その苦痛な体験は、人間との出会いによって与えられた体験ではなかったか?
もし、過去を振り返りながら、この問いを問うならば、自然に、次の問いが心に浮かんでくるのではないだろうか?
この人物と出会い、この苦痛な体験が与えられたのは、自分が、いかなる成長を遂げるためなのだろうか?
もとより、この問いを抱くことによって、直ちに、相手と「和解」する心境になれるわけではないだろう。
相手を許し、自分の非を認め、相手に対して心を開くという心境になれるわけではないだろう。
しかし、この問いを抱くとき、我々の心の奥深くで、その出会いに対する「解釈」が、変わり始める。
その出会いを、ただ「不幸な出会い」と思う心境から、その出会いに、何かの「意味」を感じる心境へと変わっていくだろう。
不幸な出会いが、良き出会いになるとき
当初、「不幸な出会い」と思えたものが、次第に、「意味のある出会い」であったと感じられるようになり、いつか、「良き出会い」であったと思えるようになるようなことがある。
Aさんは就職したばかりの新入社員の頃、ある企業に新規プロジェクトの企画提案に行った。
前の晩、遅くまでかけて作成した企画書を持ち、先方の企業の部長を訪ね、会議室でその企画の説明をした。
自分なりには、自信のある企画であった。
しかし、その企画を説明し終わるや、その部長が、「こちらは、こんな企画を要求しているのではない!」と、突然、怒鳴り始めた。
その後のことは、頭の中が真っ白になり、あまり覚えていなかった。
その場は、上司の課長がとりなおしてくれたが、自分は、ささやかな自尊心を打ち砕かれ、打ち拉がれた敗残兵のような心境で、その会社を出たことを覚えている。
横断歩道を渡っている時、見かねた同僚のB君が、声をかけてくれた。
「A君、君の企画は、良い企画だったと思うよ・・・。
ただ、あの部長さんが、それを理解してくれる力が無かったのだよ・・・」
その瞬間、その声にすがりたい自分がいなかったと言えば、嘘になる。
「そうだよ、あの部長、何も分かっていないんだよ・・・」と言いたくなる自分がいなかったわけではない。
しかし、そのとき、自分は、心の中から振り絞る思いで、B君に、こう言った。
「有り難う・・・。しかし、やはり、自分は、あのお客様が納得してくれる企画書が書けなかったのだよ・・・」
この日が、自分のプロフェッショナルとしての歩みの原点となった。
それから長い歳月が経ち、いま振り返って思う。
あの部長の厳しい言葉のお陰で、自分は、プロフェッショナルの道を歩めた。
あの部長の厳しい叱責のお陰で、自分は、大切なことに気づかせてもらった。
いま振り返れば、あの頃の自分には「無意識の傲慢さ」があった。
自分では気がついていなかったが、自分の企画に独りよがりな自信を持ち、この企画を顧客は必ず採用するだろうという思い上がりがあった。
それゆえ、あの部長は、目の前の若いビジネスパーソンの心の奥にある「無意識の傲慢さ」を感じ取ったのであろう。
礼儀正しく、丁寧に語っている言葉の奥に、「密やかな驕り」を感じ取ったのであろう。
そして、あの部長は、鬼のような姿を通じて、自分に、そのことを気づかせてくれた。
そのお陰で、今日の自分が、ある。
どんな出会いにも、必ず、深い意味がある。
「不幸な出会い」と思えるものにも、必ず、深い意味がある。
それは、ときに、自分が一人の人間として成長するための、大切な体験を与えてくれる。
そして、その真実に気がついたとき、我々の人生の「風景」が変わる。
日本語には、昔から、そのことを教えてくれる言葉がある。
例えば、「荒砥石」。
「あの上司は、いま振り返れば、自分にとっての『荒砥石』だったな。
毎日、仕事のことで、ごりごりと研がれたような気がするよ。
でも、お陰で、自分という人間の角が取れていったんだな・・・。
自分は、我の強い人間だったからな・・・」
では、「不幸な出会い」と思えるものにも、必ず、「深い意味」があるのであれば、我々は、どのようにすれば、その「深い意味」を知ることができるのか?
そのために、我々が、必ず行うべきことがある。
その出会いに正面から心を開くこと。
すなわち、その相手に出会ったという「事実」に、心の中で正面から心を開くことである。
人間関係がおかしくなるのは、その相手に正面から心を開けなくなるのである。
同様に、人生の解釈がおかしくなるのは、その事実に正面から心を開けなくなるからである。
なぜなら、我々は、ともすれば、人生の出会いを、無意識に、「幸福な出会い」と「不幸な出会い」に分け、前者の出会いにのみ意味や価値を認め、後者の出会いには意味や価値を認めない傾向があるからだ。
それゆえ、「不幸な出会い」と感じるものについては、「出会った」という事実に正面から心を開かず、その意味や価値を正面から考えるということを避けてしまう。
しかし、ひとたび、我々が、その「不幸な出会い」に心で正面から向き合い、その意味や価値を見つめるならば、不思議なほど、我々の心の奥深くから「人生の解釈力」とでも呼ぶべきものが湧き上がってくる。
その「人生の解釈力」とは、人生で起こった出来事や、人生で与えられた出会いの「意味」を解釈する力のことである。
そして、もし、我々に、その「人生の解釈力」があれば、「不幸な出会い」と思えるものに対しても、先ほどの問いに、自分なりの「答え」を見出していくことができる。
この人との出会いを通じて、そして、この苦痛な体験を通じて、
いま、自分が人間として成長するべき課題は何か?
いま、何を学べと言われているのか?
いま、何を掴めと言われているのか?
逃げた試練は、追いかけてくる
では、我々が、人生で与えられた「不幸な出会い」と正面から心を開かず、その出会いの意味を深く解釈せず、その出会いを自身の成長に結びつけることをしなければ、何が起こるか?
逃げた試練は、追いかけてくる。
これは、どういう意味か?
例えば、職場のA君、上司のB課長と合わない。
B課長の厳しい指導も嫌だが、仕事の細かいミスを指摘してくる神経質なところも我慢ができない。
何カ月か悩み、考えた結果、人事部に申し出て、他の部署に異動させてもらった。
希望した部署の課長は、C課長。
優しくおおらかな人柄なので、この課長の下なら、仕事は気持ち良くやれそうだ。
しかし、その部署に着任して何週間か経ったとき、ふと、気がつく。
このC課長は、期待通り、優しくおおらかな人だ。
しかし、この課のD課長補佐・・・。
前の部署のB課長に、似ている・・・。
指導が厳しく、細かいミスも指摘してくる。
これが、「逃げた試練は、追いかけてくる」ということの意味である。
人生における人間関係の問題は、ある意味で、そのほとんどが、関係する双方に非がある。
どちらか一方だけに非があるということは、あまりない。
従って、我々が何かの人間関係の問題に直面したときには、相手に相当の非があると思えても、やはり、自分にも何がしかの非がある。
自分の欠点や未熟さが原因の一端となっていることも、少なくない。
それにもかかわらず、その人間関係から逃げ、その苦痛から逃げ、その苦痛から逃げ、自分の人間としての「成長の課題」から目を背けてしまうと、一時的には、その人間関係の問題を解決できたように思うが、気がつけば、以前に巻き込まれた問題と同じような問題に巻き込まれ、自分の「成長の課題」を、ふたたび突き付けられることになる。
すなわち、クリアしていない試練は、逃げても、必ず追いかけてくる。
いま直面している人間関係が自分に突き付けている「成長の課題」を直視し、向き合い、正面から心を開いて取り組まなければ、どれほど上手く逃げても、その課題は、別の人間関係の問題として、突き付けられる。
我々が、人生において与えられた「不幸な出会い」の意味を考えるとき、この逃げた試練という視点は、ときに、深い気づきを与えてくれる。
この人生の出来事は、自分に何か問われている試練
そして、この「逃げた試練は追いかけてくる」ということは、我々の人生において、ときに、象徴的な形で、突き付けられることがある。
そのことを、エピソードを通して語ろう。
Aさんが、米国のシンクタンクで働いていた頃のことである。
一週間の夏休みを得て、カナダの国立公園に、家族でドライブ旅行に出かけた。
そのドライブの途上、あるカナダのガソリンスタンドに給油のために立ち寄ったのだが、その店の主人が、極めて不親切な対応をしたため、クレームをつけたところ、口論になってしまった。
最後は、双方、険悪な雰囲気になり、Aさんも、不愉快な気分で店を出たのだが、心の中では、「こんな店には、二度と給油には来ない」と思っていた。
しかし、やはり心の奥深くでは、「なぜ、あのような口論になってしまったのか」という反省の気持ちもあり、後味の悪い思いが、心の片隅に澱のように残っていた。
そして、まもなくその出来事は忘れ、カナダの国立公園で楽しい五日間を過ごし、米国への帰途に着いた。
ところが、その途上、なぜか、乗っていた車のエンジンが、妙な音を立て始めたのである。
それでも、何とか、スピードを落として運転しながら米国に向かったのだが、カナダの国境を出る前に、遂に、そのエンジンが酷い音を発するようになり、もうどこかのガソリンスタンドで見てもらうしかない状況になってしまった。
仕方なく、その道路で最初に目に止まったガソリンスタンドに車を着けたところ、突如、エンジンから大きな破裂音が聞こえ、その車は、全く動かなくなってしまった。
「どうしようか・・・」との思いの中、運転席から目を上げると、何と、そのガソリンスタンドは、先日、主人と口論になり、険悪な雰囲気で後にした店であり、「二度と来ない」と思った店であった。
想像もしていなかった、この状況に、一瞬、途方に暮れたが、不思議なことに、次の瞬間、心の奥深くから声が聞こえてきた。
「この店で、車が動かなくなったことには、何か、深い意味がある・・・」
そして、その声に続いて、心の中に、一つの思いが浮かんできた。
「そうだ、この店の主人に詫びよう。そのために、この店で、車が故障したのだ・・・」
そう思って、店に入ると、その主人、こちらのことを覚えていて、最初、怪訝な顔をしたが、迷うことなく、彼の目をみつめ、心を込めて、こう言った。
「先日は、悪かった・・・」
その瞬間、彼の表情が変わった。
こちらの思いが伝わった表情であった。
その表情を見ながら、さらに一言、伝えた。
「助けてほしい。車が故障してしまった・・・」
すると、その主人、先日とは別人のような誠実な眼差しで、こちらを見つめ、静かに一言、「分かった」と言って、車を見てくれた。
それからの彼の、親切で献身的な修理は、いまも、感謝の気持ちとともに、深く心に残っている。
そして、彼の修理に取り組む姿を見ながら、私は、一人の未熟な人間として、また一つ、大切なことを教えられたと感じていた。
日本から遠く離れた、このカナダという国において、不思議な縁に導かれ、このガソリンスタンドの主人と出会い、心がぶつかり、離れ、そして、互いに心を開き、和解することができた。
それは、有り難い体験であったが、それだけであれば、誰もが、そうした体験を持っているだろう。
奇しくも、このガソリンスタンドの前で、車が故障したとき、一瞬の戸惑いの後、すぐに心に浮かんだのは、「なぜ、こんなことが起こったのか・・・」という思いとともに、「この店で、車が動かなくなったことには、何か、深い意味がある・・・。
この出来事は、何を教えているのか?」という思いであった。
そして、こうした問題に直面したとき、我々に問われるのは、実は、「どうやって、この問題を解決するか?」「どうやって、先日、口論をしたこの主人に、修理をしてもらうか?」ということではない。
その前に、我々が深く考えるべきは、「なぜ、こうした問題が起こったのか?」「なぜ、よりによって、このガソリンスタンドの前で、車が故障したのか?」という問いである。
そして、人生とは不思議なもので、その問いに正しく答えを出し、出会いの意味、出来事の意味を、正しく解釈すると、なぜか、自然に目の前の問題が解決していく。
すなわち、こうした場面で、我々に真に問われているのは、「問題の解決力」ではなく、「人生の解釈力」に他ならない。
そして、この場面で、「なぜ、よりによって、このガソリンスタンドの前で、車が故障したのか?」という問いを自らの心に投げかけたとき、心に浮かぶ答えは、「ああ、これは、心がぶつかった人と和解することのできる『しなやかな心』を身につけよと、何かが教えている」との解釈であった。
すなわち、この出来事は、「車を修理してもらうために、仕方なく、その主人と和解した」という出来事ではなかった。
それは、「心がぶつかった人と和解することのできる『しなやかな心』を身につけるために、この主人と口論になり、その店で車が故障した」という出来事に他ならなかった。
このように、我々は、人生のささやかな出会いや出来事においても、何かの問題に直面した瞬間、「人生の解釈力」が問われることがある。
そのとき、「どうやって、この問題を解決するか?」という視点で考える前に、「なぜ、こうした問題が起こったのか?」という視点で「出来事の意味」を解釈することができるならば、しばしば、直面している問題は、不思議なほど自然に解決していく。
その意味で、このカナダでの出来事は、ささやかな出来事ではあったが、「人生の解釈力」が問われ、その「解釈力」を深める、有り難い出来事であった。
そして、修理を終え、このガソリンスタンドを辞して米国に向かう途中、ふと、著者の心の中に、一つの言葉が浮かんできた。
それが、「試練から逃げても、追いかけてくる」という言葉である。
車で行く途中で与えられた、この「店の主人とのトラブル」という「人生の試練」。
その問題に正しい答えを出さずに去ったとき、五日後に、その問題が、劇的な偶然という形で、ふたたび突き付けられた。
それは、いつもながら、見事なほどの人生の配剤であった。
そして、それからの人生において、試練から逃げたときには、十年の歳月を超えて、追いかけてくることがあることも、教えられた。
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人生の解釈力は、人生の物語をつくり出す力のこと
このように、我々の人生において、「不幸な出会い」と思えるものを「意味のある出会い」に転じ、さらに「有り難い出会い」に転じていくためには、「その出会いの意味を深く考える」ことを通じて、「人生の解釈力」を身につけ、磨いていかなければならない。
では、「人生の解釈力」を身につけ、磨くとは、どういうことか?
それは、心の中で人生の物語をつくり出す力を磨くことである。
例えば、先ほどのカナダの出来事を、どう解釈するか?
一つの解釈は、すでに述べたように、「カナダに旅行に行ったら、ガソリンスタンドの主人と口論になった。
しかし、運悪く、帰りの道で、その店の前で車が故障したため、その車を修理してもらうため、仕方なく、その主人に謝った」という解釈である。
それは、言葉を換えれば、そうした「人生の物語」を心の中に作り出したということである。
もう一つの解釈は、「カナダに旅行に行ったら、ガソリンスタンドの主人と口論になった。
しかし、帰り道で、車が故障したら、丁度、それは、その店の前であった。
それは、心がぶつかった人と和解することのできる『しなやかな心』を身につけるために、自分に与えられた試練であった」という解釈である。
これも、そうした「人生の物語」を心の中に作り出したということである。
この二つの解釈、「どちらが正しいか?」という議論には、意味がない。
そこには、科学的法則のように、誰が見ても正しい「客観的解釈」というものがあるわけではない。
我々が問うべきは、「どちらの物語の方が、自分の心に素直に入ってくるか?」であり、さらに言えば、「どちらの物語の方が、自分の心が癒されるか?」「どちらの物語の方が、自分の心が成長できるか?」であろう。
そして、我々は、人生において、こうした「物語」を、意識的、無意識的を問わず、心の中に無数に、作り出しながら生きている。
それは、特に、人が、人生を振り返り、「想い出話」を語るときに、顕著である。
例えば、我々は、次の様な言葉を、ときおり耳にする。
「あの人に出会ってから、私の人生は、おかしくなった。あの人は疫病神だ」
「あの人は、自分にとって、幸運の女神だ。いつも、素晴らしい機会を創ってくれた」
「我々は、この社会貢献の事業を成し遂げるために、何かに導かれ、巡り会った」
「彼と彼女は、結局、『運命の赤い糸』で結ばれていたんだね」
「私が育った家は、父が専制君主のように振る舞う、息の詰まる家でした」
こうした言葉の中に出てくる「疫病神」「幸運の女神」「何かの導き」「運命の赤い糸」「専制君主」といった言葉は、科学的に誰もが認める「客観的な事実」ではなく、その人にとって、その出会いが、そのように解釈できるという意味での「主観的な物語」に他ならない。
そして、我々が意識的、無意識的につくり出す「人生の物語」は、ときに、自分の人生を否定し、惨めで悲しいものに感じさせていく一方、ときに、自分の人生を力強く肯定し、励まし、癒していく。
「人生の解釈力」とは、ある意味で、人生において与えられた出会いや出来事を前に、そこから「自らを励ます物語」「自らを癒やす物語」「自らを成長させる物語」を生み出していく力のことでもある。
心が衝突する出会いも、実は深い縁
さて、ここまで、「その出会いの意味についてよりよく考える」ということを語ってきたが、そもそも、人生における、人間同士の「出会い」とは、何か?
いま、この時代、地球上には、七十億を超える人々が生きている。
テレビをつければ、地球の裏側に生きる人々の生活も、鮮明な映像で見ることができる。
そして、それらの人々の表情や声も、生き生きとした映像で見ることができる。
しかし、我々は、それらの人々と、決して巡り会うことはない。
この人生で、どれほど多くの人々と巡り会おうと思っても、いずれ、七十億の人々の中の、ごく一握りの人々としか巡り会えない。
それが、我々の人生であろう。
そして、我々は、誰もが、百年にも満たない短い人生を生きている。
それは、この人類の歴史や、地球の歴史から見るならば、まさに「一瞬」と呼ぶべき短い時間。
我々は、誰もが、その「一瞬の人生」を駆け抜けていく。
されば、人生における人との出会いとは、実は、その「一瞬の人生」と「一瞬の人生」が交わる、「奇跡の一瞬」。
もし我々が、その事実に気がつくならば、互いの心がぶつかるような出会いも、心が軋むような出会いも、どれほど「不幸な出会い」と見えるものも、実は、「奇跡」のごとき出会いであることを知る。
そして、その不思議を教えてくれる言葉が、日本には、ある。
「縁」という言葉。
「縁」が無ければ、我々は、決して巡り会うことはない。
そうであるならば、たとえ、心が衝突する出会いも、心が軋む出会いも、やはり、深い「縁」。
そのことを理解するとき、人生における人間関係の「風景」が変わって見えるだろう。
その「風景」が、輝いて見え始めるだろう。
かつて、短い人生を駆け抜けていった、ある社会活動家が、街頭活動での人々との出会いについて、詩のような文章で語っている。
今朝、駅前でビラを配っている時、私の手をはねのけて通り過ぎていった、あなた。
我々の出会いは、不幸な出会いであったかもしれない。
我々の出会いは、寂しい出会いであったかもしれない。
でも、あなたと、出会えて良かった。
それでも、あなたと、出会えて良かった。
たしかに、その通りではないか。
たとえ、どのような出会いであっても、実は、有り難い出会い。
なぜなら、「有り難い」とは、「在り・難い」こと、「起こり・難い」こと。
それは、まさに「奇跡」と呼ぶべき出会いに他ならない。
その出会いは、自分に、どんな成長を求めているかを感じ取る
そして、我々は、誰もが、一回限りの「かけがえの無い人生」を生きている。
それゆえ、我々は、誰もが、人生を大切にしたいと願って生きている。
では、「人生を大切にする」とは、何か?
それは、「人生で出会う人を大切にする」ことに他ならない。
では、「人生で出会う人を大切にする」とは何か?
それは、決して、その人とぶつからないということではない。
ときに、不和や不信、反目や反発、対立や衝突があってもよい。
その出来事を超えて、互いの心が、さらに深く結びつくこと。
その出来事を通じて、互いに成長していくこと。
それが、「人生で出会う人を大切にする」ということのほんとうの意味であり、「人生を大切にする」ということの真の意味であろう。
そして、互いに成長していくために大切なことは、その出会いの意味を考えること。
この出会いは、自分に、いかなる成長を求めているのか?
この出会いは、自分に、何を教えてくれているのか?
この出会いは、自分に、何を学べと言っているのか?
その意味を考えることであろう。
もとより、その出会いについての「意味」は、どこかに書かれているわけではない。
それは、我々一人ひとりが、自分自身の心で、感じ取っていくこと。
「人間を磨く」とは、その「意味」を感じ取る力を磨くことに他ならない。
まとめ
不幸な出会いが転機になることがある。
どんな出会いにも何かしらの意味がある。
試練から逃げても、いずれその試練に突き当たることになる。
そして、人生での試練は自分に何事かを問うている。
何事も解釈一つで人生の物語をつくり出すことができる。