狂信とは猜疑の抑圧である

「君にまかせるよ」というような信頼の態度を示しながら、心の中は猜疑に満ちている。

このような人の心の奥底にあるのは猜疑、不信、憤怒である。
だから、他人に接する時、どうしても盾が必要になってくる。

そして、よりよい盾をもつたびに、心の底にある猜疑、不信、憤怒を強めていく。
他人がいよいよ信じられなくなる。いよいよ不安になる。
その不安と猜疑に打ち勝つのが、神になることであり、他人に自分を神であると同意させることである。

神になることが、彼にとって最強最大の盾なのである。

しかしほんのわずかの例外を除いて、先にも述べた如く、普通の人にはこの最強最大の盾じゃ手に入らない。

ここが大切なところであるが、自分が神になることに失敗したものは、他者を神にする。
その神に自分を同一化して自分を守ろうとする。
それが狂信である。

狂信は、現実の事態を誤って解釈する。
狂信は、猜疑と不安に動機づけられた独りよがりの情熱である。

より大きな城壁を築くことには失敗したけれども、世界から自分を守る姿勢そのものには変化がない。
挫折を契機に依存心が自立心に成長したわけではない。
猜疑が信頼に成長したわけでもない。
憤怒が安らぎに成長したわけでもない。
挫折して彼の心の中は今まで通りなのである。

サディズムがマゾヒズムに変化しても、心の中の不安や無力感が変わったわけではない。

何かを狂信している者は、今までに述べてきた人たち同様、心の中は不安なのである。

「お前などに馬鹿になんかされないぞ」と虚勢を張っている人と同じように、狂信者は不安なのである。

虚勢によって他人を自分の前にひれ伏させようとして失敗したものは、他の者の前にひれ伏す。

しかし、ただ一つ忘れてならないことは、ひれ伏している者は、自分がひれ伏している対象を心の底では信じていないということである。
だから狂信なのである。

狂信とは信じられないということなのである。
狂信している者は、ある人の前にひれ伏しながらも、心のいちばん底ではその人を信じられないでいる。
この悲劇を見つめそこなえば狂信はいつまでも治らない。

信じられないからこそ、ひれ伏すのである。
ひれ伏すという行為を通じて、自分の中にある猜疑、不信、不安を抑圧しようとしているのである。

誇張は欠乏を抑圧しようとするあらわれであることを見抜いたフロイトは、正しい。

ひれ伏すばかりでなく、すべての狂言的行為は、自分の信頼する能力の欠乏を抑圧しようとするところから出ているのである。

狂信者は、その矛盾の緊張に耐えられなくなれば、自殺するか、自分の虚栄心を傷つけた人を殺すか、自閉的になるかしかないであろう。

どうしていいかわからないから狂信するのである。

やるべきことは、実は、いとも簡単なのである。
「後ろ向け、後ろ?」をして歩きだせばいいのである。
どうしていいかわからないのは、今までの生活態度を変えないからである。

つまり対人恐怖症、社交不安障害を克服するには、失敗すまいとして緊張し、自分を試される機会を回避していたのを止め、失敗すればいいのである。
軽蔑されまいとして自分を隠していたのを、自分をあらわにして軽蔑されればいいのである。

そうしたら失敗しても、自分をあらわにしても、案外他人にバカに等されないということが分かるに違いない。
「後ろ向け、後ろ?」ということは、また次のようなことでもある。
つまり、今まで自分の中の愛情能力の欠乏を隠して、欺瞞に満ちた笑みを他人に振りまいていたことを止めるということである。

欺瞞に満ちた笑みを浮かべれば浮かべるほど、自分の中の猜疑心は強くなるばかりである。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するには自分に嘘をつかない、それさえできれば一挙に事態は明るくなる。

どうしていいかわからないというのは、自分に嘘をつきながら事態を解決しようとするからである。
だから八方ふさがりになるのである。

自分には愛情の感情が欠乏している、だけど愛情豊かな人間になりたい。そういう事実認識と欲求のもとに他人に対して微笑めば、愛情豊かな人間になれるだろう。

それを、他者に対する憎しみを心に宿しながら、自分にも他人にも嘘をついて、
愛情深い人間であるかのごとく振る舞うから、猜疑心は増し、不安は増大し、もうどうしていいかわからないということになり、ついに何かを狂信することで解決を図ろうとするようになるのである。

自分に嘘をつき続けたものが、八方ふさがりの事態を解決する為に行うのが狂信である。
狂信とは猜疑の抑圧である。
自分に嘘をつく、それが抑圧である。

さて、それでは今、自分が何かを狂信しているかどうかを見分けるにはどうしたらいいか。

その目安の第一は、絶えず心の底で脅威を感じていること。

それが「馬鹿になんかされないぞ」と言う不安な緊張の態度になってくる。
批判を恐れているのである。

第二は世間嫌いであること。
狂信している人は何かを隠しているわけであるから、自分の実際の姿が他人に明らかになるのを恐れている。
巧妙に自分を守っている。
したがって、世間と気楽に付き合えなくなる。

このように、他人の意見に脅威を感じ、世間嫌いである人は、今自分が信じていることが狂言ではないかどうか、一度反省してみる必要がある。

つまり、今自分が信じていることは、実は、意識の上で、意思で信じているだけであって、心のいちばん底では疑っていることなのかもしれないと自問してみるのだ。
誰かを信じている、何かを信じているつもりになっているが、実は、本当の自分はそれらを疑っている。
猜疑が本当で、信じているふりを自分に課しているにすぎないかもしれないのだ。