振り回されたくないから恋愛しない心理

恋愛と「自分の成長」の両立

「私の友達に、毎晩のように彼と電話で話したり、週末というと彼とデートしている子がいるの。
土曜の午後は一緒に英会話教室に通っていたのに、このところ全然出て来ない。
デートもいいけど、ほかにもやることあるじゃない。
今の時代、女も能力を高める努力を忘れたらだめよね。
人間として成長するには、恋もほどほどにしないとね」
ある若いOLの声です。

勤め帰りにカルチャー・センターや英会話学校に通う勉強熱心なOLが増えたのは、好ましいことです。

単に義務として受け身で教室に座っているだけの学生時代と違って、きっと有意義なひとときをもつことができるでしょう。

それはそれでいいとして、知識を仕入れたり、技能をみにつけたりするだけが成長なのでしょうか。
人間関係のなかで、いろいろなしがらみを生き抜くことで、人間が大きくなるということはありませんか。

最も複雑で繊細な人間関係は恋愛関係です。
人生の一時期、恋の熱にうかれて、英会話の上達がストップしたとして、それがそんなに大きなダメージになるでしょうか。
一生恋に浮かれ続けるわけではあるまいし、若い時期に思い切り情熱を燃やして人を恋こがれ、なかなか思うようにいかずに苦しみ、振り回されて悩むのも、人間的成長につながるはずです。

もちろん、成長するという目的のために恋をするわけではありません。
何事でも、ひたむきにのめりこむ経験が、結果として人間的成長をもたらしてくれるのです。
たとえば、英会話学校に通うにしても、どれだけ話せるようになったかが人間的成長のあかしなのではなく、どれだけの困難を乗り越えて一所懸命取り組んだかが成長につながるのです。
たいしてしゃべれるようにならなくても、一所懸命に何かに取り組んだ充実の時間が、人間的成長を促進してくれるのです。

人生を大切にするということは、自分の成長などという抽象的なお題目を唱えて、身のまわりのことをおろそかにすることではありません。
人との出会いというのは、タイミングを逃すと、二度と取り返しがつきません。
学生時代に英語の授業を怠けていた人が、OLになって具体的目標に結びついたためにまじめに勉強しなおす、という場合のようにはいきません。

「どんなに親しい人でも、自分のなかに踏み込まれるのは嫌」
「深く付き合って振り回されるより、自分の成長のための時間を大切にしたい」

などと言う人は、何か勘違いしているのではないでしょうか。

一人より二人でいる方が成長も二倍になる

人と人が本気で付き合うというのは大変なことです。
育った環境が違えば、生まれてこのかた経験したことも違うし、それによって身についたものの見方・考え方、癖、好みなど、あらゆる点でズレがあって当然です。
そういう異質な人間と人間がつきあうのだから、相手に振り回されたり、揺さぶられたりするのは当たり前です。
譲るべきところは譲り、言うべきことはたとえ衝突する危険があってもなんとか工夫して言わなければなりません。

それがわずらわしいからと、深い関わりは避けて誰ともほどほどに付き合い、一人で生きる姿勢を保てば、それは楽でしょう。

一人であれば、全て自分の思いのままです。

相手の意思を気にする必要がないのだから、わがままもわがままになりません。
そして、ふだんはお互いの生活を尊重するということで距離をおき、互いの気持ちが向いたときだけたまに会うのなら、いつまでもよい関係を保てるでしょう。

でも、それが何になるのでしょう。

相手と向き合うことなく、自分のペースが乱されないように自分を投げ出すこともないつきあいに終始しても、人間的成長を阻害するだけなのではないでしょうか。
こちらの都合優先のわがままな態度を貫くことが、はたして成長につながるというのでしょうか。

関係のなかに自分を投げ出し、相互作用のなかで向こうもこちらも変わらざるをえない。
そんな深い関わりが成長に結びつくのです。
自分が変わらない、何ら強烈なインパクトをもたず、揺さぶられることのない関係なら、なくても同じではないでしょうか。

自分の生活に影響しないから、今のままの自分でい続けることが許されるから、浅い関係に留めておきたいというのは、ひどく防衛的で臆病な姿勢です。
今の自分に固執するのは、自分を解き放つと、どう変わっていくかわからないからです。
とんでもない自分に変わってしまったら大変だというわけです。

つまり、自分が自分自身をほんとうは信頼していないのです。

「恋愛で自分を見失いたくない」と思うほどの”自分”があるのか

先程のOLの話は、まだ続きます。
「深い付き合いになると、楽しい経験を共にするだけじゃなく、重い部分も共有しなければならなくなるでしょ。
そういうのって困るんだなあ。まだ若いんだし、人間できないし、私自身のことで精一杯なのに、彼の仕事とか家庭とか人生の悩みまで引き受けるわけにはいかないでしょ」

そんなことにまで付き合っていたら、こちらの自己形成のための時間とエネルギーを奪われてしまうというのです。

まだ発展の途上にあって、自分自身あれこれ悩みを抱えて揺れ動いているというのはわかります。

どう生きたら一番いいのかがわからず、多少の不安を抱えながら、なんとか明るく生きている―誰でもそんなものです。

では、自分自身の問題にばかり向き合っていれば、やがて成長して解決するのでしょうか。
自分のことで精一杯で、相手の心の重荷を背負うことのできない器の小ささに居直ったまま、自己形成などできるのでしょうか。

自分がしっかりとできあがってから人のことを真剣に考える、などといっていたら、死ぬまで自分はできていきません。
未熟な者同士が、その時点の能力をフル回転させて支え合い磨きあうことで、それぞれの容量が拡大していくというのが、自己形成の本道なのではないでしょうか。

「でも、彼女みたいに自分を見失いたくない」
先程のOLはこう言います。

それほど見失いたくない自分って、いったい何でしょう。

その正体はほんとうにみえているのですか。
そんなに今の自分って魅力的なものなのですか。
そんな確固とした自分があるのですか。

もしかしたら、「自分が大切」と言いながら、ほんとうは自分というものが欠如しているのではないでしょうか。
その空虚さに気付かされるのが怖くて、自分を鏡のように映しだす深い関係を無意識のうちに避けているのかもしれません。

自分というのは、人との間でふくらんでいくものです。
人と真剣に関われば関わるほど、思いどおりにいかず悩んだり苦しんだりすればするほど、自分の容量は増していきます。
深い関わりゆえに相手に自分を奪われる、削り取られるということはありません。
たとえ時間やエネルギーは奪われても、摩擦があればあるほど自分というものはふくらんでいきます。

その点で最も自分をふくらましてくれる可能性をはらんでいるのが恋愛です。
無我夢中の関わりのなかで自分を見失い、二人の間に特殊な空間ができ、それぞれがこれまでの自分の殻を破って無防備な姿で出てきます。
そして触れ合い、二人の喜びや苦しみや努力とともにその空間がふくらんでいき、そこからより成長した自分と、相手にとっての自分がたえず生まれ続けるのです。

真剣に相手を求めることは、真剣に自分を求めることでもあるのです。
無防備な自分を投げ出し、相手を強烈に求めることのできない人は、より大きな自分に生まれ変わることはできません。
自分の成長をめざすなら、何はともあれ深い関係のなかに自分を投げ出すことです。