いつも中途半端で諦めてしまう人

逃げ道をいつも用意してはいないか

あきらめ癖があり、何事に関してもほどほどのところで撤退してしまう人がいます。
ちょっとみると無気力でやる気のない人のようですが、じつは「うまくやりたい」という気持ちがものすごく強い人が多いのです。

うまくやりたい気持ちの人一倍強い人は、失敗することを極度に恐れます。
だからこそ、失敗したときのダメージを軽くすることに腐心するのです。

手っ取り早いのは、何事にもムキにならないことです。
うまくいこうがいくまいがどうでもよい、どうせ片手間にやっているのだからというポーズを装うことです。

なかなか定職に就こうとしない人のなかには、こうした傾向をもつ人が少なくないのです。
本気で取り組んだ末にかんばしい成果が得られなかったら、自分に適性がないことを認めなければなりません。
それは苦痛です。
何事にも中途半端に取り組んでいれば、
「本気で取り組めば、私だってこの道のプロになれるわよ。でも、それじゃ他の可能性を捨てることになるじゃない」

と、失敗したときのいい訳をつくると同時に、自分は何でもできるはずという万能感の幻想を保つことができます。

スポーツでもテレビ・ゲームでも、はじめのうちは真剣にやっていたのに、分が悪くなるとふざけだし、いかにも自分はいい加減にやっているといったポーズをとる人がいるものです。

ほんとうに勝負へのこだわりがなければ、形勢がよかろうが悪かろうが最後まで真剣にやれるはずです。

ゲームそのものを楽しめば、結果はどうでもよいのですから。

仕事、勉強や恋愛でも原理は全く同じです。
失敗を取り返しのつかない重大事のように思い込んでいるから、結果が気になるのです。
結果を気にするから、失敗したときの自尊心の傷つきを軽減するため、逃げ道を用意しておかねばならなくなるのです
自分はこんなことに全力を傾けているわけではないと。

結果を恐れていてはどんなチャンスも生かせない

そんな人は、失敗で失うかもしれないものをひとつひとつ検討してみましょう。

たとえば、社内で奨励されている資格取得をめざしつつ、試験で落ちたらみっともないという不安があるとします。
試験の準備勉強に真剣に取り組んでいる人を冷やかしつつ、自分もやらなくてはとのあせりはどこかで感じています。
でも、試験に落ちたときのことを考えると、ムキになって勉強できないのです。
仕事でも恋愛でも、同様のことがあるはずです。

失敗したら何を失うのでしょうか。
資格はもともとないのですから、失うことはできません。
うまくいけば得られるというだけです。

自信は失うかもしれません。
しかし、はじめから逃げて失敗を逸れることで保てる自信とは、どれほどのものなのでしょう。
そんな姿勢をとって虚勢を張っていても、知らず知らずのうちに自尊心は低下していってしまいます。

落ちたことを同僚に知られたら、体面を失うという人がいるかもしれません。
でも、逃げの姿勢をとり続けて失敗を避けている人が、もともと尊敬されていると思っているとしたら虫がよすぎます。
付き合っていれば、そのくらいのことは見抜けるものです。

そうしてみると、何事によらず、全力を尽くして失敗することで失うものはほとんどないことになります。
うまくいけば一段と飛躍でき、失敗してもやる前の状態に戻るだけです。

ギャンブルだったら、失敗すれば元手をすっかり奪われ、下手すると身ぐるみはがれてしまいます。
それに比べたら、とても割のいい勝負といえないでしょうか。

心の中にひそみ、行動にブレーキをかけている失敗への恐れを捨て去れば、プロセスそのものを思う存分味わうことができます。
とにかく全力でぶつかれます。
そのなかで、知識が増えたり、頭が鍛えられたり、心が鍛えられたりするのです。
結果として、資格がとれなかったり、昇進できなかったり、就職できなかったりしても、気力・知力・体力の限りを尽くしたという実感は、事実として残ります。
自分の成長も実感できます。

そうなれば、就職試験に落ちても、昇進に失敗しても、立ち直りは早いでしょう。

それに、結果を恐れず全力でぶつかることで、うまくいく可能性が大きく開けてきます。

ムキになるのは格好悪いという風潮がありますが、一所懸命にやって失敗した人間を心から笑える者はいないはずです。

ためしに身近なところでちょっとムキになって何かに取り組んでみましょう。

失敗なんてたいしたことないということがわかります。

全力でぶつかることで経験の積み重ねという財産が得られること、さらにがんばったという爽快感が得られることがわかります。

逃げ道をつくっておくことなど考えず、やりたいと思うことに体当たりしてみましょう。