本当の自分がわからない

「無口で無愛想な自分」と「明るくおしゃべりな自分」

「いったいどれが、本当の私なのだろう。もしかしたら私は二重人格なのではないか」

ふとこんな思いにかられた経験があるという人は意外に多いのです。

家族のなかにいるときの自分と、学校で友達のなかにいるときの自分のあまりのギャップに、我ながらあきれるという人がよくいます。
たとえば、家にいる自分は無口で無愛想で、何事にも無感動で淡々としているのに、仲のよい友達の前ではいつも明るく饒舌で、みんなを笑わせている、というように。

思考が内向化し、自分について思いをめぐらすことの多い青年期にありがちな悩みですが、人間というのはそれほど単純なものではありません。
多面性をもって当たり前なのです。

哲学者和辻哲郎は、『人間の学としての倫理学』のなかで、「人間とは一定の間柄における我々自身である」

「人間は間柄において『我れ』となる」と言っています。

人の間、つまり人間は、他人との間に存在するものです。
個人の側からみれば、関わりをもつ相手との間に存在するのが自分なのです。

まずはじめに相手との関係があって、それに応じて自分が特定の形をとるのです。

心理学者ジェームスは、「人は自分を認める集団の数だけ社会的自己をもつ」と言いました。
これは、関わりをもつ相手の数だけ自分の顔があるといいかえてもよいでしょう。

私たちが日常何気なく用いていることばを振り返ってみましょう。

日本語では、相手との間柄によって敬語の使い方に注意を払わなければならないだけでなく、自称詞まで異なってきます。
これは、相手との関係によって自分の態勢が、いいかえれば、自分の顔が異なることの端的な表れといえます。

具体的な相手の登場によって、それに見合う自分の顔が前面に引き出されるのです。

関わりあう相手の数だけいろんな顔の自分がいる

たとえば、ある男性が一日のうちに用いる自称詞の変化をみてみましょう。

朝、食卓に着き、トースターにパンを投げ込んでスイッチを入れ、新聞を読みながら、台所にいる妻に向かって、

「僕はコーヒーがいいな」と言い、横でテレビをみている子どもたちに対しては、

「今度の日曜日、おとうさんと山登りに行こうか」
と話しかけます。

家を出たところで、ボールをドブに落として泣いている近所の子どもをみつけると、
「どれどれ、おじさんが取ってあげよう」
と言って拾ってあげます。

会社で取引先の苦情に対しては、
「どうも申し訳ありません。
いっそうの工夫を重ねますから、どうか私にお任せいただけませんでしょうか」
と応対し、アフター・ファイブの居酒屋では、同僚相手に、
「俺はもう我慢できない。あんな会社はやめてやる」と息巻きます。

同一人物が一日のなかで、「僕」になったり「おとうさん」になったり、「おじさん」「私」そして「俺」になったりするのです。
歴史的にいろいろな役割を期待される社会的場面に出かけることが多かったせいか、男性のほうが自称詞が豊かなので、ここでは男性の例をあげましたが、女性でもほぼ同様の使い分けがみられます。

自称詞が変わる際、自分のよび方が違うだけでなく、それぞれの相手の前で一定の形をとっている自分そのものも違っていないでしょうか。
家族との間、仕事相手との間、私的な友人との間、恋人との間、あるいはもっと間接的に愛読する作家との間など、関わりあいをもつあらゆる対象との間に自分は育ち、それら多くの自分が、統一体としての自分のそれぞれ一面を構成するのです。

それならば、相手によって、場面によって、自分の形が違っていても、ほんとうの自分がわからないなどと気に病む必要はないでしょう。
むしろ、さまざまな間柄のなかで、いくつもの自分を育て上げたほうが、豊かな自分ができあがっていくのではないでしょうか。