魅力的な女性
魅力的な女性の心理
現代は女性の時代だそうです。
街を歩くと、キビキビした動作で颯爽と行き過ぎる行動派女性、華麗なファッションに身を包み女性美をふりまくあでやか女性、清楚な優しさを感じさせるしなやか女性、スポーティな装いで健康的な笑顔をみせるさわやか女性、それぞれに自分らしさをアピールした女性がやたらと目につきます。
たしかに元気のよい魅力的な女性が増えたように思います。
でも、なぜとくに女性が元気なのでしょうか。
因果のほどはわかりませんが、昨今の女性の活動領域の急速な拡大が関係しているのはたしかでしょう。
男女雇用機会均等法の施行によって、女性もその気にさえなれば、男性と同等の待遇のもとにキャリアを追求できるようになりました。
もっとも、残業や転勤など男性と同様の生き方が要求されるという点で、全ての女性に歓迎されたわけではありません。
現実に総合職を志願する女性はごくわずかですし、ひと握りの総合職と大多数を占める一般職という図式が、女性にとっての新たな職場問題を生んでいるのも事実です。
それでも、これまで女性がキャリアを追求するとしたら、教員、公務員、弁護士など特殊な資格を要するものに限られていたのに、一般企業にも腰かけでなく働く場が保障されたのは画期的なことのはずです。
政治の場への女性の進出もめざましいものがあります。
マドンナ旋風と騒がれ、女性候補者の威勢のいい演説が目についたものでした。
スポーツの世界でも、これまで男性のものとされていた領域への女性の進出は、目を見張るものがあります。
女子柔道、女子マラソン、女子サッカーなどは、もう立派に市民権を得ていますし、そのうちラグビーや野球、相撲などにも本格的に女性が進出してくるのではないかと思わせる勢いです。
でも女性力士誕生などという日には、ちょっと複雑な気持ちになってしまいそうです。
大学・短大など高等教育機関への進学率をみても、男性がここにきて頭打ちなのに対して、女性のほうは急速に上昇しています。
とうとう1989年には男女差が解消されました。
もっとも、女性の場合は短大が多いので、男女の進学形態が全く同じになったというわけではありません。
こうした社会的風潮のなか、身近な生活領域を見回しても、男性のものとされた場への女性の進出が目立ちます。
たとえば、現代の女性は居酒屋に対する抵抗は全くないでしょう。
飲酒は未成年でなければ男女全く対等に許されている行為ですが、以前は女性の飲酒に対する世間の目には厳しいものがありました。
ワインやカクテルをちょっとたしなむ程度が女性らしいという感覚があったと思います。
それが今では、女性同士が居酒屋で焼き鳥片手にビールのジョッキをぶつけて、「カンパーイ!」とやっていても、手拍子で音頭を取りながら一気飲みをしていても、全く違和感がありません。
はじめのうちはとまどった男性も多かったと思いますが、もう慣れてしまったでしょう。
最近はどこの居酒屋もずいぶんきれいになりましたが、これも女性の進出のおかげです。
1970年代の終わり頃でしたか、女子大に喫煙コーナーができたのが話題になったことがありました。
今では、とりたてて騒ぐほどのことではないですね。
喫茶店にでも出かければ、いつでも若い女性の喫煙の姿をみることができます。
競馬場、競輪場など、ギャンブルの場への女性の進出も目立ちます。
武豊フィーバーなども、多数の熱狂的な女性競馬ファンの存在を証明するものでしょう。
みえない糸にしばられている男性たち
女性の活動領域は、あらゆる方面で急拡大中です。
では、男性のほうに目を転じてみましょう。
たとえば、男性が大学に進学しても、政治家になっても、それはもともと珍しいことではなかったので、何の話題性もありません。
進学率、就職率、飲酒率、喫煙率などは、もうすでにかなり高いので、今さら急拡大して勢いがつくなどということはありえません。
それと同時に、男性に対する社会規制が意外に強いということがあるのです。
男性の生活領域にも拡大の余地は多く残されています。
女性の生活領域は大幅に拡大しました。
女性が一人でカウンター・バーでグラスを傾けるのも格好いいし、居酒屋で女性グループが明るくはしゃぐのもおかしくありません。
でも、男同士でチョコレート・パフェやプリン・アラモードを並べて仕事の打ち合わせをしている姿は、周囲の目にどうも違和感を与えるようです。
ささってくる周囲の視線を感じないわけにはいきません。
男性用化粧品が出回り、パックをする男性も増えてきているそうです。
チークやアイシャドーを塗っている男性もいますし、イヤリングやネックレスをつける男性もいます。
でも、コンパクト片手に化粧を直している男性をみかけることはありませんし、まだまだ化粧は女性のものとされているのではないでしょうか。
服装に関しては、女性のほうがはるかに自由なのではないかと思います。
デパートなどに行くと、ありとあらゆる形の婦人服がみられますが、紳士服はかなりパターン化されています。
出勤するのに、女性ならスーツでもブラウスにセーターでも、はっきりいってかなりラフな格好でもOKです。
これに対して、男性はワイシャツ、ネクタイ、スーツの三点セットからいまだ解放されません。
まして、男性がスカートで出勤するなど考えられないことです。
女性はスカートでもズボンでもいいのに、男性はズボンしかはけないというのは、どうも片手落ちのような気がするのですが、どうでしょう。
真夏にズボンが汗で足にへばりつく不快さは、男性なら誰もが実感していることです。
それにもかかわらず、風通しのよいスカートをはいて出勤する男性はいないのです。
冷え症の女性が冬に厚手のズボンをはいても少しもおかしくないというのに。
昔、人気グループのチェッカーズがスカートをはいて歌ったことがありました。
しかし、その歌ははやっても、男性のスカート姿が広まることはありませんでした。
どうも女性に追い風が吹いている時代のようです。
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思いきった進路選択も女性のほうが可能か
就職を前にした学生たちが、こんなことを話していました。
「女子はいいなあ。僕がもし女だったら思いきって自分の能力を賭けるような職に就くんだけど・・・」
「思いきってやってみればいいじゃないか。後悔するぞ」
「今ひとつ自信がないんだなあ。いちかばちかやってみて失敗したときのことを考えると、どうもなかなか踏みきれなくて」
「そんな中途半端な態度ならやめたほうがいいな。プロで食っていくっていうのは、そんなに甘いものじゃないよ」
「だから女子がうらやましいんだ。結婚して仕事をやめるかもしれないし、一生働きつづけなければならないわけでもないから、ダメでもともとでチャレンジできる」
「たしかに、そういう面もあるかもしれない。とくに能力が光るわけでも、努力してるわけでもないのに、カッコいい職業ばかりめざしている連中が女子には多いからね」
「こっちはダメだったら家庭にはいるなんてわけにもいかないし、どうしても現実的にならざるをえないよな」
「なかなか思いきれないわけだ」
「それに、女性だったら働くといっても、自分一人分の生活費がなんとかなればいいから身軽なところがあるけど、男は妻子を養えるだけの収入の確保を前提に人生設計しないといけないようなところがあるだろう」
「ダメだったら家庭にはいるという女性の受け皿ってわけか」
「そういうわけじゃないけど、もともと男と同じような生き方を望んでいない女性だって多いわけだし・・・。家庭のための生活費を確保する義務を男は背負わされているという現実は、やっぱり否定しがたいんじゃないかなあ」
ウジウジして情けない男たちだと思う人もいるかもしれません。
でも、これは平均的な男性の本音ではないでしょうか。
もちろん、男子にも、冒険と思われる類の就職、いちかばちか自分の能力を賭けてみようというような就職、あるいは転職をする者もいます。
でも、それはある程度才能に自信があるか、経済的なバックに余裕があるかしないと、なかなかとりにくい道のようです。
少なくとも、そう思って慎重に就職しなければならないような境遇に、男性はこれまで長い間置かれてきたといってよいでしょう。
そういえば、男子学生の就職というと、非常に重たく、現実的なところがあるのに対して、女子学生の場合、こちらが「ほんとうに大丈夫なのかなあ?」と首をかしげてしまうほど、大胆かつ気軽な選択をするケースがままみられました。
私自身も、思いきった就職や大学院への進学を希望する女子学生たちに対して、賛意を表明し、応援することしばしばですが、相手が男子だったらはたして賛成できただろうかと考えこんでしまうケースもあるのが事実です。
これはべつに、女性は安易に進路を決定している、ということではありません。
一家を養う生活力の獲得とその長期にわたる維持を射程に入れて、進路を選択することの多い男性に比べて、身軽さをもつ女性は思いきって自分の才能を賭けるような積極的な生き方をとりやすいというわけです。
もちろん、思いきった賭けに出たところで、よほどの才能と運と努力が伴わないと報われないのが現実ですから、挫折の憂き目をみる可能性も大きいということも忘れないようにしましょう。
生まれ変わるときも女になりたい
一方で、一生仕事を持ち続ける覚悟で慎重に職をさがす女性も少なくありません。
先程の男子学生の会話では見逃されていますが、そういう女性にとって、職場環境はまだまだ厳しい面があります。
それでも、女性のほうが生き方に選択の幅があるということはいえるのではないでしょうか。
専業主婦として、家事や育児に真剣に取り組むことで、社会的役割を立派に果たしつつ充実していく道もあれば、家事・育児はできるかぎり家族や外部施設に依存して、キャリアを追求する道もあります。
そこまで極端でなくとも、職業生活のなかに生活の張りを求める道もあります。
子育てが一段落したら再就職するというように、家庭生活と職業生活双方のプロとしての経験をする道もあります。
伝統的な女性のスタイルで、従順に、素直に、献身的に生きようとする女性は、かわいく、けなげな女性として好意的な評価を与えられます。
反対に、かつて男性の生き方とされたスタイルでバリバリ働く女性も、幾多の困難に出合うのは避けられないにしても、現代的な、カッコいい女性として評価されます。
生物学的に男性であれ女性であれ、心理的に男性性の強い者もいれば、女性性の強い者もいます。
それぞれに、自分の性格にふさわしい生き方をみつければよいのです。
男性性の強い女性なら、男性に伍して外で働く道を選べばよいのです。
その点でも、今は女性のほうが恵まれているのではないでしょうか。
たとえば、女性性の強い男性が、現代的なカワイイ男性として、プラスの評価を与えられているかどうか考えてみればわかります。
女性性を発揮して、専業主夫になりたいという男性がいたとしても、女々しいとか、情けないとか、ヒモだとか非難されてしまいます。
外の世界の荒々しい競争には熱心になれない、競争より共存という視点に立って身近な人間関係にひたって生きたいと考える、内気で繊細で心優しいがいても、その存在意義はなかなか認めてもらえません。
このような世の中の情勢を映すかのように、「もし生まれ変わるとしたら」という質問に対して、「もう一度女性に生まれたい」とする女性が増えてきています。
文部省が実施した調査によると、1960年代前半までは「今度は男に生まれたい」という女性のほうが多かったのですが、1960年代の後半に逆転し、その後は「もう一度女性に生まれたい」という女性が少しずつ増えています。
1980年の朝日新聞の調査でも五割以上の女性が、1989年のアルトマンの調査ではなんと七割以上の女性が「もう一度女性に生まれたい」と答えています。
女性にとって生きやすい時代になってきた証拠ではないでしょうか。
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学問、職業、自己主張、リーダーシップなど、かつては男性のものとされた領域に進出する女性が増えてきました。
そのような女性が出始めたとき、世の男性たちがどんな反応を示したか、文学作品から推し測ってみましょう。
ここでは、明治40年に発表された田山花袋の『蒲団』と夏目漱石の『虞美人草』を比べてみたいと思います。
花袋の『蒲団』の主人公・竹中時雄は、有名な文学者です。
彼は、神戸女学院の生徒である横山芳子から弟子入りを希望する手紙をもらいます。
東京に出て、しかるべき学校に入学して、文学をしっかり学びたいというのです。
はじめのうちは、女性にそんな生き方は向かないとして、まともにとりあわなかったのですが、やがて、一生文学に携わりたいとの芳子の強い志に打たれて、彼女を門下生として迎え、めんどうをみることになります。
いざ芳子を門下生として身近に置くようになると、竹中はその新しい女性としてのはつらつとした魅力にひかれていきます。
45年来の女子教育の勃興、女子大学の設立、庇髪、海老茶袴、男と並んで歩くのをはにかむようなものは一人もなくなった。
この世の中に、旧式の丸髷、泥鴨のような歩き振り、温順と貞節とよりほかに何物をも有せぬ細君に甘んじていることは時雄には何よりも情けなかった。
路を行けば、美しい今様の細君、ましてその身が骨を折って書いた小説を読もうでもなく、夫の苦悶煩悶には全く風馬牛で、子どもさえ満足に育てればいいという自分の細君に対すると、どうしても孤独を叫ばざるを得なかった。(中略)この孤独が芳子によって破られた。」
そして、得意になって芳子に
「女子ももう自覚せんければいかん。昔の女のように依頼心を持っていてはだめだ。(中略)父の手からすぐに夫の手に移るような意気地なしでは仕方がない。日本の新しい婦人としては、自ら考えて自ら行なうようにしなければいかん」
などと新しい女性としての生き方を説いては、イプセンの『人形の家』のノラの例をひきあいに出したりしました。
やがて、竹中は芳子に恋愛感情めいたものを抱くにいたるわけですが、その話は別にしても、花袋は「自覚的に生きる女」「男性と対等に話ができる女」として、新しい女性というものを肯定的に描いています。
この小説中の芳子に相当するモデルが実在したとして、花袋の実生活をめぐって議論が沸騰したことがありました。
小説のなかだけでなく、どうやら花袋は新しい女性の生き方に実際にひかれるところがあったと考えてよさそうです。
自己主張する女性を嫌った夏目漱石
これと対照的な反応を示しているかにみえるのが漱石です。
漱石は、新しい女性というものを生理的に嫌悪している節があります。
漱石の『虞美人草』には、藤尾という女性が出てきます。
この小説に登場する他の従順で家庭的な女性たちと違って、藤尾は自分なりの価値基準をしっかりともち、それに基づいて行動し、はっきりと自己主張します。
結婚相手として、将来が嘱望されている外交官の卵の宗近よりも、「詩人にして産を成したものは古今を傾けて幾人もない。(中略)詩人程金にならん商売はない。
同時に詩人程金の入る商売もない。
文明の詩人は是非共他の金で詩を作り、他の金で美的生活を送らねばならぬ事となる」
などと考える貧乏学者で詩人の小野を選ぼうとし、小野に現に恋人がいるにもかかわらず、周囲にそのことを宣言してはばからない。
この自己を強く主張する新しいタイプの女性は、漱石によってかなり否定的に描かれます。
「藤尾は己れの為めにする愛を解する。人の為めにする愛の、存在し得るやと考えた事もない。詩趣はある。道義はない。」
「文明の淑女は人を馬鹿にすることを第一義とする。人に馬鹿にされるのを死に優る不面目と思ふ。」
登場人物にも、藤尾のことを、
「藤尾のような女は今の世に有り過ぎて困るんですよ。気を付けなさいと危ない」
「藤尾は駄目だ。飛び上りものだ」
などと評させています。
漱石の愛弟子の小宮豊隆は、藤尾という登場人物に好意的な興味を抱き、そのことを漱石に伝えたようです。
それに対して、小宮あての手紙のなかで、漱石はつぎのようにたしなめています。
「藤尾という女にそんな同情をもってはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。徳義心が欠乏した女である。あいつを仕舞に殺すのが一篇の主意である。」
実際、藤尾を失恋によるプライドの崩壊とともに死なせたところで、『虞美人草』は幕を閉じるのです。
「(小野さんは)趣味を解した人です。愛を解した人です。温厚の君子です。―哲学者(である兄さん)には分からない人格です。
あなたには(宗近)一さんは分かるでしょう。
しかし小野さんの価値は分かりません。
決してわかりません。
一さんを賞める人に小野さんの価値が分かる訳がありません」
と宗近との結婚をすすめる周囲に対して、激しく自己主張する藤尾は、単なるわがままというより、正直に自分の心情を明かしているにすぎません。
家庭的でひかえめな女性登場人物に好意的な漱石は、藤尾という自分の意思をもった新しいタイプの女性を「我の女」として一貫して否定的に描いたのです。
花袋と漱石は、新しい女性の異なった面をそれぞれクローズ・アップした結果、好対照の評価を与えることになったといえそうです。
「女性はこうあるべき」にとらわれない生き方を
これは明治四十年というはるか昔の話であるにもかかわらず、今”新しい女性”とよばれる人たちと本質的に変わっていないと思うのですが、いかがでしょうか。
そうした女性に対する現代の男性の反応にも、花袋的な面と漱石的な面が混在しているのではないでしょうか。
現代の男性も、
「ただ従うだけの女性ではものたりない。こちらに頼るばかりでなく、自分でものを考えることのできる女性でないと、何も話せないし、つまらない。僕の仕事のことも理解してほしいし、よき話し相手であってほしい」
「映画や小説などの感動を共にするには、やっぱりある程度の教養がないとね」
などと言うかと思えば、
「なまじっか教養をみにつけた女性は理屈っぽいし、気が強いからいやだね。一緒にいて疲れてしまう。譲るべきところは譲って、もう少ししとやかになれないかなあ」とこぼしたりします。
「自分というものをしっかりともって、自分らしい生き方を真剣に追求している女性なら応援したくなるけど、腰かけ気分で働くチャラチャラした女性は目障りで腹が立つ」
と言うかと思うと、
「女性はやっぱり家庭をしっかり守ってくれないと、男としては安心して外で働けない。男と対等に働こうなんていう女性は、ごめんこうむりたいね」
と言ったりします。
それぞれの言いぶんには、それなりにしかるべき論理があるわけですが、ここまで一貫性がないと、女性としてどう対処すべきか悩む人が多いのもうなずけます。
いずれにしても、かつて男性のものとされていた世界に積極的に進出しようという新しい女性の生き方は、広く世の中に浸透しつつあります。
ただし、新しい女性と男性の共存の形態は、いまだ模索の域を出ません。
これからの若い世代にかかっているわけですが、「女性はこうあるべき」といずれの極端を偏重しても、それに合わない人がたくさん出てきてしまいます。
それぞれに自分に合った生き方ができるよう、どんな生き方を選択しても肩身の狭い思いをしなくてもよいように、柔軟なものの考え方を身につけましょう。
せっかくみえかけている多様な選択肢を、打ち消さないようにしたいものです。
フリー感覚の女性たち
増えている派遣社員のメリットとデメリット
二十代の若い人たちの間では、定職志向が弱まっています。
アルバイトでも食べていける豊かな時代、なにものにも縛られず自由な生活を維持したということでしょう。
組織のために身を粉にして働く会社人間など、遠い昔の話のようです。
とくに女性の間では、派遣社員という労働形態がはやっています。
人材派遣の会社に希望業種や職種、自分が身につけている技能などを登録しておき、企業などから派遣依頼がきて、相互の条件が適合した場合、そこに一定期間派遣されるというものです。
派遣社員として職場を転々としている女性たちの話では、なんといってもその長所は、勤務時間が明確に決まっており、短期間の契約勤務であるため、職場にどっぷりつかることを強要されないという点にあるようです。
職場のストレスの多くが職場の人間関係によるものですが、派遣社員というのはあくまでも外の人間ですから、職場の人間関係のしがらみに巻き込まれずにずむのです。
契約に反する理不尽な要求をされたら、はっきりと拒否できます。
正社員であれば、それなりの帰属意識を要求され、本人としても長く勤めることを考えたら将来への影響も気になるでしょうから、ある程度は組織のために犠牲を払わざるをえないケースも出てくるはずです。
その点、派遣社員は、契約内容さえきちんと果たせば、あとはマイペースを守ることができます。
つぎからつぎへと職場を移るのですから、いつも居心地のよい職場にめぐりあうとは限りません。
でも、雰囲気の合わない職場も、短期間だと思えば我慢できます。
アフター・ファイブを趣味や勉強のためにしっかり確保するためにも、収入や福利厚生面に多少の不利はあっても、正社員より派遣社員のほうがいいという意見もみられました。
さらに、正社員になると長期休暇がとりにくいけれども派遣社員なら、契約が切れたらつぎの契約をするまでに、好きなだけの休みを設定できる点が魅力だという声もありました。
働いては海外旅行をし、また働いては読書三昧の生活にひたるというように、望むとおりのライフ・スタイルの設計が可能なのです。
こんな夢のような仕事にも難点はあります。
まず、正社員と違って組織による保証は一切あてにすることができないのですから、職にあぶれることもあるでしょうし、健康を害して仕事を休めば即収入が途絶えています。
また、契約にしたがって労力を売っているわけですから、買う側の企業から役に立たないとみなされたらお払い箱で、いい加減になんとなく通って稼ぎつづけるような甘さは許されません。
派遣社員のほかにも、歩合制のセールス、フリー・ライター、フリー・カメラマンなどの契約社員、一般のアルバイトなど、フリーな労働形態が非常に多くなっています。
会社を「自分を磨く場」として考える
フリーで働く人たちの特徴は、組織への帰属意識が薄いことでしょう。
それには一長一短があります。
身軽に働く女性が注意しなければならないのは、アルバイト感覚のために、自分さえよければ組織はどうなってもかまわないといった無責任な感覚に陥ることです。
職場への帰属意識の乏しさが、給料の対価として労働力を売るプロにあるまじき態度を生むことがあります。
たとえば、アルバイターを多く雇っている店のなかには、無愛想な店員ばかりで、店主一人が愛敬をふりまいているという店があります。
運悪くこの種の店にはいってしまったときなど、もう二度と来たくないと思うことがあります。
やはり、サービス業は、モノを客に出しさえすればよいというのではなく、客が気持ちよくくつろげる雰囲気づくりを心がけることが大切です。
店の雰囲気は、店員と客との人間関係によってつくりだされるものです。
いくら内装に金をかけ、よいモノを出しても、雰囲気がよくないと客の足は遠のいてしまいます。
でも、それで困るのは店主だけなのです。
アルバイターとしては、一定期間きちんと時給いくらが確保できればよいのであって、万が一店がつぶれたら別の店に移ればよいのですから。
そうした無責任な態度は困りものですが、自由な境遇をもっと前向きに利用することもできるはずです。
帰属意識の乏しさが、社内での出世へのこだわりからくる見苦しい姿をとらせず、上司など周囲からの評価にビクビクしたりせずに仕事人に徹し、実力を蓄えるという方向に向かわせるとしたら、それは非常に好ましいことです。
会社を自分の能力(対人関係能力も含めて)を磨く場として利用しているつもりで、力いっぱい働けばよいのです。
より条件のよい職場があったら移ろう、という気持ちがあっても一向にかまいません。
よりよい条件での転職を成功させるためには、真剣に仕事に取り込み、力をつけておかなければならないのですから、その過程で今の職場にも相応の貢献はできるはずです。
夢と「自分の能力」のギャップが大きすぎる場合
生活費を稼ぐだけが目的なら、職場はいくらでもあります。
それならば、稼ぐことを第一に掲げるのでなく、自分の能力や人格を磨くことを目的として職を選びたい。
これは、まさに豊かな社会ゆえの発想といえます。
しかし、実際に豊かな社会が目の前に実現している以上、そうした冒険的な職業選択があってもよいでしょう。
相変わらず、何が何でも定職について、早く安定しないと一人前でない、といったとらわれから解放されないでいる多くの男性と比べて、女性のほうが余裕をもって、自分によりふさわしい仕事をさがすことができるともいえます。
ただし、安易に考えられては困ります。
就職の面接にあたって、男子には「どこに配属されても全力を尽くすからどうしても入社したい」との熱意を感じさせる者が多いのに対して、女子は「この職種でないと困る」といった注文の多いケースが目立つという話を聞いたことがあります。
「好きな仕事ができるところに就職したい(あるいは転職したい)」
そんな感覚的な発言が多いのも、近頃の若い女性たちの特徴のようです。
それでは、好きなことで、お金を払ってもらえるだけの能力を身につけているのでしょうか。
あるいは、そのために何らかの能力を磨く努力をしているのでしょうか。
好きなことをして暮らせたら、そんなにすばらしいことはないのですが、現実の自分をみる目をくもらせないことも大事です。
今の自分にいったい何ができるのか、冷静に自己分析してみましょう。
同時に、これからどんな能力を磨いていくべきかを検討してみましょう。
こうした点を明確にしないまま、
「好きなことができる職に就きたい」
「自分の能力が生かせる仕事に就きたい」
と漠然と思っているだけでは、不満がつのるばかりで一歩も前進できません。
まずは自分の成長につながる地道な行動を起こすことです。
ある人材派遣会社の調査によると、女性が身につけたい技能として第一にあげているのは「PC」で、「英会話など外国語」と続いています。
また、ある保険会社が勤続年数5年以上のOLを対象に行なった調査によると、自分の能力を伸ばすためにしていることの第一位が「読書」、ついで「PC、オフィス」「習字」「簿記」「英会話」などがあがっています。
売り物になる特技としてどんなものがあるかの目安になると思います。
ともすると「自分は特別」みたいな自己愛的意識をもってしまいがちなのが人間です。
よほど注意していないと、自分を過大視して、自分は充分報われていないというような被害者意識を抱いてしまいます。
でも、とりたてて言うほどの能力をもたない者が「自分の能力を生かせる仕事に就きたい」と言うことほど、他人からみて滑稽なことはないのです。
女性は甘えている、現実離れした夢ばかり追って地に足がついていないなどと批判されないためにも、誇大自己の妄想から抜け出したいものです。
仕事が面白くないの対処法
面白いだけの仕事なんて、そうそうない
フリーと転職の時代になるとともに、「もっと面白い仕事ができる会社に移りたい」という声をよく耳にするようになりました。
誰だってつまらない仕事よりおもしろい仕事がいいに決まっています。
でも、趣味や遊びでなく仕事なのですから、「面白い」の意味を安易にとりすぎないことが肝心です。
ただ受け身の姿勢で、「どこかにおもしろい仕事ないかなあ」と思うだけでその「面白い仕事」がてにはいるくらいなら、世の中の働く人たちみんなが面白く仕事をしているはずです。
でも、現実はどうでしょうか。
満員電車に揺られ、寝不足の身体にカツを入れるかのように、駅のキオスクで栄養ドリンクを買ってグイッとあおり、自分では一生懸命やったつもりなのに上司に怒鳴られ、自分一人の力ではどうにもしようのないことでも得意先には平謝りで誠意を尽くし、昼ご飯をゆっくり味わう暇もなく働き続け、気が付くといつの間にか夜になっており、グッタリ疲れて帰宅すると、あとはもうなにもする気力が湧かずテレビをみて眠るだけ・・・。
これが平均的な勤め人のなのではないでしょうか。
遊びと同じ意味で感覚的に「おもしろい」仕事など、めったにあるものではありません。
苦しみながら技術や知識を吸収し、社内の人間関係や取引関係のやりとりをマスターし、しだいに自分の役割をスムーズにこなせるようになることで充実感が生まれます。
それが仕事にとっての「面白い」という意味です。
仕事というのは地味な努力の積み重ねを要求するものです。
あらためていうまでもないことですが、一見華やかに活躍している人たちも、人一倍地道な努力を続けたからこそ今の仕事を手に入れることができたのです。
地道な努力をしない者にチャンスを生かせる実力はつかない
最近は、マスコミが「女の時代」とはやし、華々しく活躍するキャリア・ガールのイメージをまき散らします。
テレビでも雑誌でも、そんなイメージにピッタリの女性を登場させます。
すると、誰もがみなカッコいいキャリア・ガールとしての派手な人生を歩めるかのような錯覚を起こしてしまうのです。
キャリア・ガールといえば、昔に「ワーキング・ガール」というアメリカ映画が日本でも公開され、話題になりました。
メラニー・グリフィス演じる主人公テスは、証券会社に勤めています。
知識欲旺盛で有能な女性なのですが、夜学出のハンディを負って、安月給でお茶くみや雑用に追われる秘書に甘んじています。
いつかこうした身分から抜け出したいと証券マン養成コースを志願しますが、うまくいきません。
そんなとき新たな上司として、企業合併部門の重役キャサリン(シガニイ・ウィーバー)が赴任してきます。
キャサリンはハーヴァード出のエリートですが、テスと同じ三十歳です。
同じ歳でこのあきれかえるくらいの階級差は、テスにとって快いはずがありませんが、さっくばらんに話し合って仲よくやっていこうというキャサリンに好感をもちます。
トラスク産業が放送業界への進出をねらっているとの情報をつかんだテスは、あるラジオ局買収をトラスク産業にもちかけないかとのアイデアをキャサリンに話しますが、軽くあしらわれます。
その後、キャサリンがスキー場で骨折し、二週間戻ってこないことになります。
留守を任されたテスは、キャサリンの自宅のパソコンの画面をみて、自分のアイデアが無断で盗まれていることを知り、反撃に出るのです。
ここからのテスの変身ぶりがすさまじいのですが、キャサリンのいない間に自分が買収の話を成立させようと、あらゆる手立てを使って関係方面の実力者との接触を企みます。
会ったこともないトラスク産業の社長の娘の結婚パーティに、友人を装ってもぐりこみ、社長に接触するというのもそのひとつです。
テスの積極果敢な攻めが功を奏してうまくいくかにみえた矢先、テスの反乱に気付いたキャサリンが調印の場にのりこんできて逆転しかけます。
しかし、最後はテスの情報収集能力が信用され、キャサリンは重役を解任され、テスは大企業トラスク産業の重役として抑えられるという大ドンデン返しで幕を閉じます。
いかにもアメリカらしいサクセス・ストーリーです。
主人公テスに自分を重ねる観客は、大逆転の成功に胸のすく思いがしたことでしょう。
虐げられた主人公が、苦心の末とうとう成功を手にするという、よくある立身出世物語です。
これをみて、テスはラッキーでうらやましいと感じた女性も少なくないと思います。
その場合、見逃してはならないのは、テスがいつ訪れるとも知れないチャンスのために日頃から毎晩熱心に勉強し、新聞などの情報収集にも余念がなかったことです。
世の中には、こうした地道な努力を重ねているにもかかわらず報われない者のほうが、圧倒的に多いはずです。
でも、幸運にもたまたま訪れたチャンスを生かせるのは、ふだんから報われるかどうかわからない地道な努力を積み重ねている者なのです。
そこのところを勘違いして、「彼女はラッキーだけど、私は不運」と嘆かないことです。
やるだけのことをやっている人だけが、嘆く権利をもつのです。
どんな仕事にも単調なルーティン・ワークはつきもの
さらに、よく考えてみなければならないのは、テスのような生き方にほんとうに魅力を感じているかということです。
これだけ仕事とそのための勉強につかって毎日を送るというのは、並み大抵のことではありません。
また、今回は自分が上司を打ち負かしましたが、周囲にはいつか出し抜いてやろうというライバルや部下がたくさんいて、虎視眈々とチャンスをねらっているのです。
つねに闘いつづけなければならない苛酷な世界なのです。
それに、主人公は善玉との前提が観客の目をくもらせるため、あまり意識されなかったと思いますが、テスの強烈な上昇志向、いつか人の上に立って大きな仕事をしてみたい、そのためにはあらゆる手段に訴えるし、人を出し抜くことも苦にしないといった一面は、あまり美しいものではありません。
いくら競争社会を生き抜くためには相手の醜さに対抗せざるをえないとはいっても、対抗することで自分も同レベルに堕ちていくのです。
競争社会には嫌気がさした、もう抜け出したいという人が増えている反面、競争社会はますます苛酷さをきわめている観があります。
この映画の主人公のように、競争社会を颯爽と闊歩できるのは、よほどの才能と闘争心を備えた人でしょう。
キャリア・ガールの視覚的なカッコよさにあこがれるのは自由ですが、それだけでは何も生まれません。
マスコミが宣伝する華々しく活躍するキャリア・ガールなど、ほんのひと握りの例外的存在です。
珍しいからこそ注目され、マスコミで取り上げられるのです。
仕事が地味な努力と忍耐の積み重ねであることは、ずっと昔から外で働くことを運命づけられている男性をみれば明らかでしょう。
みんな目立たないけれども、生活のために地道に働いています。
妄想をふくらますのでなく、現実を直視しないと、不満だらけのつまらない職業生活に自ら陥っていくことになります。
どんな仕事にも、単調なルーティン・ワークはつきものです。
世の中の仕事の大部分が、創造的なものよりくりかえし的なもの、維持的なものです。
仕事が単調でつまらないという人は、自分の仕事が何の役に立っているのかを考えてみましょう。
会社が給料を払っているからには、何らかの必要な役割であるはずです。
分業化と組織化の進んだ今日、多くの仕事は単純化され、部分的なものとなっています。
たとえば、テレビや自動車をつくるにも、その工程は細分化され、毎日ネジをはめるだけの人。
ハンダづけ専門の人、塗料専門の人、梱包専門の人、設計専門の人、各種製造機械や運搬機械を運転する人など、あらゆる種類に従事する人がいます。
製品ができれば、それを売るためにセールス活動に専念する人が必要ですし、組織全体がスムーズに機能するためにも、資産を運用する人、収入・支出の状況を把握する人、在庫管理する人、その他さまざまな職種の人が必要です。
一人の人間が任されるのは、ほんのちっぽけな仕事であったり、単調なルーティン・ワークであったりしますが、その仕事が組織全体のなかでどんな位置を占め、どんな役に立っているかが展望できれば、少しは使命感も湧いてくるでしょう。
組織の論理の理解
「自分のスタイル」よりまず「職場のシナリオ」に合わせる
就職したある卒業生がこんなことを言いました。
「同期入社ですごい女の子がいて、上司や先輩に対しても納得がいかなければ必ず反論するし、自分のアイデアのほうがいいと思ったら、はっきり相手の意見を否定して自己主張するし、みんなたじたじなんですよ。
あれはやっぱり、女の子だから許されるんだろうなあ。
僕なんかがあんな態度とったら、怒鳴られるか左遷でしょうね」
男性が圧倒的に多い職場社会、そして、いかに女性が強くなったとはいえ、まだまだ女性は弱い存在との認識が人々の間にありますから、女性だから許されているという面は多々あるかと思います。
そうした環境の甘さと実力を混同しないことが肝心です。
女性の職場社会への進出の歴史が浅いせいか、あるいは女性の性格的特徴のためか、組織の論理に従うという職場の暗黙のルールにわりと無頓着な女性が多いようです。
男性は、反対に、将来の職場生活の安定を考えてか、組織の論理にあまりに忠実にはまりすぎているのでは、と思われる人が多いように思われます。
いずれにしても、組織というのは、その構造上の特徴からして、地位の上の人の意向を下の人が受け入れないと、スムーズに動きません。
組織に属するからには、そのなかでの相互の役割(立場)をわきまえて対応しなければなりません。
自衛隊に入れられて特訓を受けたという人がいました。
お辞儀の際の頭の下げ方、背中の曲げ方が悪いと殴られたり、戦闘服で行進する練習や、崖を登る練習をさせられたといいます。
本人の就職先は自衛隊とは何ら関係のない金融関係なのですから驚きですが、なるほどと思わせる面もないではありません。
自衛隊研修の目的は、上からの命令に絶対服従する態度を植え付けるためだそうです。
組織がうまく機能するためには、上意下達の徹底が不可欠というわけです。
そうした考え方の当否は別として、現代の若い世代の特徴として、上からの命令に従うのが苦手ということがあります。
大学なら、
「最近の学生は、教師の言うことを全然意に介さないから困る」
「教師相手に、友達に対すると同じ口調で話しかけて、礼儀を知らないから困る」
などと、ときどき思い出したように困っていればよいのですが、そうした者を利潤を生みだす存在へと、なんとか仕立てあげなければならない企業としては、再教育して組織の論理をたたきこまなければならないのです。
もちろん、上に挙げたような研修の目的が、ロボットのように上から言われたままに動く人間を育成することにあるのなら、ちょっと行き過ぎだと思います。
ここで言いたいのは、社会では誰もが一定の役割を引き受けており、とくに職場では役割と役割のつきあいは欠かせないということです。
職場では、自分に与えられた役割をしっかり自覚し、それにふさわしい態度や行動がとれないと、うまく適応できません。
自分のスタイルをもつことも大切ですが、その場の背景にあるシナリオにのっかって動くことも必要です。
周りからの信頼感がないうちは何を言っても相手にされない
職場ではありませんが、何年か前におもしろい女子学生が大学の講義に出ていました。
講義中に編み物をしていることがあるので、あるとき注意を受けました。
「授業中は編み物をするのはやめなさい」
「いいの、私、編み物の先生になるんだから」
「・・・?」
編み物の先生になるのは結構ですし、そのための練習をしなければならないということも理解できます。
しかし、教室では、教師は講義を行ない、学生はそれに耳を傾けるという役割関係にのっとって行動することになっています。
講義に出なければ何をしようと自由ですが、教室に入ったからには、その場を支配するシナリオに従わなければなりません。
先程の学生は、そうしたシナリオに気付かず、場からはみだしてしまっているのです。
OLのなかには、何か嫌なことがあったらいつでもやめられるという居直り的な気持ちから、場のシナリオへの適応を軽視する人もいます。
場になじまなければ、職場の人たちからの信頼が得られませんから、大切な仕事は回ってきません。
場に溶け込んでいる人たちとの間に心理的な溝ができてしまいますから、人間関係もなかなかうまくいかないでしょう。
一生勤める覚悟のある男性と違って、OLのなかには自分の勤務する会社の内容、業界内での位置づけ、歴史、現在展開中の戦略などに全く無知の人もいます。
これでは、自分がやっている仕事が何の役に立っているかわかりませんから、やる気も出ません。
単純な作業のくりかえしのなかにも何かひと工夫してみようと努力してはじめて、このような知識がいきてくるのです。
さて、ここまでは職場のシナリオにのって動くことの大切さを強調してきたわけですが、組織に所属しながらも一定の距離をおくことも大切です。
単に自分勝手だったり、人の気持ちや考えなど場で発せられる種々のシグナルに鈍感だったりするなら問題ですが、必要なときは場のシナリオにのっとって行動できる人が、ときに自分なりの判断でわざとシナリオからそれて行動するということはあって当然です。
組織のなかにどっぷりつかりすぎる男性と違って、職場の論理に全面的に組み込まれずに、自分を保って自由に泳ぎ回れる女性だからこそ、硬直化しがちな組織に喝を入れることができるという利点もあるのです。
ふだんきちんと自分の役割を果たし、場のシナリオをしっかり理解し、理解力や判断力、人柄を周囲から肯定的に評価されている人であれば、たとえ上司や先輩が相手でもはっきり意見を言って問題ないでしょう。
女性だから許されるというケースもあるかもしれませんが、そう気にすることはありません。
日頃の態度や行動によって周囲の信頼を得ているわけですし、それなりに裏付けのある発言でしょうし、状況判断も正確なはずですから。
プロ意識を持たない女性は職場でけむたがられる
仕事への「プロ意識」もっていますか
優しい女性と並んで男性に人気があるのは、明るい女性です。
明るくさわやかな女性の笑顔があるかないかで、職場の雰囲気は大きく変わってきます。
でも、明るければ何でもいいということではありません。
周囲に対する気配りのない自己陶酔的な明るさや、仕事に対する責任感を感じさせない軽薄な明るさは、職場で最も嫌われます。
仕事上のミスを指摘されると、「あっ、やだぁー、またやっちゃった!」と舌ったらずな甘い声を出し、満面に笑みを浮かべて、ペロッと舌を出す女性というのがその典型です。
明るいのはいいですけど、給料をもらっているからには一応プロなのですから、もう少し自分に対する厳しさをもつべきでしょう。
なんとなく進学して、とくに深刻に悩むことなく、なんとなく就職していたという女性には、プロとしての自覚がなく、学生気分をそのままひきずっている人が多いものです。
本人は気楽でいいかもしれませんが、無責任な明るさは周囲をイライラさせますから、気を付けましょう。
かわいらしく甘えれば何でも許されると思い込んでいる女性の明るさも、職場で真剣に働いている人たちには目障りなものです。
男性もそうですが、とかく女性には甘えがあって困るといわれるなかでしっかり頑張っている女性にとっては、非常に腹立たしい存在のはずです。
可愛らしく甘える女性をちやほやする男性がいるのも事実で、そうした男性が明るさと軽薄さを勘違いしている女性をはびこらせるのです。
それがいいという男性もいるのですから、私生活ならいくらかわいく甘えても何ら問題はありませんが、せめて職場にいるときくらいは一人前の大人としての、プロとしての自覚をもちらいものです。
苦手な人とも割りきって付き合うのが仕事
女性の欠点として、注意されるとすぐに感情的に反応するということがよくあげられます。
上司から書類の不備や連絡の怠りを注意されると、「すみません」と責任を感じるのですが、その直後に「ワぁーッ」と泣き崩れたり、顔をゆがめてトイレに駆け込んだりする女性がいます。
あるいは、注意が重なると、
「あの課長は私のことを嫌っているんだ。だから意地悪するんだ」
と曲解したり、
「私はみんなと比べて才能が乏しいんだ。ミスばかりで、私ってなんてダメな女なのだろう」
と大袈裟に悲観したり、
「なんで私のすることにばかり、いちいちケチをつけるんですか」
と攻撃的になったりする人もいます。
これでは周囲の人も、うっかり注意できません。
そのうち誰もうるさく言わなくなるでしょう。
本人は、自分のやり方でよいのだと思い込んでしまいますが、じつはもうみんなからあきらめられている、期待されていないということかもしれません。
職場では、これまでの経験を生かして、よりよい仕事の進め方を部下に伝授するのが上司や先輩の役割ですし、上司や先輩の教えを自分なりに消化して吸収するのが部下の役割です。
意地悪とか、嫌われているとか、変な混線をせずに、注意され、指導されるのも仕事のうちと相手の言い分にビジネス・ライクに耳を傾けましょう。
それでなおかつ理不尽な指摘であることもないとはいえませんが、我慢しなければならないことは誰にもあるものです。
いずれにしても、情に走る前に理で対応することです。
感情的になったり反論したりするのは、相手の言い分が論理的にまちがっていることがはっきりしてからにしましょう。
論理的検討をしているうちに、相手の非が浮かびあがってきても、あらためて感情的になるのもばかばかしく思えたりするものです。
職場で感情的なトラブルの多い人も、職場の人間関係は私的な友人関係と質的に違うということをしっかりと認識して、公私のけじめを意識していれば少しは楽になるでしょう。
職場では、価値観の合わない人、フィーリングの合わない人、いやらしい手段を使って他人を出し抜こうとする人など、積極的に近づきたいと思わない人とも付き合っていかなければなりません。
嫌な人にいちいち腹を立てていたら、仕事になりません。
べつに友達や恋人の選択ではないのですから、要求水準を思い切り下げて、嫌な相手とも適当に付き合うことができなければなりません。
「あの上司は嫌いだから、他の部署に回してください」
「ああいう人は苦手だから、得意先の担当を代えてください」
などと言わずに、これも給料分の仕事のうちと割り切って、苦手な相手ともつきあいましょう。
なにも深い話をする必要はなく、仕事をスムーズに進めるためのやりとりをすればよいのですから。
仕事のうえで女らしさをどう生かすか
男性をまねるだけでは働きやすい環境はつくれない
男女が対等に働く時代になりつつありますが、近頃なりふりかまわずの、すさまじい働きぶりをみせる女性が目立つようになりました。
オヤジギャルということばがはやりましたが、これまでは仕事に疲れた中年男性の専売特許とみなされていた行動パターンが、若い女性の間にもみられるようになりました。
若い女性たちにそのような例をあげてくれるように求めたところ、つぎのような行動が出てきました。
- 駅のホームで栄養ドリンクを飲む
- 立ち食いソバや牛丼屋で食事をすます
- 温泉で飲んで騒ぐのが好き
- 傘でゴルフのスイングをする
- おしゃれなバーやパブよりも居酒屋を好む
- 長距離電車に乗るときは新聞とビールを買う
- アルコールがはいるとカラオケをしたくなる
- 飲み始めると、とことん酔ってくだを巻かないと気がすまない
- くわえタバコで外を歩く
なるほどこういう女性が増えているかもしれない、と思わせるものもありますが、ちょっとすさまじいものもあります。
男性の中に混じって働いていると、行動パターンも似てくるのかなあとも思います。
しかし、これらはあくまでも表面的な特徴です。
女性が男性と対等に働こうとするなかで、心理的にも女性が男性化していくという傾向もみられるのではないでしょうか。
心のうるおいを忘れ、他人に対する心配を怠り、ひたすら情報収集やら技能修得やらの仕事上の能力向上に励む女性も増えているのではないかと思います。
仕事能力の向上に励むのは結構なことなのですが、他人との競争の構えをとって、他人への温かな眼差しを忘れてしまうのは、あまり美しい姿とはいえません。
競争社会に無理矢理駆り出されて、非人間的な世界でストレスをためこんでいる男性を、なぜそのまま見習う必要があるのでしょう。
むしろ、労働の世界をそれほど殺風景でゆとりもあたたかみもないものにしてしまった男性に対抗して、うるおいのある、そこで働く人間にとって居心地のよい労働の世界をつくりだす努力をするところにこそ、女性の社会進出の使命があるのではないでしょうか。
女性らしい心配りはあなたの魅力をあげる第一歩
元来男性は攻撃的で競争好きなところがありますが、女性は人と協調し、雰囲気をやわらげるのが得意なものです。
その性質は仕事に生かすこともできるはずです。
たとえば、接客やセールスなどでは、女性らしい心遣いが有効に機能すると思われます。
商品の性能やサービス内容に違いがなければ、どうしても感じのよい店に足が向きますし、感じのよい人から勧められたものを買ってしまいます。
また、何人勧誘したとか、いくら売り上げたとか、競争心を刺激してやる気を出させるやり方に対して、みんなで力を合わせてがんばっているという、一体感を刺激してやる気を高めていくやり方もあるでしょう。
脅されるからがんばるというのでなく、温かい心遣いに報いるためにがんばるということもあるでしょう。
女性らしい心遣いをすることで仕事能力に支障をきたすことはめったにありません。
男性だって仕事そのものの技術や知識だけでなく、対人関係能力も含めて評価されているのです。
仕事能力のなかには、周囲の人たちと協調していく能力、みんなが気持ちよく働けるように持っていく能力も含まれるのです。
周囲の人に対する優しい心配り、みんなが気持ちよく働ける雰囲気づくりのできない女性ではいくら知識を増やし技能を磨いても、なかなかそれを生かすチャンスに恵まれることはないでしょう。
それは男性とて同様です。
人間的容量を増やすのが先決です。
企業戦士などという悲壮感漂うことばを駆逐し、過酷なストレスとは無縁な労働の場をつくりだすため、女性の魅力は必要不可欠なものなのです。