前向きになれない心理
あなたの無意識の「怒り」を見つける、それが前へ進む勇気になる
アメリカの心理学者ジョージ・ウェインバーグの著作の中に次のような詩があった。
「名声を求めているものは、愛を求めているのだ」
意識では名声を求めて頑張っていても、無意識では愛を求めている。
意識で求めている名声への欲求は、「反動形成」であるから強烈である。
無意識にあるのは深刻な劣等感である。
その人の心を乱すものは、「反動形成」としての名声である。
名声を得ても満足できない。
逆に名声が得られないと深く失望する。
「人類の悩みを救いたい」などというメサイア・コンプレックスのような途方もない望みを持つのは、無意識にそれだけ深刻な劣等感があるからである。
壮大な自己イメージは、無意識にある深刻な劣等感からくる反動形成である。
野心的な人はいつも緊張が解けない。
「実際の自分」を自分が受け入れていないからである。
頑張り過ぎて自分の健康をダメにし、賞賛を求めすぎて協力してくれる人まで敵にまわしてしまう。
なぜそこまで野心を持ったか?
それは、「自分がひどく劣等に思えるので、名声や富や力なくては人生は耐え難いという連中なのだ。」
まさに常に苦しみたがっている。
ところが、苦しむのをやめようと思っても、その人の無意識はそういう生き方の障害になっている。
幸せになる努力をなぜか妨害する。
その無意識にある障害に気がつき、それを認めない限り、死ぬまで頑張っても幸せにはなれない。
自分が自分以外のものになろうと頑張ったりしないで、自分は自分であると感じ、他の人と比較しないで自分の人生に満足し、地道な努力を続ける。
そうすれば不安や緊張に苦しめられない。
「隠された感情」は、悩みとなって表れる
うつ病患者の自己憎悪の激しさは、実は周囲の人への憎悪の激しさである。
「苛酷な自己批判や残虐な自己蔑視などは、根本的には対象に向けられたものであり、対象への復讐を表しているということはうつ病の分析から得られる。」とフロイドは指摘するが、その通りである。
抑うつ状態に苦しんでいる人がいる。
隠された敵意、隠された怒りが原因である。
しかし、その怒りはあくまでも無意識にある。
その隠された怒りを意識するのは容易なことではない。
そこで理由も分からないままに、苦しんで、苦しんで、ただただ苦しみ抜いて生きている人もいる。
自分が本当に憎悪しているのは自分の近くにいる周囲の人であるということを意識に載せない限り終わりなき憂うつが消失することはない。
怒りは3つの反応の仕方をするとカレン・ホルナイは言っている。
先ず、「心身の不調」である。
具体的には疲れやすい、片頭痛、胃の不調等々である。
次は、復讐的になる。
そして最後が、「惨めさの誇示」である。
「傷ついた、傷ついた」と騒ぐ。
「つらい、つらい」と騒ぐ。
人が「傷ついた、傷ついた」「つらい、つらい」と騒ぐのは、日頃の怒りの表現である。
彼らにとって「つらい!」と叫ぶことは、憎しみの間接的表現でしかない。
「苦しみは非難を表現する手段である」とカレン・ホルナイは言う。
苦しんでいる人にとっては苦しむことが救いである。
それは苦しむことが怒りを表す手段だからである。
怒りは、正義などさまざまな種類の”仮面”を被って登場する。
そのときに「怒り」に正当性がなければないほど、怒りは誇張される。
被害が強調される。
しかし、怒りの仮面となるのは「正義」ばかりではない。「惨めさ」などもそうである。
交流分析(人の心と行動を快適にする心理学)で「慢性的不快感情」をラケットというが、慢性的不快感情とは惨めさの誇示である。
惨めさの誇示は、元々攻撃性の間接的表現である。
さらに自分の惨めさを誇張することで周囲を操作している。
また、攻撃性はよく「悩み」という仮面を被って登場する。
「眠れない」ということが、即そのまま不眠症というわけではない。
その人が眠れないという事実を悩み出したときに、眠れないことが不眠症になる。
眠れないということをすごく悩む人もいるし、眠れないということをそれほど悩まない人もいる。
それは、眠れないということばかりではない。
病気がそうである。
眠れないということばかりではない。
病気がそうである。
眠れないということを延々といつまでも嘆いている人がいる。
延々と嘆くことで隠された敵意や怒りを間接的に表現している。
無意識に抑圧された怒りや敵意が、病気という仮面を被って登場している。
これが異常なまでに病気を嘆く人である。
止まらない嘆きは怒りの間接的な表現である。
だから周囲の人が「いくら嘆いていても病気はよくなりませんよ」とアドバイスをしても嘆くことを止めようとはしない。
嘆くことは、その人の感情表現だから、嘆くことを止めるわけにはいかない。
直接的に表現できなかった隠された怒りがある限り、その人は嘆き続ける。
嘆くことで怒りの感情は吐露されている。
溜まっていたマイナスの感情を放出しているのだから、嘆くことは心地よいのである。
現実の苦しみは同じであっても、それに伴う心の苦しみは人によってまったく違う。
不幸は偽装された憎しみである。
自分が不幸であることで憎しみを晴らしているのである。
不幸にしがみついている人は、不幸になるより他に憎しみを表現する方法が分からないのである。
周囲に自分が不幸であることを誇示することで、憎しみの感情のはけ口を見つけている。
「私は不幸です」ということは「私は悔しい」ということである。
なぜ人は「悩み続ける」のか
「ただ嘆いていないで前向きになれ」というようなことは昔から言われている。
積極的な考え方の重要性を最初に提唱したのはアメリカの牧師であり、作家のノーマン・ヴィンセント・ピール博士自身が、使徒パウロがずっと前に同じことを言っていたと述べている。
つまり、「前向きなこと、楽しいことを考えよう」とは紀元前からすでに言われているのである。
昨日、今日言われたことではない。
しかし、何千年を経ても、「隠された敵意」がある人は前向きになれない。
楽しいことを考えようとしない。
生産的になれない。
「前向きなこと、楽しいことを考えよう」は、”成長欲求”である。
しかし人は、だれでもその成長欲求にしたがって生きていけるわけではない。
その「成長欲求」と矛盾する「退行欲求」が無意識にある。
なぜ悩み続けるのか?
それは問題の解決に努力するよりも、問題を嘆いているほうがはるかに心理的に楽だからである。
問題の解決に向かうためには、その人に自発性、能動性が必要である。
しかし問題を嘆いているのには、自発性、能動性は必要ない。
なによりも嘆いていることで「退行欲求」が満たされる。
退行欲求とは、その場の満足を求め、負担から逃れたいという欲求で、要するに、小さな子どもが母親に完全に身を委ねて、安心しきって甘えられるというような欲望のことである。
人が「成長動機」で行動するか、「退行動機」で行動するかというときに、退行動機で行動するほうがはるかに心理的には楽である。
だから人は嘆いているのである。
解決する方法がないのではない。
しかしそれよりも退行欲求にしたがって嘆いているほうが居心地がいい。
悩んでいる人はだいたい退行欲求にしたがっているから、対処能力がない。
このような人にいくら「前向きなこと、楽しいことを考えよう」とすすめても意味がない。
アルコール依存症の人に「お酒を飲むのをやめましょう」というようなものである。
「前向きなこと、楽しいことを考えよう」は意識の領域での思いである。
その人の無意識の領域では「いつも苦しみたい」である。
そして人は「いつも苦しみたい」し、その苦しみに固執する。
神経症的傾向が強い人はこの立場に固執する。
小さい頃から「ありのままの自分」を受け入れられていないから。
これは難しいことだが、自分の能力を受け入れれば救われる。
しかし一度も「ありのままの自分」を受け入れられた体験がない。
適性、発達の程度、能力の限界、すべて無視されて、失望された。
「ありのままの自分」を受け入れてくれないような人との関係の中に生きていた。
自分を固有の存在として認めてもらった体験がない。
自分を固有の存在として体験したことがない。
その結果、自分自身が「ありのままの自分」を受け入れることを拒否した。
そして自分からあえて苦しい人生を選択した。
「ありのままの自分」を拒否するたびに「ありのままの自分」には価値がないという感覚を強化する。
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自分に対する「自分の態度を変える」
人間の幸せにとって大切なのは、その人の意識ではなく、その人の無意識である。
その人は小さいころから自分は許されない存在だった。
その許されない存在だった過去が、現在の物事の解釈を悲観主義的にする。
深刻な劣等感のある親や、神経症的傾向の強い親などに育てられると、無意識の領域で、「私は嫌われている」と感じるようになる。
世界は私に好意的ではないと感じるようになる。
その人自身も世界に好意的でないと感じるような人間になってしまう。
その結果、「前向きなこと、楽しいことを考えよう」ではなく「いつも苦しみたい」になる。
深刻な劣等感のある人は、「歪んだ現実認識」を持っている。
前向きなこと、楽しいことを考えられる現実にいても「いつもつらい」。
自分に対する自分の態度を変える。
批判的なまなざしでなく好奇のまなざしで見る。
それが成長のひとつの鍵。
自分の心の居場所がない場所から、心の居場所のある場所に引っ越すこと。
いまの人間関係を変えること。
変える準備をすること。
リフレッシュするとは、体を動かすことだけではなく、心を動かすこと。
自分がどこにいても光っていることにきがつくかもしれない。
つらい人生を必死で生きてきた歴史が表われているから。
真実から目をそらして悩みの解決を求めるのが神経症者である。
現実に直面する、自分の無意識に直面する以外に悩みを解決する方法はない。
過去の自分を考える。
何をしてきたのか、何をしてこなかったのか。
そうしたら「いまにいいことあるさ」と前向きになる。
その結果、「いつも苦しみたい」ではなく「自分が楽しく生きてみよう」になるかもしれない。
心の状態を「きちんと見る」だけで変われる
人は、「自分自身に絶望している」という事実と向き合うことはなかなかできない。
たとえば、人は自分の無意識にある「絶望感」から目を背けるために、力や富や名声を求めて頑張る。
体を壊すまで頑張る。
頭痛に苦しみながらも頑張る。
腹痛で気分が悪くて、どうにもならなくて燃え尽きるまで頑張る。
そこまで頑張る必要はないと分かっていても頑張らないではいられない。
いわゆる強迫性である。
頑張るまいとしても頑張らないではいられない。
自分でも命を落としてはなんのためにもならないと分かっている。
しかし理性的判断を超える何かが働いている。
その人は何を恐れているのか?
何がそんなに不安なのか?
もちろん本人には分からない。
その人が無意識で恐れているのは心理的に自立すること。
その恐怖感を抑圧する。
心理的な自立とは自分自身になることである。
アメリカの偉大な精神科医デヴィッド・シーベリーは、人間の唯一の義務は、「自分自身になることである」と述べている。
さらに、「それ以外に義務はない、自分があると思い込んでいるだけである」と主張している。
つまりいつも悩んでいる人は、自分が自分であることにつまずいていることに気がついていない。
自分が自分自身として生きていないことからくる悩みに苦しめられているということに気がついていない。
他方、自立への願望もある。
その矛盾が無意識の葛藤である。
その矛盾が焦りである。
いつも悩んでいる人は、自分の無意識にある心理的な自立への恐怖感にも、矛盾にも気がついていない。
無意識だから気がついていないのは当たり前のことであるが、自分に対する絶望感が生じていることに気がついていない。
それらの絶望感に自分が支配されていながら、まったくそのことが分かっていない。
自分に対する絶望感で最も深刻なのは、実は自立の失敗である。
そして自分が自立に失敗しているということに、もちろん気がついていない。
大切なのは、自立への恐怖感を抑圧していることに気がついていないことである。
自分の「無意識」にある恐怖感に気がつけば道は拓け始める。
怖がる必要もないことを怖がることもなくなるし、恐怖に立ち向かう勇気も出てきて、体調不良が改善されてくることもある。