”生きることを義務にしてしまうから疲れてしまう”
車に女の子を乗せて走っている男の子がいる。
彼の働く意欲はどうであろうか。
受験勉強で辛かったかもしれないが、いったん楽をしてしまった彼らにはダメなのが多い。
安易な生き方をもう変えられない。
もし勉強を楽しんでしていれば、受験が終わっても勉強するはずである。
このような人が、やがては子供に一体化する親になるか、あるいは情性欠如の親となり、子供の人格を歪ませるのである。
親に受動的な愛、つまり甘えしかない以上、子どもに能動的な愛を期待してもむりであろう。
子供に一体化するということは、親にとって最も安易な生き方なのである。
われわれは受験競争という不健全な競争が終わると、とたんに安易な生活を選ぶ。
それ以後は、競争はできたら避けようとする。
競走を楽しむことができない。
競走は健全なものであるならば、本来楽しいものである。
走ることが好きな人は、走る競走があれば、それを目的にして、より走ることを充実させる。
野球の好きな人は、ある大会を目標にがんばる。
テニスであろうとゴルフであろうと同じである。
テニスの試合、ゴルフのコンペ、それらがスポーツを充実させる。
英語だって同じである。
英検の一級を目標にすることで英語の勉強に張りが出る。
生きがいを持てば、それに関連したことは苦労でなくなる。
その苦労が、より生活に張りを与えてくれる。
しかし、依存心が強くて他人の反応によって自己のイメージをつくる人は、手段が目的となってしまう。
つまり、テニスをより面白くするために試合をするのに、試合に勝つことが目的になる。
依存心が強い人は、他人に認めてもらわないと自分が支えられない。
だから、何事においてもストレートに勝負ができない。
そして、目的となってしまった試合においては、負けることを怖れる。
勝ち負けにとらわれる。
試合ばかりではない。
何事においても失敗を恐れるようになってしまう。
ストレートに勝負に出ないくせに、他人から認めてもらいたい。
だから、自分以外の他人が認められると面白くない。
これらの点を考えると、日本が本当の競争社会であるかどうか疑わしい。
競走に疲れているのは、競争を楽しんでいないからである。
勝ち負けにとらわれているからであろう。
したがって、いったん競争をやめると、その安易さでダメになる。
受験競争に疲れて、以後はできれば競争をなくそうとする。
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新聞記者は競って記事を書きたがらないようである。
たとえば、記者クラブというのが官庁などにある。
聞いた話によると、官僚が黒板にレクチャーをする。
それを書く。
その点において競争無し。
しかも、レクチャー以前に書くと、そのクラブから排除されることさえあるという。
統制か過当競争かのどちらかになってしまう。
生きることを楽しんでいない競争社会の特徴であろう。
先の「音楽」参照の中で、小沢が次のように言っている。
「・・・あるいは日本の音楽家にはプライドがなくなってきているばかりでなく、ほんとうに音楽がしたくないのかもしれない、というんですね」
これは育つ過程において、愛される代わりに支配されたものの悲劇である。
楽しめないで何もかもを義務にしてしまうのは権威主義者の体質である。
親の気持ちに沿って愛されても、自分の気持ちに立ち入って愛されたことのない人間の悲劇である。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するには、競争は義務ではなく、本来楽しいものだと心得ることである。