すでに、いくつかの喪失が見えてきました。
否認は、率直さや正直さの喪失です。
孤立は、情緒的なつながりの喪失であり、信頼感の喪失です。
硬直性は、柔軟で自発的な選択肢の喪失です。
シェイムは自己価値の喪失です。
どんな人でも時には、拒絶されたり孤独を味わったりします。
自分の価値を疑う事もあります。
けれど子どもが、こうした体験に深刻なレベルでさらされたら、自分を打ちのめすような慢性的な喪失感を長く引きずることになります。
必要な喪失と、そうでないもの
人生に喪失はつきものです。
この世に生まれたときから、父や母のもとから離れていく旅が始まるのですから。
人が喪失を体験するのは自然なことであり、必然的で避けがたいものです。
それと引き換えに、私たちは強さや健全さを育てていくことができるのです。
子どもが学校に入るとき、それまで親にずっと守られていた環境から踏み出して、ある程度の安全を失うという自然な喪失を体験します。
新しい土地や新しい家に引っ越す時にも、喪失感を味わいます。
大好きなおじいちゃんやおばあちゃんが亡くなる、信頼していた先生が学校を去る、大切にしていたおもちゃが壊れる、可愛がっていたペットの死・・・いずれも自然な喪失です。
けれどいかにつらくても、お父さんやお母さんの腕に抱かれていれば痛みは薄らぎます。
それなのに問題を抱えた家族では、子どもはこうした支えが得られなかったり、感情を表すことを禁じられたりするのです。
泣くのはダメ、「子どもみたいに」ふるまってはいけないと言い聞かされることだってあります。
また、兄弟の死といった喪失体験の場合、親の側には遺された子どもを支える余裕がない場合がほとんどです。
また、親の行動が喪失をつくりだすこともあります。
たとえば子どもが可愛がっている猫を捨ててしまい、もう片方の親はそれを見ないふりしたり、あるいは全くなかったことにしたりするのです。
子どもが自然な喪失を経験し、親からのサポートがもらえたときは、悲しいけれど同時に、愛されて、安全であることを感じます。
サポートが得られないとき、子どもは悲しみを感じると同時に、愛されていないと感じ、見捨てられていると感じるのです。
つまり、不必要な喪失を生み出す体験は「見捨てられ体験」と言い換えることもできます。