人付き合いが苦手で、引きこもり傾向のあった女子学生は、次のような体験を語ってくれました。
「パラグライダーに思い切って挑戦したら、面白くて夢中になってしまいました。
インストラクターをはじめ、仲間がみんないい人で。
いまではほとんど毎週末行っています。
週末が待ち遠しくって。
そのために平日はバイトで稼がなくちゃいけないし、人のことなど気にしている暇がなくなっちゃいました」
会社の人間関係のために心身症的症状に苦しんでいた女性は、前から興味のあった太極拳の教室に参加しました。
全身の流れるような動きはまだ十分できませんが、みんなと太極拳を舞うと、全身に汗がじわりと吹き出し、「気」が体中に満ちてくるような快感があります。
メンバーは、定年退職したおじさんや中年以降のおばさんたちばかりです。
月に一回程度、日曜日や休日にハイキングなどにもでかけます。
若い彼女をみんながかわいがってくれ、こうした人達のなかで、彼女はよけいな気を使わないでいられる自分を体験しました。
自分が受け入れられているという実感を得ることができました。
若い人が少ないので、先生も彼女に特別な期待を寄せてくれ、いまでは師範をめざしてがんばろうとおもっています。
自分の好きな自分なりの課題を追求し続けると、その追求そのものが面白くて、楽しくて、自分でも生き生きしていると実感でき、他の人の目を気にしている暇などなくなります。
他の人の評価や他の人の悪意、そんなものは子犬に吠えられたほどの重みも持たなくなります。
人間関係に無意味なエネルギーを使わず、充実感を持って日々を生きるためには、なんといっても自分がこれだと思うものに熱中することがいちばんなのです。
自分の好きなことに熱中になるという事です。
カウンセリングの場面で、人間の心を自転車にたとえることがあります。
止まっている自転車は、バランスがとれなくて倒れてしまいます。
自転車は一定のスピードで走っていることで、はじめて安定が得られるのです。
私達の心も、一定のスピードで走っていないとバランスがとれないのです。
人間関係に悩んで、くよくよと考えている状態は、自転車でいえば止まってしまっている状態です。
考えることで心のバランスを取り戻そうとすることには、無理があるのです。
まずとにかく、一定のスピードで動き出すことが必要なのです。
それは、日々提起される課題をきちんきちんとこなしていきつつ、なによりも自分の好きなことを始めることです。
熱中できるとき、忘我の状態になれるとき、それは好きなこと、特異なことをしているときです。
ですから、なによりもあなたが好きなこと、あなたが得意なことを追求することです。
好きなこと、得意なことに熱中し、充実した生活を送る中で、過度に人と自己に向いている意識が、いつのまにか好きな活動、得意な活動へと集中していき、それにより人と接する辛さが減少し、人と接することで傷つきやすい自分の性格を、むしろ長所として活かせるような生活への可能性が開かれていくのです。
好きなことをすることとは、自然な本来の成長の軌跡に乗ることであり、それゆえに治癒的な力が働くようになるのです。
人間心理学によれば、私達は生まれつき、健康に成長しようとする本能、すなわち内発的な成長動機をもっています。
そして、それにしたがえば、人は楽しく充実感を持って健全に発達していきます。
内発的成長力は必然性にしたがって機能します。
すなわち、AからBへ、BからCへ、CからDへというふうに、次々と発達課題となる活動に意識とエネルギーが向いてゆき、能力が形成されるようになっているのです。
このことを具体的に述べれば「ハイハイ」は腕、肩、腰、大腿部分の筋力と神経の働きを強化します。
これが、次の「つかまり立ち」に必要な筋力を準備し、やがてつかまって立つことへと意識が向いていきます。
つかまり立ちは、両足で歩くための筋力やバランス能力を形成することで、次の二足歩行への挑戦を促すことになるのです。
赤ん坊は、ただただ自分を愉しみ、そのときそのときを本能のおもむくままに生きています。
それで健康に成長していきます。
健全に成長している子どもは、外界に生き生きとした関心を示し、自由に自発的に動いています。
彼らは成長しようと自分に無理強いすることはいっさいありません。
自分の関心のおもむくままに喜んで行動し、そのことを通して能力を拡大し、成長していくのです。
日常用語でも、健康に成長している子どもを「のびのび成長している」と言います。
自然な内発的な成長の素質を抑え込まず、「歪められていない」ということを、この言葉に込めているのです。
発達とは、次の段階への前進が喜ばしく、快感を与えるときに生じます。
快感は、その発達段階での機能を十分に使い切るときにもたらされます。
これは、運動して一汗かくと爽快な気分になることと同じです。
この場合、運動によって、筋肉の機能や神経系の機能を十分に使い切ったから気持ちがよいのです。
このことから分かるように、成長や発達とは、苦しく耐えることによって成し遂げられるものではありません。
内発的な成長力にしたがっているかぎり、発達の過程は喜びに満ちたものなのです。むろん、発達課題の達成に、ある程度の忍耐と努力が要求されることはありますが、その努力と忍耐自体が挑戦心を刺激し、充実した喜びをもたらすものなのです。
内発的な成長動機にしたがえば、自由な選択場面で人は自分の持つ能力を十分に発揮させるような適切な課題を好むものなのです。
成長とは、そのときどきのもっとも好きな、自然なチャレンジの結果なのです。
そして、そのチャレンジがもっとも賢明な選択でもあるのです。
ですから、なんらかの不都合が身体に生じた場合には、それを補い、健康な体に戻そうとする本能的な身体的英知が働きます。
このことは、いわゆるカフェテリア実験で明らかにされています。
たとえば、ビタミンAを欠いた食べ物を長期間与えられたラットは自由選択場面ではビタミンAを多量に含む食べ物を好んで食べました。
妊娠した動物は、成長してゆく胎児に必要な食物を多く食べました。
腎上体を切除された動物は、腎上体の機能を補うような食べ物を好み、生きながらえました。
心の発達においても同様です。
自然な環境が与えられれば、内発的な成長力によって自発的に適切な選択を行い、人は健康な心を発達させていくのです。
たとえば、母親の庇護によって一定の安全感を得た幼児は、少しずつ母親と離れて、同年齢の子どもとの遊びに入っていきます。
これが、他の人と接する能力を発達させ、他の子どもといることに喜びを体験し、ますます母親と離れて他の子どもと遊ぶ時間が長くなっていきます。
友達との遊びは、いろいろな社会的能力を発達させ、より広い社会に出て行くための準備となるのです。
このように、内発的成長力の発現である発達や成長とは、本来、喜びに満ちた楽しいものなのです。
そして、それが人間にとっての自己実現にほかならないのです。
そうした発達や成長の積み重ねである人生も、いっそう楽しさを重ねあわせるものになるはずです。
そうした発達や成長の積み重ねである人生もいっそう楽しさを重ね合わせるものになるはずです。
ですかた、「発達することとは人生をいっそう楽しめるようになることである」と考えられています。
ところが、不自然な環境が与えられると、この内発的成長力の働きが妨害されてしまいます。
関心とエネルギーが成長する課題ではなく、専ら安全を求める方向へと向いてしまうのです。
これがひどくなった状態が、神経症ということになります。
神経症的な傾向がつくられてしまった子どもは、互いに見知らぬ同年齢の子どもたちが集まると、安全にとどまっているほうを選択してしまい、集団に入ることを回避します。
この集団からの孤立が、集団内で楽しむ能力の発達を妨害し、いっそう集団に不安を感じることになります。
集団からの孤立は豊富な体験の機会を奪い、それだけいろいろな能力の発達面でも不利益をこうむります。
このために自分の力への自信が持てず、いっそう集団へ入ることをおそれるようになるのです。
したがって、健康な連鎖の心を取り戻すには、意識とエネルギーを本来の自然な内発的成長の方向へと向けることです。
内発的な成長動機が求めるものに素直に身をゆだねることです。
それは自分で楽しいと感じること、好きなことや好きだと感じること、そしてなによりも自分自身だと実感できることを行うことです。