世間体を気にするとは
この心理に悩まされる人は、「自分は世間の目に映っているような人間ではない、ただうまくやってのけただけなのだ」と感じている。
要するに、世間的に何とか体裁をつけたけれども何となく本当の自分に自信がないということである。
それはおそらく、「世間体」ということばかり気にして生活してきたことの結果なのではなかろうか。
世間体に見て何とか大裁はついたが、肝心の生きる目的や自信がない。
世間体を取り繕うことばかりに気を使ってきたから、世間的な基準に達したのだけれども、生きる資格がないと感じるようになってしまったのである。
その人の努力の動機は、「世間体を取り繕うこと」である。
世間体を気にする人のこの動機の前提は「ありのままの自分には価値がない」ということである。
その人は世間体を気にし、努力すれば努力するほど、「ありのままの自分には価値がない」という感じ方を強化した。
だからこそ世間体を気にする人は現実に、自分が何とか仕事をしていても、自分の実力で仕事ができていると感じられないのである。
世間体を気にする人は、いつも大裁を取り繕っている人が、いかに不幸かとうことである。
自分の興味がある科目で百点をとった子ども。
満足している。
世間体を気にし、何科目に百点をとれたかで自分を感じる子ども。
世間体を気にする人は満足していない。
つまり今までの人々の好意というのは、自分の世間体が整っていることによると考えている。
「自分の世間体がなくなれば、人々は自分を相手にしてくれない」と考えている。
偽名現象の世間体を気にする人には、自分が好きなものがない。
世間体を気にする人にあるのは「自分のない生き方」だけ。
世間体だけ。
世間体とは「自意識過剰」の産物である。
江戸時代に、「もし借金が払えなければ、人前で笑われてもいい」と借用証に書いたという話がある。
世間体を気にする人はいかに人が笑われることを恐れるかということである。
しかしよく考えてみれば、これも借用証を書いた世間体を気にする人がいかに自意識過剰かということでもある。
「もし自分がこの借金を返せなければ、人前で自分のことを笑っても、自分は一言も文句を言いません」
と世間体を気にする借金をしたほうが書いているのである。
貸した方が書いているのではない。
もし、貸したほうが書いても、借りた人がそれだけ自意識が強いから、笑われることが辛いだろうと思って書くに違いない。
世間の笑い者にならないことが江戸時代の町人の道徳であったと『「世間体」の構造』という本に書いてある。
しかしこれは道徳というべき性質のものであろうか。
「世間の笑い者にならない」ということは、自意識過剰の人の”防衛の心理”である。
「日本文化が恥の文化である」ということについて、いろいろの人が議論をする。
しかし、もっとも重要なことが見落とされている。
それは世間体を気にする人は”自意識過剰”という視点である。
世間体を気にするから、失敗を恐れる人ほど大きな失敗をする
所詮、世間体意識というのは防衛の心理であり、自意識過剰の心理である。
世間体を気にする自意識過剰の心理と対をなすのが、「覗き見趣味」と言われるものである。
世間体を気にするのは、それだけ自分の生活に嘘があるということである。
これが世間体の心理ではなかろうか。