豆腐メンタルの人が「100パーセントの満足」を求めても・・・
豆腐メンタルとは
豆腐メンタルの心理について述べてみる。
抑圧のない人、基本的な葛藤のない人は、どうしようもないことをいつまでもくよくよ悩んでいる間に、今できることをするものである。
しまった、しまったといっていてもどうしようもないことを、いつまでもしまった、しまったといっている豆腐メンタルの人は、そのときできることをしないものである。
それはその豆腐メンタルの人が、もし逆の選択をしたとしても同じだからである。
断わったあとで、ああやっぱり引き受ければよかったと、いつまでもいっている豆腐メンタルの人がいる。
そういう豆腐メンタルの人は、断らないで引き受けていれば、ああやっぱり断ればよかったと、いつまでも悩んでいる人なのである。
問題は決して引き受けたか断ったかにあるわけではない。
問題はその豆腐メンタルの人の心の葛藤にある。
豆腐メンタルの人は認めることのできない自分への失望感であるのか、誰かに対する怒りであるのかはわからないが、何か重大なことを自分に隠している。
心の弱い、豆腐メンタルの人の心のなかの「無意識のブレーキ」
心に葛藤をもって生きることは、自分の生きるエネルギーを無駄に消費するということである
豆腐メンタルの人は何をやっても楽しくない。
生きるために豆腐メンタルの人はエネルギーを使えない。
何をやっても豆腐メンタルの人は本当には満足できない。
一方で断りたいし、豆腐メンタルの人は他方で引き受けたいのである。
その問題になっていることではなく、豆腐メンタルの人は自分自身がそのように分裂してしまっているのである。
心に重大な葛藤のある豆腐メンタルの人は、何をやってもそれを有効にすることができない。
無意識に、自分のやることに豆腐メンタルの人はさからうからである。
何かいわれたことをやろうとする。
それは単純に手紙を書くということや、ある人に会うといった小さなことから、大きな取り引きや論文を書くということまで含めてである。
とにかくあることをやろうと努力する、全力を尽くす
豆腐メンタルの人は全力を尽くすわりには、能率があがらない、疲れる、時間がかかる、楽しくない。
頼まれたことが小さなことでもなかなかできないということがある。
あるところに電話をするというような小さなことである。
ごく普通に考えれば、何でもないことである。
ほんの二、三分ですむことである。
その何でもない小さなことが豆腐メンタルの人は億劫でなかなかできない。
今日電話をしようと豆腐メンタルの人は思いながら、明日に延ばされる。
午前中に電話してしまおうと豆腐メンタルの人は考えながら、午後になってしまう。
そこで豆腐メンタルの人は上司なり友人なり親なりに怒られる。
なんでこんな簡単なことをおまえはすぐにしないのだと。
たった一本電話をかけることが、なぜか大騒動になってしまうということがある
豆腐メンタルの人がその何でもないはずのことが大騒動になってしまうことの背景には、それなりの問題が隠されているのである。
たとえばその電話は、なにも豆腐メンタルの自分がかける必要はないと心の底で思っていたとする。
だいたい豆腐メンタルの自分にばかりこんな雑用をやらせて不公平だと、心の底で思っているかもしれない。
そこで、自分が今やろうとしていることに豆腐メンタルの人は無意識に自分が反発する。
その無意識の反発をしりぞけて豆腐メンタルの人がそのことをやるのには、ものすごいエネルギーが必要となってくる。
「こんなことは自分がやることじゃない。あの上司がやるのが当たり前じゃないか」と豆腐メンタルの人は心の底の底で感じながら、それを押しのけて自分がやるのにはエネルギーがいる。
またあの上司がめんどうなことをいいだした
しかも「おまえのため」と恩着せがましくいっている。
豆腐メンタルの人はそれに心の底ではものすごく不満である。
ものすごく不満なのだが、豆腐メンタルの人は「僕のためなら、そんなことしてくれなくて結構です」とはいえない。
そのように言わずに、豆腐メンタルの人はまったく反対のことをいってしまう。
「ありがとうございます」などと豆腐メンタルの人は心にもないことをいう。
そしてそのことから発生してくる仕事がある。
その仕事をするのには、豆腐メンタルの人はものすごいエネルギーがいる。
心の底のブレーキをこえる力を豆腐メンタルの人は出さなければならない。
だからこそ、豆腐メンタルの人はすぐに疲れてしまうのである。
ブレーキの上に足を置きながらアクセルを踏みつづければ、ガソリンはいる
同じことである。
豆腐メンタルの人はそのブレーキの上に足を置いているということに気がついていない。
心の葛藤というものは、そういうものである。
心の弱い、豆腐メンタルの人の「心の疲れ」はエネルギー消耗の合図
この世の中にはバリバリ仕事をしている人もいれば、ちょっとのことをやっても、すぐに疲れてしまう人もいる。
その差がすべて心の葛藤というわけではない。
しかしその重要なファクターは、心の葛藤である。
豆腐メンタルの人が対人関係で疲れるというのも、一つには心の葛藤が原因である。
疲れる豆腐メンタルの人は相手との今の関係に、心の底では納得していないのである。
相手との今の在り方に豆腐メンタルの人は心の底では不満であるのだが、その不満を表現できなかったり、意識できなかったりする。
心の底では、もっと豆腐メンタルの自分は相手に堂々としていていいと感じている。
心の底では、相手は豆腐メンタルの自分に対してもっと礼儀正しく振る舞うべきだと感じている。
相手はもっと豆腐メンタルの自分の要求に従って動くのが当然だと感じている。
しかし豆腐メンタルの人はその不満をどうしても表現できないし、ときにはその不満を意識できない上司との関係でも、心ならずも従順になってしまう。
上司の態度は部下に不公平だと心の底で感じている
豆腐メンタルの人は今の自分と上司との関係に、心の底では腹をたてている。
なんで同僚のあいつはいつも雑用を頼まれないで、豆腐メンタルの自分だけ頼まれるのだと心の底で不満である。
こんな人間関係は、その豆腐メンタルの人の心を緊張させるのである。
そのような人といると豆腐メンタルの人は心理的に緊張している。
不満からくる心の緊張というのも、豆腐メンタルの人を疲れさすものである。
この豆腐メンタルの人のエネルギーは無駄に消耗されている。
豆腐メンタルの人はもともと他の人と違って、エネルギーがないというのではない。
何事も成し遂げられないままで、豆腐メンタルの自分のエネルギーを内的緊張で消耗させたまでである。
豆腐メンタルの人はもう、自分を責めなくていい
個人の努力をこえた運、不運は存在する
そして、どんなときにも不運の側にまわる人は必ず出てくる。
たとえば買い物に行き、店員にすすめられてある商品を購入したとする。
ローンを組んでの、比較的大きな買い物である。
ところが、別の店に行ったら同じものが値下げしていたとき、信じられないほど大きく後悔をする豆腐メンタルの人がいる。
豆腐メンタルの人はまるでだまされたといわんばかりに購入した店を苦々しく思い、不幸のどん底に突き落とされたかのように感じるのである。
同じものならば、安く買えるにこしたことはない。
しかし、それが人生の幸せの条件ではない。
心を壊す人のように所有と損失ということを軸に動いている豆腐メンタルの人は、それで大損をしてしまったかのように感じ、いつまでもくよくよしている。
豆腐メンタルの人はまるでそれだけが人生の価値であるかのごとく錯覚している。
そういう豆腐メンタルの人が多すぎる。
いずれにしても、買物一つでも運のよかった人と、不運な人とがいる
大切なのは、そのとき豆腐メンタルの自分の不運を嘆くよりも、自分が今まで全精力をもって生きてきた姿勢を、自分が正しく評価することを忘れないことであり、悪いのは自分ではないと自分に言い聞かせることである。
悪いのは豆腐メンタルの自分ではないのに、自分はなんてダメなんだと、自分を責めたり嘆いたりしていると、本当に自分がダメな人間のような気がしてくるし、事実本当にダメな人間になってしまう。
病気にばかり気を奪われていると、本当に病気になるということがいわれる。
くしゃみ一つで、これでひどい風邪になるのではないかと心配しすぎて、本当にひどい風邪になる人もいる。
否定的な暗示には豆腐メンタルの人は注意しなければならない。
暗示は無意識にはたらきかけて、暗示されたことを現実にしてしまうと主張する人もいる
少なくとも、豆腐メンタルの人は自分はダメな人間だというような暗示を自分にかけるのはよくない。
自分は精一杯やったのだ。
悪いのは自分ではない。
ついていなかっただけだ。
自分はたしかにこのことについて失敗した。
その失敗の事実には正面からぶつからなければならない
言い訳をしてはならない。
しかし、豆腐メンタルの人は自分は失敗者だというような自分のイメージをつくってはならない。
運が悪かったのである。
ただそれだけだ。
すねて豆腐メンタルの人は反抗などするのはもってのほかである。
豆腐メンタルの人の「不運による失敗」は誰にだってある
不運は自分の責任ではない。
まだまだ豆腐メンタルの自分には可能性がある。
今回の失敗を豆腐メンタルの自分にはつぐなう、もっともっと大きな成功の可能性がある。
不運による失敗は決して豆腐メンタルの自分の能力不足ではない。
劣等感の強い豆腐メンタルの人は、偶然の幸運を、自分の先見の明によるとする。
同じように、不安な豆腐メンタルの人は、偶然の不運を自分の能力不足のせいにする。
豆腐メンタルの人は偶然の幸運は偶然の幸運として素直に喜べない。
「俺には先見の明があった」などと劣等感から豆腐メンタルの人は虚勢など張るものではない。
そのようなことを言えば言うほど、第三者にはその豆腐メンタルの人の劣等感の深刻さがよく見えてしまう。
逆に、偶然の不運ということだってある。
そんなときこそ、豆腐メンタルの人は自分をたたえることを忘れてはならない。
断じて失敗はその人の能力不足によるものではない
豆腐メンタルの人は不運による失敗なのに、自分の能力不足による失敗として自分を責めていると、意気消沈し、不幸になり、否定的な自分のイメージにいよいよ支配されてしまう。
そして、豆腐メンタルの人はやる気をなくしてしまう。
やがて無気力になると、豆腐メンタルの人は負け犬の習慣が身についてしまう。
事故をおこしがちな人間は、実際に事故がおきる前に、すでにその人の心のなかに、そのような自分のイメージができているという。
不運な出来事のイメージが心の中につくられることで不運を呼び寄せてしまう豆腐メンタルの人もいる。
不運による失敗は、断じて自分の責任ではない。
だから豆腐メンタルの人は断じて自分を責めてはならない。
失敗を成功につなげる人・失敗を繰り返す人
豆腐メンタルの人は不運による失敗なのに自分を責めていると、自然と心が暗くなってくる。
一回や二回、いや十回やニ十回の失敗などどうということはない。
問題は不運による失敗なのに、豆腐メンタルの人はなんとなく自分を成功できない人間のように感じ出すことである。
漠然と豆腐メンタルの自分には輝ける人生がないと感じることが問題であって、失敗など問題ではない。
むしろ豆腐メンタルの人は偶然の失敗によって、心のなかにある否定的な自分のイメージが刺激され、強化されてしまうことが恐ろしいのである。
誰にだって不運はある。
誰にだって不運からの失敗はある。
それは自分の責任ではない。
自分の欠点ゆえに失敗したのではない。
不運による失敗で、豆腐メンタルの人は失敗する前の意気揚々とした気持ちを忘れてはならない。
たかが仕事の失敗が何だ
たかが一度の買い物が何だ。
豆腐メンタルの人はそんなことで断じて自分の評価を下げてはならない。
不運による失敗なのに、豆腐メンタルの自分の欠点のために失敗したと自分を責めていると、自然と気持ちが落ち込んでくる。
もし本当に自分の欠点のために失敗したのなら、そのときは、これからあらためようとして決して落ち込んだりはしない。
豆腐メンタルの人は「不運」は「不幸」ではない
アメリカの精神科医、アラン・マクギニスの『ベストを引き出す』という本のなかに記されていたある人物である
その人は、1831年に事業で失敗し、1832年に州議会議員に落選し、1834年に当選。
1835年に恋人が死に、1836年に神経衰弱。
1838年に議長選挙に敗れ、1840年に大統領選挙人団の選にもれ、1843年に下院議員に落選した。
1846年には当選したが、1848年には落選し、1850年には上院議員に落選し、1856年には副大統領選挙に落選し、1858年には上院議員に落選した。
その人の名は、エブラハム・リンカーンである。
そして1860年に大統領に選ばれた
もし彼が1832年に州議会に落選したとき、それは自分の能力不足によるものと信じ込み、自分の欠点を次々と発見して、そして自分を責めていたら、きっと優柔不断なうじうじした憂うつな豆腐メンタルの人間になっていたのではないだろうか。
精いっぱい戦った自分をほめたたえる気持ちがなかったら、これほどの落選には耐えられなかったであろう。
やはり人生には「天の時」というのがある。
不運による失敗をしたときは、豆腐メンタルの人は自分がこれまでによくやってきたことを思い浮かべることを忘れてはならない。
豆腐メンタルの人は自分が燃えて戦っていた「あの時」のことを過小評価するものではない。
不運による失敗をしたときは、自分で自分を励ますのである
「私はあんなことをした」「俺はあんなことをした」と自分の勇気、業績を思い出して、豆腐メンタルの自分を勇気づけるのである。
豆腐メンタルの人は不運による失敗をしたとき、なんとなく自分のかつての成功を過小評価しがちになる。
そしてかつての豆腐メンタルの自分の失敗を過大に考える傾向がある。
しかし断じて、自分はダメな人間なのではない。
猿も木から落ちるとはよくいったものである。
たまたま偶然に木から落ちた猿が、木から落ちた、木から落ちたと、そのことばかり考えていたら、怖くて木に登れなくなるかもしれない。
リンカーンだって落選につぐ落選をしているのである。
ホームラン王として知られたベーブ・ルースだって三振につぐ三振をしていた。
ベーブ・ルースといえば、ホームラン王であったことばかり人は注目する。
しかしベーブ・ルースは同時に三振王でもあったのだ。
ただ落選したとき、リンカーンはめげなかった。
ただ三振したとき、ベーブ・ルースはめげなかった。
二人とも不運で失敗したとき、自分を責めなかったに違いない。
リンカーンは不運で落選したとき、自分を低く評価しなかった。
ベーブ・ルースは三振したとき自分を軽蔑しなかった。
リンカーンは落選しても自分を信じていた。
ベーブ・ルースは三振しても自分を信じていた
偶然の不運による失敗でめげてしまい、次々に自ら不運を招く豆腐メンタルの人は、失敗したとき自分を信じていない人である。
豆腐メンタルの人は不運によって失敗したときこそ、自分を信じなければならないのだ。
自分を信じている者は、自分の潜在的能力を発揮できるし、自分を信じていない豆腐メンタルの人は、自分のもっている力を発揮することはできない。
不運が何だ。
不運を単なる不運でなく、人生の不幸にしてしまうのは、自分の心の中の恐怖なのである。
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豆腐メンタルの人の「必要とされる自分」を追い求める人の深層心理
自分のやりたいことがわからない原因は、すぐれていないことでもなく、自分に価値がないと感じていることでもない
神経症的になる豆腐メンタルの人は、自分は他人より劣っていると感じているにもかかわらず、他人よりすぐれたい、すぐれなければならないと感じている人なのである。
豆腐メンタルの人は自分には価値がないと感じつつ、心の底では自分は求められる存在でありたいと願っている。
この心の底の矛盾した願望と感じ方の衝突、葛藤が豆腐メンタルの人を神経症的にしていく。
それだけに豆腐メンタルの人は普通の人より自分の優越を確認したいと焦る。
自分が求められているという証拠を豆腐メンタルの人は手に入れたがる。
自分は愛されない存在だと感じつつ、豆腐メンタルの人は愛されたいと切に願っているからこそ、普通の人より愛されているという証拠を手に入れたがる。
愛されている、求められているという事実に豆腐メンタルの人は、普通の人のようには心理的安定を得られない。
カレン・ホルナイの本のなかに神経症者の描写として”his insatiable urge to feel safe”という言葉がある。
安心したいという衝動が強すぎて、その衝動が満たされないということである
普通の人だったら安心できることが、豆腐メンタルの人は心の中の矛盾のために安心できないのである。
普通の人だったら恋人に愛の言葉をささやかれ、愛の行為があれば愛されていると感じる。
しかし豆腐メンタルの人は自分は愛されるに値しない人間だと感じているから、普通の人のようにそこで愛されていると感じて安心することができない。
さらに愛されているという証拠を豆腐メンタルの人は手に入れないと安心できない。
どこまでいっても豆腐メンタルの人は安心できない。
相手に対して豆腐メンタルの人は疑い深くなる。
それは恋愛ばかりでなく、普通の人間関係においても同じである。
相手の好意を豆腐メンタルの人は信じられない。
それは相手の好意を豆腐メンタルの人は得るに値しないと感じているからである。
他人の好意を豆腐メンタルの自分は得るに値しない存在であると感じているとき、他人の好意に接すると居心地が悪い。
恥ずかしがり屋の人が他人といると居心地が悪いというのも同じ心理であろう
恥ずかしがり屋の豆腐メンタルの人は、脚光を浴びることを求めながらそれを避けてしまうというのも同じである。
人の称賛を求めながらも、心の底では豆腐メンタルの自分は人々の称賛に値しないと感じている。
豆腐メンタルの人はそこで人々にほめられると居心地が悪くなるのである。
人々の注目を求めながら、人から注目されることを避けるという豆腐メンタルの人も同じである。
人からの注目を求めつつ、心の底では豆腐メンタルの自分は人々の注目に値しないと感じている。
そこで注目されると居心地が悪くなる
豆腐メンタルの人はほめられたいくせに、実際ほめられると照れてしまう。
つまり何の客観的根拠もなしに、豆腐メンタルの自分はつまらない人間だと感じてしまった。
それは豆腐メンタルの本人にとっては心理的にはそのように感じる理由はある。
ただ人々から見てその人がつまらない人間ではなくても、豆腐メンタルの人はある幼少期の環境のなかで不幸にもそう感じてしまうという事がある。
「心の渋滞」はなぜおこる?
何か理由がわかないけれど不安な緊張におそわれて体がかたくなるとか、どうしてもリラックスできなくて苦しむとか、不眠に悩むとか、神経症的な豆腐メンタルの人というのは心のなかが、矛盾している感情の衝突で混乱している。
一方で自分はつまらない人間だ、自分はダメな人間だ、自分は好かれない、自分はまともに他人に相手されない人間だというように豆腐メンタルの人は感じている。
自分は他人にとって意味のない人間だという感じ方に嘘はない
豆腐メンタルの人は本当に心の底で、自分は他人に比べて価値のない人間だと感じている。
しかしこれとまったく逆に、自分は人より優れている。
自分は他人と違ってこの世の中に特別の権利がある。
自分は他人と違ってこの世の中で偉くなる特別の資格がある。
自分は他人と同じ人間ではないということを心の底で感じている。
この自分には他人と違って特別の資格があるという感じ方も嘘ではない。
神経症気味で頭痛がしたり、便秘になったり吐き気がしたりという豆腐メンタルの人は、このように心の中がまったく矛盾した2つの感じ方で心理的混乱に苦しんでいるのである。
一方通行の道路に逆から車が入ってきて、二つの車が正面衝突して大渋滞大混乱しているようなものである。
自分は他人に愛されない価値のない人間だという感じ方と、自分は選ばれた特別の人間なのだという感じ方が心のなかで葛藤し、収拾がつかなくなっているのである。
別の表現を使えば、幼児性を抜け出られないまま、自分に失望している人なのである
豆腐メンタルの人は幼児性、つまり自己中心性である。
自分を中心に世界が動かなければ、豆腐メンタルの人は気持ちがおさまらない。
小さな子どもは他人や物事を中心にして考えることができない。
すべて自分を中心に周囲が動かなければ泣いて騒ぐ。
そのような自己中心性を豆腐メンタルの人は大人になってもまだ残していることが多い。
気に入らないと子どものように泣いて騒ぐということはしないが、泣いて騒ぎたいほど豆腐メンタルの人は不満である。
子どもなら気に入らなければ泣いて騒げる。
大人になると、気に入らないといってすぐに泣いて騒ぐわけにはいかない
そこで豆腐メンタルの人はその気持ちをおさえる。
みっともないからということで豆腐メンタルの人はおさえる。
しかしおさえてみたところで、豆腐メンタルの人は不満であることには変わりない。
おさえて不満であるだけに、豆腐メンタルの人は周囲へ敵意をもつ。
不満はおさえられると敵意や憎しみに変化する。
不運による失敗をしたときは、自分がこれまでによくやってきたことを思い浮かべることを忘れてはならない。