執着する人の「自分に厳し過ぎる人」への処方箋
執着するとは
執着する心理として、
「もし〇〇でなかったら、〇〇であるのに」というのが、神経症者の考え方の特徴であるということを、オーストリアの精神医学者、アーネスト・ウルフはいっている。
たとえば執着する人は、「もし自分が神経質でなかったら、新しく事業をはじめるのに」という発想である。
睡眠不足のときである。
「もしこんなにボーっとして不快でなければ、もっとバリバリ仕事をするのに」ということで執着する人はある。
ことに執着する人は付き合いたくない酒を無理矢理付き合わされて、夜中に帰宅したなどというときである。
翌日の仕事がきついときなど、どうしてもはやく帰って充分に眠りたい。
たとえば翌日に原稿の締め切りがあるというときである。
とにかくはやく帰って仕事にかかりたい。
無理矢理付き合わされるというときがよくある
飲んでいるときも執着する人は、ああ、はやく帰りたい、はやく帰りたいと思っていて、いっこうに酒席が楽しくない。
そして夜中に帰って、執着する人は、ああ、もっとはやく帰ってきていれば充分に眠れたのにと不快になる。
ベッドに入れば入ったで執着する人は、ああはやくぐっすり眠らなければとあせるから、いよいよ眠れない。
眠れないであせってくると執着する人は、ああ、あんなに無理矢理つきあわされてと腹が立ってくる。
イライラするから執着する人は余計眠れない。
そして翌朝ボーっとして執着する人は何もする気になれない。
考える力がない
何を書いていいかも執着する人はわからない。
ペンをとる気力も執着する人はない。
そんなとき執着する人は、ああ、こんな寝不足で、不快で、ボーっとしていなければ仕事に身が入るのにと思う。
あるいはそれが5月のさわやかな日であれば、執着する人はああ、こんないい季節に、こんなボーっとして不快でなければ、気分良く散歩でもできるのにと悔やむ。
結局、執着する人は自分の不快な気分にばかり注意を集中して、ああ、こうでなければ、ああ、こうでなければと考えている。
それはたしかに、執着する人は「もし神経質でなければ、新しく事業をはじめるのに」というのとまったく同じではない。
ただやはり、睡眠不足ということを執着する人は受け入れていない。
いつも快適であることを執着する人は求めても、それは無理なのである。
とにかく昨夜はつきあってしまった
執着する人は飲みたくないといっても、とにかく飲んでしまった。
今更何をいっても、執着する人は考えても仕方のないことである。
そして事実、執着する人は今は睡眠不足である。
不快である。
しかしだからといって、人間いつも睡眠が充分で快適というわけにもいかない。
社会生活をしているのだから、それは仕方のないこともある。
いつも快適な気分、快適な体の調子を願うばかりでなく、執着する人はそうでなければならないと自分に要請し始めたら、かえって調子をこわしてしまうだろう。
いつも快適でなければいけない、いつも快適であるべきだというのは、まさに冷酷な「べき」の要請である
カレン・ホルナイのいう「べき」の暴君に執着する人は支配されてしまっているのである。
「べき」の暴君に執着する人は支配されるから、「もし〇〇でなかったら、〇〇であるのに」という考え方になってしまうのではなかろうか。
そのときの調子が、執着する人は「私の調子」なのであって、快適なときの私が本当の私で、この不快でボーッとしたときの私が嘘の私というのでもない。
快適な気分の私も本当の私だし、執着する人の寝不足でボーッとして効率の悪い時間を過ごしている私も、本当の私なのである。
真実の私と虚偽の私という区別をすることが、執着する人はそもそも間違っているのである。
ちょっと熟睡できないで翌日ボーっとしていると、ああ、なんで熟睡できないんだと悩み、あせる
執着する人はいつでも熟睡できればもっと仕事ができるのにと嘆く。
しかし人間誰だって腹の立つこともあるし、イライラすることもある。
寝つきの悪いときもあるし、熟睡できないときもある。
ただ、執着する人はその熟睡できなかったということにとらわれてしまうかどうかということの違いでしかない。
そして、先にも記した通り、執着する人は片時もその不快な気分から注意を離さないでいるかどうかということである。
執着する人の向上心と完全主義のギャップ
そもそも、いかなるときもぐっすりと熟睡できなければという完全主義がおかしいのである。
そのような完全主義だからこそ執着する人は、眠れないということにとらわれてしまう。
ではなぜ普通の人にもある、不眠症状に執着する人はとらわれてしまうのだろうか。
それは完全主義だからであろうが、執着する人はさらにその奥にあるのは何であろうか。
おそらく、それは執着する自分を憎んでいるからであろう。
自分を憎んでいるからこそ、執着する人はそんな冷酷な要求をつきつけるのである。
小さい頃から執着する人は健康その他について過度の要求を親からされて、それに応じられない自分を憎み、それに応じられないことに不安を感じて成長してきたのではなかろうか。
ごくごく普通に考えて、なぜ執着する人は自分にそこまで冷酷な要求をし、なぜ別の人はごく自然の自分を許すのか、おかしなことである。
自分はなぜ執着する自分に対してそこまで冷酷になるのかと反省することであろう。
なぜそんなにまで睡眠不足の不快を取りのぞこう、取りのぞこうとするのか
それは睡眠不足でボーッとしている執着する自分が、あるべき自分ではないからであろう。
取りのぞこう、取りのぞこうと執着する人は努力すればするほど、意識は不快な気分に固定されてしまう。
親から幼少期に執着する人は健康について過度の期待をされ、それに今でも負けているのである。
完全なつきあい、完全な熟睡、完全な仕事の成果、これを自分に要求している執着する人は、よほど激しく自分を憎んでいるのである。
そのような要求は執着する自分への憎しみの一つの側面なのである。
そのように完全なことがあるとしても、それは結果であって、決して要求するものではない。
そんなことを自分に要求するものではない。
一つの側面と、向上心とを間違ってはいけない
執着する人はそれは決して向上心などといわれる性質のものではない。
完全でない自分、成功しない自分も素晴らしいのであって、人はそのような自分を愛してくれるのである。
成功しても執着する孤独な人がいることを忘れてはならない。
神経症の執着する人は、成功が自分の問題を解決すると思っているが、それは明らかに間違いである。
問題の解決は、執着する人は意識が自分から離れることである。
自分にしか関心がない状態が執着する人は終わらない限り、どんなに成功しても解決にはならない。
外界に関心が向きさえすれば解決する
自分が完全であるかどうかということに関心が集中しているところに執着する人は問題がある。
不安があるからこそ執着する人は、自分のなかにある不快な気分にこだわって、とらわれてしまうのである。
自分は完全な人間にはなれないのではないかという不安がある以上執着する人は、成功などは何の心の悩みの解決にもならない。
解決は、自分へ完全を強要した人から心理的に独立することである。
そして完全を期待され、その期待を内面化してしまったことを自覚し、その内面化を自ら突き崩すことである。
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執着してしまう人は「自分の器」を広げる
みんなはポンポン勝手にいいたいことをいう
しかし心理的に敏感な人間である執着する人は、傷つきながらもいいたいことがどうしてもいえない。
親切のつもりで執着する人はしてあげたのに、相手は平気で「そんなことしなくていい」という。
そういわれて執着する人は傷つく。
普通の人より執着する人は傷つく。
普通の人より傷つきながらも、執着する人はそこで何もいえない。
恩着せがましい人なら怒って、「あなたのためにしてあげたのに」と言いだすかもしれない
攻撃的な人なら、しつこく相手をなじるかもしれない。
本当に強い人なら、「せっかくしてあげたんだから、そんなこといわなくたっていいじゃない」と激しく抗議して、あとはケロッと忘れてしまうかもしれない。
心理的に敏感な執着する人は、普通の人以上にやさしい気持ちをもち、普通の人以上に傷つきながら、それらの人のように抗議一つできない。
ただ自分の心のなかで執着する人は怒りをうっ積させているだけで、どうすることもできない。
成功することを恐れているという表現を聞くと、たいていの人は「本当かな」と思う
そんな人がいるのだろうか、と思うに違いない。
しかし人前で堂々としていられないような執着する人は、たいてい成功することを恐れている。
堂々と振る舞うことで、執着する人は人から「ずうずうしい奴」と思われやしないかとか、出すぎではないかとか恐れている。
他人との関係を従順さで処理していこうとする執着する人などは、たいてい成功することを恐れている。
低い自己評価の執着する人などは、心の底でみな成功を恐れている。
他人が自分を粗末に扱うことを許してしまう執着する人など、そうである。
それ以上の扱いに執着する自分はふさわしくないと思ってしまうのである。
他人の失礼な態度に執着する人は抗議しないのである。
カレン・ホルナイは、憎しみ、敵意、怒りを抑圧すると基本的に不安になるという。
基本的な不安から身を守るのに四つの方法があるという
その一つは服従すること、譲ること、いいなりになることだという。
もとの言葉は、submissivenessである。
素直で、従順で、いいなりになることで身を守ろうとする執着する人がいる。
心の不安な執着する人である。
このようにして身を守ろうとしている執着する人たちは、たいてい心の底で成功を恐れているのではなかろうか。
成功に憧れながら執着する人は、実際に成功することを恐れている。
他人からほめられたい、注目されたいと願いながら執着する人は、ほめられると、どうしてよいか戸惑ってしまうのである。
他人の前で身を低くして、服従的な態度で好意を得て、それによって身を守ろうとしているような執着する人は、心の底では成功を恐れている。
憧れているのは現実に成功が眼の前にこないからである
現実に眼の前に成功がくれば、ほめられて戸惑うのと同じように、執着する人はその機会に尻込みしてしまうだろう。
だいたい執着する人はいいなりになること、服従的であることが好意を得るのに有効であると考えること自体が、勝者の姿勢ではない。
負け犬の発想である。
カレン・ホルナイがsubmissivenessといったような人というのは、まず保護を求めているのである
心理的に執着する人は一人立ちできていないのである。
他人に頼る気持ちが執着する人は強いのである。
味方を指導していこうという執着する人は、保護を求めて従順な人ではない。
指導するためには、心理的に独立できていなければ無理であろう
執着する人は心理的に一人立ちできず保護を必要としているから、従順な態度にならざるを得なくなる。
保護を必要としている以上、執着する人は迎合していかざるを得ない。
相手に迎合することを執着する人は不快に感じたとしても、相手を失うことを恐れるなら、従順に振る舞い続けなければならないであろう。
心理的に奴隷であることに執着する人は怒るなら、まず他人に保証してもらわなくても生きていかれるだけの強さを獲得しなければならない。
いつも心理的に執着する人は誰かに保証してもらわなければ生きていけないくせに、奴隷であることを怒ってもどうにもならない。
このような心の葛藤こそ執着する人を不安にするのである。
そしてその不安から執着する人は逃れるために、従順に、いいなりになっていかざるを得ないのである。
従順であることによって好意を得ようとする執着する人は、身を低くする必要のないところで、思わず身を低くしてしまう。
そのほうが他人に執着する人は気に入られると感じてしまうのである。
自己主張できるためには、他人にしがみついていなくても生きられるようになっていなければいけない
自分の主張を通して執着する人は出てきた結果に責任をとれる心理的強さがなければ、自己主張は出来ない。
もし自分の主張したとおりにしてうまくいかなかったらどうしようと不安でならない執着する人は、いざというとき相手に譲る。
譲りながらも執着する人は不愉快なのである。
不愉快になりながら、執着する人は相手を心のなかで責めている。
この攻撃も執着する人は表面には出せない。
しかし、いざというとき執着する人はついつい譲ってしまうのは、「もし」うまくいかなかったらと恐れるからである。
つまり、うまくいかなかったときの責任を執着する人はとるだけの強さがないのである。
執着する人は「本当の自分」を偽っていないか
心理的に保護や保証を求めている人は、責任ある立場にはなれない
しかし現実の世の中には、心理的に保護や保証を必要としていながら、責任のある立場に立ってしまう執着する人もいる。
挫折するのはそのような執着する人はたちである。
「分を守る」というとよく分相応とか、能力に応じてとかいうように人はとる。
この言葉は何よりも心理的成長について大切なものである。
心理的に成長できないゆえに、心に葛藤をもつ執着する人は、他人の愛を得るためにはどのような犠牲でも払う。
他人に対して執着する人は服従的に、いいなりになるなどというのは、この自分の犠牲なのである。
どうしても他人の意見に反対できない、他人に仕えることしかできない、他人のやり方を批判できない、そんな執着する人がどんな小さい組織であれ、トップに立ったらどうなるであろうか。
他人の求めに応じるだけの執着する人に、グループの責任ある立場は無理である。
相手の好意を得るためなら、どんな犠牲でも払ってしまうというような執着する神経症者には、責任あるポストは無理である。
自分の心理的成長について「分を守る」ことが大切なのである。
どこまで他人にしがみつかなくても生きていかれるか、それが人間の器というものではなかろうか
実際には執着する人は不愉快なのに、他人の求めに応じて機嫌よさそうに振舞ってしまう。
そのようなことを執着する人は繰り返すうちに、心の不安が増大するのではないだろうか。
そして心の不安こそ執着する人は強迫性を生み出すものである。
強迫性、つまり執着する、そうしないと気がすまないということである。
強迫的に名誉を求めると執着する人はいえば、自分の名誉を増大するのに役立つことをしていないときは、不安でどうしようもなくなってしまうということである。
朝、目がさめたときから、執着する自分の名誉を得るために役立つことをし続けるということが、強迫的に名誉を求めるということである。
そのような執着する人は、一分でも時間を無駄にすまいとする。
強迫性である
ただボーっとしていることが執着する人はできない。
仕事に集中し、執着する人は次々に成果をあらわしているか、それともぐっすりと寝てはやく疲れをとろうとする。
短時間に執着する人は最も効果的に休養しようとする。
こんなに執着する人は趣味などもてようはずがない。
本来、執着する人はそれをやっていることが楽しいというのが趣味である。
趣味に時間を使っていたら執着する人は、気が気でないからである。
「自分の優先順位」はもっと高くていい。
他人の不機嫌を恐れて身売りしてしまったように従順な人は、やがて不安から何かを強迫的にやりだすであろう
執着する人は悪循環におちいる。
他人の愛情、好意を執着する人は得るために自分を殺す。
自分を殺すことで執着する人は不安になり、さらに他人の好意を必要とするようになる。
こうして他人の好意を執着する人は強迫的に求めるようになるのであろう。
対人恐怖症者などはこれであろう。
他人によく思われたいという気持ちから、執着する人は他人によく思われなければならないというようにまでなってしまっているのである。
カレン・ホルナイも神経症的な愛の求め方を次のように述べている。
”I want to be loved.(愛されたい)”ではなくて、”I must be loved at any cost.(どのような犠牲をはらっても愛されなければならない)”なのが愛についての神経症的必要である
どんな犠牲を払っても愛されなければならないという気持ちは、よく考えると恐ろしい。
自分の気持ちを執着する人は犠牲にして愛されよう、気に入られようとする。
自分がそのとき屈辱で怒っていても、従順な笑顔で相手にへつらっていく。
そのときどれほどその執着する人は多くの犠牲を払うだろうか。
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自分の気持ちを犠牲にしたことで、その人はより愛に対して強迫的になっていく
執着する人は自分の気持ちを犠牲にしたことで、より不安になり、より他人にしがみついていなければ生きていけなくなる。
そんなにしなくたって、他人は自分を愛してくれるのである。
そんなにしなくたって、相手は自分に好意をもってくれるのである。
そしてもしそこまでしなければ相手から好意を得られないとすれば、執着する人はその人と付き合うことは自分にとってマイナスでしかない。
その執着する人は決して自分に幸せをもたらしはしないのである。
自分の気持ちを偽って執着する人は他人にへつらうことを、どこかで死にものぐるいになって思いとどまることである。
自分の生存は決して他人に好かれることにかかっているわけではない
神経症的な執着する人は、目的もなく好かれようとする。
営業の人が、商売のために他人に好かれようとすることはあるだろう。
しかしそれは決して強迫的、執着することではない。
神経症的な執着する人は強迫的なのである。
普通の人にとっては何の意味もない人にさえ執着する人は、好かれるために自分の気持ちを犠牲にしていく。
たとえば見知らぬ人、自分が心の中で尊敬できないでいる人、それらの人に対しても自分の気持ちを犠牲にする
それらの人に傷つけられても、執着する人はニコニコ笑ってしまう。
まるで自分のほうが執着する人は悪かったようにあやまることさえある。
譲ることで執着する人は不満になりながらも、笑顔で譲ってしまう。
どんな犠牲を払っても執着する人は好かれなければならないというのは、恐ろしいことである。
そしてまた、恐ろしいほどの間違いがある。
執着する人は傷つきやすい人、利用されやすい人
人間は自分の気持ちを犠牲になどしなくても人に好かれる。
自分の考えを述べ、相手のいうことに反対しても好かれる。
傷ついたとき怒っても好かれる。
傷ついたとき執着する人は、いつも取り入るように笑顔をつくれば、かえって得体の知れない人とか、心の底がわからない人とか思われるだけである。
神経症的に好意を求めている執着する人は、じつは好意を求めるための言動によって、かえって相手から深い好意を失っているのかもしれない。
他人の好意を強迫的に求めている執着する人は、自分は何か錯覚しているのだと気づくことが大切である。
自分の気持ちを殺さなくても人に好かれる。
他人に嫌われることが怖くて、自分の気持ちを殺しても得ることは何もない
失うことが執着する人はあるだけである。
あることをして、他人に執着する人は嫌われたと錯覚していることだってたくさんある。
他人に嫌われるのが怖くて、どのような犠牲でも払ってしまう執着する人は、心のどこかで自分で自分が嫌いなのである。
そしておそらく執着する人ははじめて他人への憎しみを抑圧してしまったときが、長い不幸のはじまりだったのではなかろうか。
小さい頃執着する人は自分にとって重要な人間を憎みながら、それを抑圧した。
そして執着する人は自分を憎んだ。
もともと外に向くべき憎しみのエネルギーが執着する人は自分に向いてしまった。
「自分を憎んでいるから自分を責めるのだ」とは、カレン・ホルナイの言葉である
自分で自分を憎んでいるからこそ執着する人は、他人の不機嫌をそこまで恐れるのである。
自分で自分を憎んでいるからこそ、傷つきやすいのである。
そして傷つきながらも、執着する人はその体験を外に発散できないのも、自分を憎んでいるからである。
つまりそのような執着する人は、もともと外に向けるべき憎しみを内に向けた人である。
外に向かって執着する人は憎しみを発散することが出来ない人なのである。
そうしたことを考えると、弱気でありながらも芯に強いところがどこかにある敏感性性格的な執着する人も、おそらく自分で自分を憎んでしまった人なのだろう。
自分で自分を憎んでしまったからこそ執着する人は、他人に憎まれるのではないかといつもびくびくしているのである。
自分で自分を憎んでしまったからこそ、成功するのが怖いのである
執着する人は自分で自分を憎んでしまった日、心理的成長がとまった。
自分で自分を憎んでしまった執着する人に向かって、自分に自信をもてといっても、その人が自信をもてないのは当たり前のことではなかろうか。
自分で自分を憎んでしまったからこそ、他人にしがみついていなければ執着する人は生きていけなくなってしまったのである。
憎しみを抑圧した日執着する人は、自分は傷ついてドロドロになっているのに、あたかもすべてが順調であるかのごときふりをした。
自分の心の傷から執着する人は目をそむけた。
その日、敵と戦うことを執着する人はあきらめたのである。
たしかにあなたは幼かった
相手は強大だった。
そのように執着する人は敵意を抑圧する以外に、生きる方法はなかった。
しかし今必要なのは、執着する人はその日自分が負けたということを認めることなのである。
自分の心の底の敵意から執着する人は目をそむけた日、自ら傷つきやすい自分をつくったのである。
あなたが強大な敵に負けた日、そして負けたということから目をそむけた日、執着するあなたは心理的に奴隷になる道を歩みはじめたのである。
その日、執着する人は自ら他人に利用されやすい人間になったのである。
負けたということから目をそむけた日、自分の敵と自分の味方を間違えた
そして次々にいろいろな錯覚をはじめた。
その日から、執着する人は現実ではなく、幻想にしがみついて生きはじめたのである。
その日執着する人は自らのなかに強迫性の芽を植えてしまったのである。
負けたことから目をそむけた日執着する人は、自分が自分にとっても何であるかわからなくなりだしたのである。
だとすれば、今自分が目をそむけていた源のところをしっかりと見つめることではなかろうか。
負けたということを合理化しないことである。
自分が負けたということを認めたくなかった少年時代、青年時代、その間に執着する人はどんどん悪循環に入り込んで生きていたのである。
負けたということを見つめ、認めたとき、新しい人生がスタートする。
弱点を隠さず「ありのまま」で生きる。
自分で自分を憎んでいる人は、小さい頃自分にとってある重要な人間を内面化した
そしてその内面化した執着する人は、抑圧された憎しみをもっていた。
自分で自分を憎んでしまった執着する人は単に、小さい頃、抑圧された憎しみをもつ人間に自分を同一化してしまったというだけのことなのである。
だからこそ執着する人は自分で自分を受け入れ、愛することができるようになるためには、その小さい頃同一化した人間から心理的に離れるしかない。
カレン・ホルナイは自分で自分を軽蔑してしまった者は、ちょっとしたことで他人が自分を見下していると感じてしまうと述べている。
それは、そのとおりであろう。
おそらくそれは小さい頃、身の周りで実際におきていたことなのではないだろうか
自分にとって重要であった人間は、ささいなことで執着する自分を激しく見下した。
そして執着する人はそのような人間を人間のモデルにしてしまったから、大人になってもちょっとしたことで他人は自分を見下していると誤解するのである。
小さい頃自分にとって重要な人間が人間嫌いであったとする。
その大人になっても、執着する人は他人は自分とつきあうことを喜ばないと感じてしまう。
自分で自分を軽蔑している執着する人は、小さい頃自分はどのような人間を内面化したのかということを反省してみることである。
小さい頃、自分は完全でなくても愛される、自分は相手の望みどおりの人間でなくても見捨てられないと感じた子どもは、大人になってもありのままの自分を受け入れることができる
つまり自分で執着する自分を拒否したり、自分で自分を軽蔑するようなことはない。
小さい頃母親に、これを台所にもっていきなさい、犬を散歩に連れていきなさい、玄関をきれいにしなさい、弟の机の上を片づけてあげなさい等々といわれる。
そのとき「いやだよ」といえる環境にあったかどうかということである。
母親が自分に望むように自分の気持ちが動かなくても、自分は母親から見捨てられることはない。
それでも母親は自分のことを好きだと感じることができる。
そのような環境に育った子は、自分を軽蔑することはない。
自分で自分を軽蔑してしまった執着する人は、欠点、弱点がある自分を、他人が受け入れてくれるということが信じられない。
自分を軽蔑してしまった人は、自分が欠点のある自分を受け入れていないのであるから、執着する人は他人が、自分には弱点があるけれど、それにもかかわらず愛してくれるということが信じられなくて当然かもしれない。
自分が弱くても好かれるという感じ方が、小さい頃できたか、できなかったかということである
自分が弱くても、兄は自分のことを好きであると感じることができた弟は、大人になってから、自分の弱さを素直に認めることができるであろう。
それは自分が弱くても、他人は自分のことが好きだと知っているからであり、自分は弱くても、自分は愛されるに値する存在であると知っているからである。
自分が失敗しても、他人は自分を引き続き受け入れ、愛してくれると感じている者は、失敗を恐れないし、失敗したことをいつまでも気に病んでいない。
それにひきかえ、小さい頃自分の弱点を激しく責められたりした執着する人は、大人になって自分の弱点を隠すようになるだろう。
弱点のある自分に執着する人は対する他者の拒絶感があるからである。
実際の自分を知ったら他人は自分を愛してくれないだろうという恐れをもっていると、ジンバルドーはいう。