ストレスフルな人が気が楽になるとは
ストレスフルとはストレスが多く溜まって溢れてしまっている状態のことをいう。
仕事や人間関係、病気などからストレス因子が多く溜まってしまって無気力になってしまっている。
そんなストレスフルな人が気が楽になる心理を人間関係を軸にして述べてみたい。
ストレスフルな人の心理
強迫的に名誉や力を求めるストレスフルな人がいる。
このような人が名誉を獲得できる機会を前にしてあがる。
緊張して夜も眠れないというストレスフルな人は、このタイプである。
強迫的に名誉を求める気持ちは、失敗することの恐れとともにある。
カレン・ホルナイの言うように、名声追求の強迫的性質は不満の反応のなかにも表現される。
それはどういうことであろうか?
思うように成功できなかったときの反応がストレスフルな人は異常だというのである。
うまくいかないことに対する忍耐度がない
ストレスフルな人はうまくいかないことがあるとすぐに冷静さを失う。
ちょっとした失敗でストレスフルな人はすぐに取り乱してしまう。
それはうまくいくことを異常に願っていることの裏返しである。
思うようにいかないことがあるとストレスフルな人はすぐに不機嫌になる。
イライラする。
人にあたる。
自分が自分に不満だから、自分に怒っているのであるが、それは意識されない
他人の言動がストレスフルな自分をイライラさせていると思っている。
こういうストレスフルな人は、およそユーモアのある人と違う。
ユーモアのある人というのは逆境に際しても笑いを忘れない。
現実と触れていないから、人と触れ合っていないから、ストレスフルな人は自分の失敗を誇張して考える。
また逆に、すごい社会的成功を願う
たえず他人にストレスフルな人は好印象を与えないと、人に見下されるのではないかと恐れる人は、好かれる人のポイントを絞っていない。
誰にでもストレスフルな人は好かれたい。
対象無差別である。
だから、まずストレスフルな人は自分は「誰に好かれたいのか」を考えて、「この人に好かれたい」と好かれたい人を絞る。
だれにでもストレスフルな人は好かれようとすると疲れる。
対象無差別に相手の顔色をいつもうかがっていたら、消耗して死ぬ
もう一つ、ストレスフルな人は自分の実力以上のポストを狙わない。
狙うとだれかの力にストレスフルな人は依存しなければならなくなる。
そこでその人の顔色をうかがうことになる。
ゴマをすることがストレスフルな人の目的になる。
依存しているとストレスフルな人は相手の顔色が気になる。
こうして、他人に自分をよく見せようとすること以外に人生の目標がなくなる。
だから人以上にストレスフルな人は失敗を恐れる。
失敗したらストレスフルな人は他人に非難されるかもしれないと恐れる。
その人らしい失敗は失敗ではない
それは短期的な時間展望のなかでは失敗に見えても、長い人生のなかでは成功であることのほうが多い。
逆にその人らしくない成功は、ストレスフルな人にとって長い時間的展望のなかではたいてい失敗である。
霞が関のエリート官僚が自殺をする。
小さいころからストレスフルな人は成功を積み重ねてきたのが、大きな失敗の原因である。
もっと早いうちにどこかでストレスフルな人は失敗していれば、「はたしてこの道は自分が歩くのに適した道なのだろうか」と反省できたのではないだろうか。
つまり簡単に失敗とか成功とか言うが、問題はストレスフルな人にとって「何が失敗か?」「何が成功か?」ということである。
ある視点から見れば失敗であるが、そのことを別の視点から見れば失敗ではない
エネルギッシュな人はよく「失敗なんてない」と言う。
こういう人を「おかしなことをいう人」と決めつけるのもおかしいのである。
問題は自分らしく生きていることが大切であって、失敗とか成功とかは「ない」と言えば「ない」し、「ある」と言えば「ある」。
ネブラスカの修道院の修道士が晩年に書いたものである。
もう一度はじめから生き直せるとしたら、
今度は失敗を恐れないようにしよう。
力をぬいて、頭を柔らかくして、
いままでよりもっと愚かになろう。
これはマックギニスというアメリカのカウンセラーの本に出ていた詩の一部である。
これは「もっと愚かになろう」ではなく「もっと素直になろう」とも直すこともできる。
つまり好きなものは好きと言い、嫌いなものは嫌いと言って生きたいということである。
つまり、もっと好きなことをして生きてみようということである。
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ストレスフルな人は「安全型」から「成長型」への転換を図る
もっと素直になって、だれに好かれたいかを絞ろう
だれを自分の友達にするかをストレスフルな人は選ぶ。
そしてその友達とほかの人とに差をつける。
同じ扱いにストレスフルな人はしない。
だれが遊びに来ても同じワインを出すようなことはしない。
友達が来たときには特別に美味しいワインを出す。
恥ずかしがり屋の人を調査した結果がある。
[人と話していて、会話が途切れることを恐れ][相手が怒っているときに、なんとなく自分が悪いことをしている気持ちになり][気まずいことがあるくらいなら、自分のほうが我慢し][相手から非難されたときに、怒ったり憂鬱になったりし][相手の感情を害することを恐れて、自分の意見を言えない]
これはジンバルドーによると典型的な恥ずかしがり屋の人である。
「同調自責型」と呼んでいる
この典型なストレスフルの人と、リスク・テイカーとの相関関係を調べた。
リスク・テイカーとは具体的には次のような人である。
[人にやってもらいたいことを気軽に頼めますか][初対面の人とでも、あなたのほうから話しかけられますか][部活か勉強かというときに、どちらにするかすぐに決断出来ますか][失敗を恐れず、新しいことを始められますか]
これらのことについて肯定する人をリスク・テイカーと呼ぶ。
そうすると、ストレスフルの人とリスク・テイカーとは強いマイナスの相関関係にあり、神経症タイプと強いプラスの相関関係がある。
「決断する」という「Risk Taking Behavior」は同調自責型とは負の関係にある
つまり同調自責型のストレスフルな人はなかなか決断ができない。
選択が出来ない。
したがって自分をストレスフルな人は明確にすることができない。
ここで神経症タイプと言っているのは、高すぎる目標を立て、成功したときに誰かを見返したような気分になり、人を助けたときに心の底で感謝を要求するタイプである。
人は大人になると「不安な安全型」と「自信のある成長型」になる
安全を求めたほうが結果として不安になり、リスク・テイクをしたほうが自信を持つようになる。
マズローの言う安全と成長との選択に際してストレスフルな人は「成長を選択すること」が難しい。
理想的にはストレスフルな人は安全の欲求が十分満たされてから成長に向かうことである。
それがもっとも成長しやすい。
しかし親が人間である以上、子ども時代に十分に安全の欲求を満たされた人はほとんどいない。
したがってストレスフルな人はどこかで自分の意志で安全の欲求を抑えて、あるいは自分のなかでなんとか安全の欲求を処理して、エネルギーを成長に向けることである。
安全の欲求がある程度満たされたら、ストレスフルな人はどこかで安全型の人から成長型の人にギアを入れなおす意識的な努力をしなければならない。
もし人間の尊厳というものがあれば、それはこの努力ができることである。
ストレスフルな人はその場を取り繕うだけ
他人から否定的に評価されることなど、だれでも怖いと言うかもしれない。
しかしこの恐怖感も、ストレスフルな人は失敗することの恐れと同じように不信感という土壌のなかで考える必要がある。
自分を受け入れてくれる人がいる。
自分を守ってくれる人がいる。
自分を助けてくれる人がいる。
そして自分は人を信じている。
「実際の自分」が受け入れられていると感じている
そういう人が、他人から否定的に評価されることを恐れるのと、ストレスフルな人が他人から否定的に評価されることを恐れるのとは深刻度が違う。
もっとわかりやすく言えば、孤独なストレスフルな人と、親しい人がいる人とでは、他人から否定的に評価されることの恐怖感は違う。
そのことはだれでも理解できるだろう。
心理的に健康な人とストレスフルな人とが持つ恐怖感には、この違いがある。
否定的に評価されると傷ついてしまう
ストレスフルな人は面と向かって否定的に評価されても傷つくし、陰で否定的に評価されているということを知っても傷つく。
なぜ否定的に評価されることをストレスフルな人は恐れるのか?
なぜ傷つくのか?
それは
第一に、ストレスフルな人は自分で自分を否定的に評価しているから。
また「他人から高く評価されなければいけない」とストレスフルな人は思い込んでいるから。
第二に、ストレスフルな人は他人の評価で自分の価値を感じようとしているから。
他人の評価で自分を守ろうとしている。
第三には、ストレスフルな人は劣等感が強くて人からチヤホヤされることが嬉しいから。
人から褒められることにストレスフルな人は心理的安定を求めているから。
自我肥大症である。
心の核がなくて体面だけになっている。
いつも体裁を取り繕うことで、ストレスフルな人はその場を乗り切ろうとする。
そこで否定的に評価されると心理的にパニックになってしまう。
ストレスフルな人は他人の評価に頼らなくてもいい
低く評価されるといっても、だれからどこで低く評価されるかということである
ストレスフルな人はある会社で低く評価されたからといって、別の職種の会社で低く評価されるとは限らない。
逆に高く評価されたからといって、ストレスフルな人はその人がすべてにわたって優れているということではない。
別の職種に就けば低く評価されるかもしれない。
親しい人がいる人は、他人はいつも自分を批判的に見ているとは思っていない。
事実、人はいろいろな見方をしている。
だからストレスフルな人は低く評価される仲間からは離れたほうがよい。
たいていはその人はその仲間を嫌いである
仲間のほうもそのストレスフルな人が嫌いである。
ある会社のある課で低く評価されたからといって屈辱感を味わうのはおかしい。
まさにそれがストレスフルな人は悲観主義ということであろう。
あるところで低く評価されたという事実の解釈が包括的なのである。
ある人の低い評価をストレスフルな人は拡大解釈する。
お人好しのストレスフルな人はたいてい拡大解釈である。
その課の仕事に不向きだということは、別の課の仕事に不向きということではない。
「泳ぎができない」ということと「歌を歌えない」ということとは別のことである
否定的に解釈されることをストレスフルな人が恐れるのは、自分が拡大解釈をする傾向があるからである。
真に恐れなければならないことは、ストレスフルな自分の解釈の仕方である。
自分の解釈の仕方を悲観主義から楽観主義に変えれば、否定的に評価されることはそれほど恐ろしくはなくなる。
劣等感を持つストレスフルな人は、周囲の人に気に入られることによって自分のアイデンティティを確立しようとする。
しかし、自分のアイデンティティは自己実現に喜びを見いだすことで確立できる
ストレスフルな人は他人が嫌いなくせに、他人の評価に頼って生きている。
相手に低く評価されることを恐れれば恐れるほど、相手に自分の生活を支配されてしまう。
相手にストレスフルな人は自分の重要性を印象づけようとすればするほど、相手に自分の生活を支配されてしまう。
またわけもなくストレスフルな人は他人から高く評価されなければいけないと思い込んでしまう。
他人から高く評価されなくても不都合なことは何もない。
拒否されるくらいならひとりのほうがいい
人から断られることが怖くて、好きな人を食事にも誘えない。
断られるかもしれないからストレスフルな人は誘うのが怖い。
しかし、これは人と親しくなっていく過程で、どうしても起きることである。
小さいころからストレスフルな人は、何もしないことでものごとを解決してきた。
離れていることでストレスフルな人は安全を選んできた。
拒否されるより、ストレスフルな人はひとりでいることを選んできた。
こうしたことはエリクソンの言うように子どもを孤独に追いやる。
ハーバード大学の社会学教授クリストファー・ジェンクスによる、インディアナ高校の調査がある。
それは、高校時代にデートをした高校生とデートを経験しない高校生の十年後の調査である。
デートをしていた高校生のほうが財政的にも、職歴でも、全般的な社会的適応の点でもはるかに勝っていたという
つまり高校時代にデートをしていない28歳の男性は成功していないばかりか、幸福でもなく、適応もしていないという。
デートをしようとすれば断られるかもしれない。
その危険を乗り越える若者と乗り越えないで安全を選ぶ若者との違いである。
人から拒否されることもストレスフルな人は怖いが、会社から拒否されることも怖い。
人が会社のなかで出世したがるのは、会社から拒否されることが怖いからである
エリートコースに乗れば、フロムの言う「孤立と追放」の恐怖はない。
人が権力を持ちたがるのは、世の中から拒否されることが怖いからである。
権力を持てば、「孤立と追放」の恐怖はない。
不安なストレスフルな人ほど権力を求める。
名声を求める
それは不安なストレスフルな人ほど拒否されることを恐れるからである。
「孤立と追放」をストレスフルな人は恐れているからである。
そして拒否されることを恐れて仮面をつけている人は、当然、他人と一緒にいても居心地が悪い。
いつ仮面がストレスフルな人は剥がされるかわからないからである。
拒否されると深く傷つく
もちろん誰でも拒否されれば多少は傷つく。
しかと心理的に健康な人とストレスフルな人とでは、傷の深さが違う。
もともと人とストレスフルな人はうまくコミュニケーションができていない。
心の底はいつもさみしい。
またすべての恐怖について言えることであるが、ストレスフルな人は、不信感という土壌のなかで生きている。
不信感という土壌のなかで拒否されるから、立ち直れないほど傷ついてしまう
もともとストレスフルな人は傷ついているのだから、ある人から拒否されると、それは心の傷に塩を塗るようなものなのである。
何かの機会にストレスフルな人は自分だけ排除されたと知ると、生きていることそのことが不安になってくる。
生きている土台が揺らいでしまう。
たとえば自分が何かの仲間から外される。
すると深刻にストレスフルな人は傷つき、無気力になる。
招いてもらえると思っていたパーティに招いてもらえなかった
自分の知っているほかの人は招かれた。
そうなると、ストレスフルな人はその傷からなかなか立ち直れない。
夜、床についてもストレスフルな人はなかなか寝付けない。
睡眠薬を飲んでもなかなか眠れない。
明日が来るのが怖い。
そこであらかじめストレスフルな人はそのように傷つかないために、防衛的になる。
最初から人とあまり接しないようにする
あるいはストレスフルな人は「私はパーティが嫌いなの」とあらかじめ言っておく。
人と接しなければストレスフルな人は拒否されることもないし、傷つかない。
とにかく小さな世界を築く。
その周囲にストレスフルな人は高い壁をつくり、閉じこもる。
これ以上ストレスフルな人が傷つかないためである。
他人からの拒否がそこまで怖いのは、じつは自分で現実の自分を拒否しているからである。
もし自分に自信があれば、他人から拒否されてもそこまで深刻な打撃を受けない
心理的に健康な人もたしかに社会的恐怖を持っている。
いかに心理的に健康な人といえども、人から拒絶されることはイヤである。
だれでも人から低く評価されることは不愉快である。
しかし、心理的に健康な人にはこの世の中に居場所がある。
それに対してストレスフルな人には、この世の中に居場所がない。
居場所のある人が人から拒否されることを恐れるのと、居場所のない人が人から拒否されることを恐れるのとは違う
心理的に健康な人は、ひとから拒否されても生きていける。
しかしストレスフルな人は、人から拒否されたら生きていけない。
その違いである。
親しい人がいれば、ある人から拒絶されても立ち直れる。
親しい人が生きるエネルギーを与えてくれる。
しかし親しい人がいなければ、どのような人からの拒絶でもきつい
人は触れ合うことでエネルギーが湧く。
しかし人とストレスフルな人はふれあっていない。
だから拒絶はストレスフルな人にとってきついのである。
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ストレスフルな人は拒否されることが幸せへの第一歩
自信がないから、拒否されたことが「かえってよかった」ということもあることに気がつかない
ストレスフルな人はあるパーティに呼ばれなかった。
仲間から外された。
そのことがそのストレスフルな人を救っているということがある。
何度も言うように、人間が幸せに生きるために何が必要かと言えば、望ましい人間関係である。
不幸になるストレスフルな人は皆、人間関係が悪い。
仲間が悪い
ストレスフルな人はパーティに呼ばれなかったということが、その仲間と縁が切れるきっかけになることで、その人を救っているというときがある。
その仲間のなかにいればストレスフルな人は生涯幸せにはなれない。
そんな仲間がストレスフルな人にはたくさんいる。
そういう仲間は表面上は仲良しでも、心の底ではお互いに嫌いあっている。
しかし、その仲間のなかにストレスフルな人がいるときには、お互いに嫌いであるということが意識されない。
仲間から離れて時間が経ってはじめて、「ああ、私はあの人達が嫌いだったんだー」とわかる
そうわかってみると、「なんで、あの人達と一緒にいるときに、『嫌い』と気がつかなかったんだろう」と不思議に思える。
しかしストレスフルな人は一緒にいるときには「嫌い」と意識出来ない。
それはさみしいからである。
とにかく、仲間外れにされたことがストレスフルな人は幸せへの第一歩ということがいくらでもある。
会社だって同じである。
リストラの不安に怯える気持ちは誰にでもある
「もしリストラされたらどうしよう?」と不安になる。
だれでも「食べていけないのではないか」と不安になる。
しかしリストラされるということは、その会社はその人を必要としていないということである。
会社とその人は適合していない。
当面は生活に影響するし、屈辱感もあるし、リストラはその人にとっては大問題である
しかしリストラされなければ、もっと適した職場に行く機会を失するということだってある。
そしてリストラをされて会社を去ってから、ストレスフルな人は「ああ、あの会社に行っているときには、一度だってほんとうに楽しいことはなかった」と気がつくこともある。
嫌いなのに離れられない仲間集団、自分の適性を殺す会社―そうしたところからストレスフルな人は拒否されるということは、神の贈り物である。
もしリストラされてから、残念だという気がすれば、その会社にいたときに懸命に働いていなかったということかもしれない。
そうなればそれはストレスフルな人にとって「もっと真面目に働かなければ」という反省の機会でもある。
離婚をして「ああ、幸せになれた」と思う人と「しまった」と思うストレスフルな人はがいる。
「しまった」と思う人は、結婚しているときに誠実に頑張っていない
ストレスフルな人はうぬぼれて手抜きをしている。
相手を騙していた。
「ああ、幸せになれた」と思う人は、婚姻中に一生懸命頑張った。
それは搾取されていたのである。
騙されていたのである。
離婚してはじめて自分がどのくらいだまされていたかに気がつく
ストレスフルな人は仲間から外されることはさみしい。
しかしそれがストレスフルな人は幸せにいたる過程だということであれば、仲間からの拒否はありがたいことである。
仲間からの拒否に怒るときは、仲間から何かを取ろうとしているときである。
落ち込むときはストレスフルな人は孤独なときである。
恨んで復讐に走るときには、ストレスフルな人は自己蔑視しているときである。
屈辱感が耐えられないのである
生産的に生きていれば、その屈辱感は消えていく。
拒否されることをストレスフルな人が恐れているのは自然なことであるが、拒否されることがすべて悪いわけではない。
何よりも「心の底では嫌いな人たちの集団」から離れることができたときには、感謝こそすれ、嘆くことではない。
当初はストレスフルな人はその人たちと別れてなんとなく頼りない気持ちであるが、日に日に確かなものを自分のなかに感じるようになる。
周囲の人を心の底では嫌いである
周囲の人から拒否されることは望ましいことであっても、不幸な出来事ではない。
拒否されるという体験は屈辱的かもしれないが、それは自分の心の底を正直に見つめることと、自分を認めてくれる場所を探すきっかけにすべきことである。
正直に自分を認め素直になれば、世の中にはその人をもっと認めてくれる場所が必ずあるはずである。
拒否されることはストレスフルな人にとって悪いことではなく、望ましいことである。
今日いいことが、明日いいこととは限らない
今日悪いことが、明日悪いこととは限らない。
自分自身とストレスフルな人は、自分を拒否した人や組織を素直に見つめれば、明日は拓ける。
拒否されることを恐れてストレスフルな人は自分ひとりの世界に閉じこもったり、周囲に迎合したりすることのほうが、よほど恐ろしい。
そうした態度は無意識の領域に影響する。
そしてそのストレスフルな人を不幸に追いやっていく。