【大切】子供の靴ひも

あなたはアレクサンドロス大王という人物を知っていますか?

紀元前4世紀に活躍したマケドニアの国王です。
彼がペルシア領のリュディアに遠征したとき、神殿に戦車が祀ってありました。
戦車はかつての国王、ゴルディオスによって神殿の支柱に難く結びつけてあり、当地には「この結び目を解いた者がアジアの王になる」という伝説があったそうです。

腕に覚えのある多くの者共が「我こそは」と挑み、誰にも解けなかった頑強な結び目が。さて、その結び目を前にしたアレクサンドロス大王はどうしたと思いますか?

アレクサンドロス大王は、結び目が固いと見るや、短剣を取り出して一刀両断に断ち切ってしまったのです。

この時彼は「運命とは、伝説によってもたらされるものでなく、自らの剣によって切り拓くものである」
と語ったといいます。
私は伝説の力など必要としない、自らの剣によって運命を切り拓くのだ、と。
ご存知の通り、その後の彼は中東から西アジアの全域までも支配する大王となりました。
一般に「ゴルディオスの結び目」として知られる、有名な逸話です。

このように、複雑に絡み合った結び目、つまり対人関係における「しがらみ」は、もはや従来的な方法で解きほぐすのではなく、なにかまったく新しい手段でたちきらなければなりません。
わたしは「課題の分離」を説明する時、いつもゴルディオスの結び目を思い出します。

課題の分離は、対人関係の最終目標ではありません。むしろ入口なのです。

たとえば本を読むとき、顔を本に近づけすぎると何も見えなくなりますよね?

それと同じで、良好な対人関係を結ぶには、ある程度の距離が必要です。
距離が近すぎて密着してしまうと、相手と向かい合って話すことさえできなくなります。

とはいえ、距離が遠すぎてもいけません。
親が子供のことをずっと叱ってばかりいては、心が遠く離れてしまいます。
これでは子供は親に相談することさえできなくなるし、親の方も適切な援助ができなくなるでしょう。
差し伸べれば手が届く、けれど相手の領域には踏み込まない。
そんな適度な距離を保つことが大切です。

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親子のような関係であっても距離は重要です。
先ほど課題の分離について、相手の好意を踏みにじるものではないのか?という話が出ました。
それは「見返り」に縛られた発想です。
他者に何かをしてもらったら、それを―たとえ自分が望んでいなくても―返さないといけないと。
これは好意に応えているというより、見返りに縛られているだけです。
相手がどんな働きかけをして来ようとも、自分のやるべきことを決めるのは自分なのです。
対人関係のベースに「見返り」があると、自分はこんなに与えたのだから、あなたもこれだけ返してくれ、という気持ちが湧き上がってきます。
もちろんこれは、課題の分離とはかけ離れた発想です。われわれは見返りを求めてもいけないし、そこに縛られてもいけません。

もっとも、課題の分離をすることなく、他者の課題に介入していったほうが楽な場面もあるでしょう。
たとえば育児の場面で、子どもがなかなか靴の紐を結べないでいる。忙しい母親からすると、結べるまで待つよりも自分が結んだ方が早い。
でも、それは介入であり、子供の課題を取り上げてしまっているのです。
そして介入が繰り返された結果、子どもは何も学ばなくなり、人生のタスクに立ち向かう勇気がくじかれることになります。

アドラーは言います。「困難に直面することを教えられなかった子供たちは、あらゆる困難を避けようとするだろう」と。

アレクサンドロス大王がゴルディオスの結び目を断ち切ったときも、そう思った人はいたでしょう。
結び目は手を使ってほどくからこそ意味があるのであって、剣で断ち切るのは間違っている、アレクサンドロスは神託の意味を取り違えている、と。

アドラー心理学には、常識へのアンチテーゼという側面があります。
原因論を否定し、トラウマを否定し、目的論を採ること。
人の悩みは全て対人関係の悩みだと考えること。
また、承認を求めないことや課題の分離も、すべてが常識へのアンチテーゼでしょう。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには、他者と適切な距離を持って接することです。