傷つきにくい人、傷つきやすい人とは
自己価値感人間は、真、善、美に対して深い感情を体験することができます。
といっても彼らの心がいたずらに動揺し、容易に傷つくことはありません。
心が傷つくということの本質は、自己価値感がおびやかされることです。
自己価値感人間は、揺るぎない自己価値感ゆえに、人の悪意に対して傷つくのではなく、苦笑ですませることができます。
悪意ある人への怒りを、人間的な悲しみで反応します。
また、たとえ何か失敗したとしても、長く落胆や絶望の感情にひたるのではなく、次の成功への材料として生かそうとする姿勢に切り替えることができます。
それに反して、自己無価値感人間は、自己価値感が容易に揺さぶられてしまうために、ちょっとしたことで傷つき、混乱してしまいます。
そしてその感情が持続してしまいます。
考えてみれば、自己無価値感それ自体、深い傷ともいえるものです。
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感情がいたずらに混乱してしまうのは、この自己無価値感覚をもたらした幼児期のトラウマと、現在の傷ついた体験とが容易に結びついてしまうことに一因があるためだと考えられます。
たとえば、上司のちょっと批難めいた言葉で深く傷ついてしまうのは、親から叱責され拒否された体験を、無意識のうちに心の中に再現させてしまうためと推測されます。
ただし、自己無価値感人間のなかには、鈍感さによって自己を守る術を身につけた人がいることを付け加えておかねばなりません。
このような人は、無遠慮に介入する親や、感情のおもむくままに子どもを振り回す親に対して、自らの感覚や感情を鈍磨させ、頑固に自分を押し通すことで対処しなければならなかった体験を持つ人です。
このタイプの人は、細やかな感受性や情操に欠け、思考や行動も柔軟性を失っていることがあります。
容易に傷つくことはなく、自己主張が強いので、一見すると自信家に見えます。
しかし、その心の底に横たわっている根深い自己無価値感情を見逃すことはできません。
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「あるがまま見る人」と「歪めて見る人」
自己価値感人間は、存在自体が受け入れられてきたので、自分の劣っている点や短所をも素直に直視できます。
欠点があるからといっていたずらに卑下したり、卑屈になったりすることはありません。
真、善、美を自分なりの感性で受けとめることができ、自分の頭で考え、自分の意見を持ち、自分の言葉でしゃべることができます。
これに対し、自己無価値感人間は、ものごとを自分の感性で受けとめることが困難です。
自分の言葉で表現することが困難です。
その場で「感じるべき」とされていることを感じ、その場面で「言うべき」とされている言葉を発しているに過ぎないのです。
それは、あるがままの自分が受け入れられず、自分の感覚、欲求、感情が無視されたり、ねじ曲げられたりして育ったからです。
このために、無価値感人間は、自分の感性、思考、判断に自信が持てず、他の人の意見によって揺れ動きます。
あるいは、逆に、揺れ動く状態が不安定で耐えられないので、自分の意見や判断に固執します。
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自分の欠点やいたらなさは、そのまま自分が無価値であるという感覚をもたらします。
そのために、とりわけ自分についての認知を歪めがちです。
また、自分を守るために、意識的、無意識的にいろいろな防衛策を講じます。
たとえば、試験であれば、前もって期待水準を低いところにおくとか、逆に、「できなくて当然」という逃げ道を作るために、達成不可能な高い水準を設定したりします。
行動によって逃げ道を作ることもあります。
まったく勉強しないか、逆に、徹夜で勉強するなど極端な行動をします。
まったく勉強しなければ、「勉強すればできる」という逃げ道が残され、無理な徹夜をすれば、「眠っていないために頭が働かなかったためだ」という言い訳ができます。
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無価値感人間は、歓迎されて育てられたという感覚が稀薄なので、世界は怖く、悪意あるものと感じられます。
このために、他の人の行為を、自分への悪意と受け取りやすい傾向があります。
たとえば、レジでおつりを受け取るとき、ちょっとしたタイミングのくい違いで、手のなかにおつりを放られたような感じになると、相手が自分をバカにしていると感じてしまいます。
試着室で洋服を選んでいるところを店員が見ていると、「買わないくせに、と思っているのだ」と邪推してしまいます。
他人から受ける行為ばかりではありません。
自分の心を混乱させるものは、なんでも悪意あるものと感じられます。
気持ちが落ち込んでいるときに電車が遅れれば、電車が自分に嫌がらせしているように感じられます。
雨でさえ、自分への意地悪と感じてしまいます。
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「したいからする」と「すべきだからする」
自己価値感人間と自己無価値感人間では、行動の動機が根本的に異なります。
同じ行動をするにしても、その心理的意味はまったく異なっているのです。
そもそも人間の行動の根本的動機は、大きく二種類に分けられます。
一つは安全欲求という動機であり、もう一つは内発的欲求充足という動機です。
自己価値感人間は、基本的な安全欲求が満たされているので、自分の内発的欲求の充足のほうが優勢な動機になります。
すなわち、親しく心を通じ合うこと、愛し、愛すること、楽しむこと、興味を深めること、技能を高めること、達成感を味わうこと、自分を成長させることなどです。
これに対し、自己無価値感人間は、安全欲求を満たすことが主要な動機になります。
すなわち、心と行動は、自己価値が脅かされないように自分を守ろうとすることに向けられます。
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一心に仕事に取り組んでいるときの両者の様子を見てみましょう。
自己価値感人間は、そのようにしたらうまくいくか、いろいろと工夫して、自分の能力が高まり、やり遂げる達成感や充実感のなかで仕事をしています。
自己無価値感人間は、失敗して自分に能力のないことがあからさまになることを恐れて一所懸命取り組んでいます。
もしくは、人から認められようとして懸命になっています。
このように行動の動機に違いがあるので、行動にともなう感覚もまた異なります。
自己価値感人間は、自分が「したいからしている」と感じているのに対して、自己無価値感人間は、「しなければならないから」しているのであり、「させられている」という感覚が強いのです。
こうしたことから、自己価値感人間は現在の行動が終われば、次の行動に積極的にチャレンジしようとします。
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自己無価値感人間は、うまく対処できたことに安堵し、行動の終了を歓迎します。