とっさにイラっとしてしまう理由
イライラをコントロールするためには、イライラについてよく知ることが大切です。
ここでは、実際の例を見ながらイライラという感情について理解を深めていきたいと思います。
まずは、イライラの基本がわかりやすい例から見ていきましょう。
例1.リラックスタイムに食べようと冷蔵庫に取っておいたデザートを家族に食べられてイラっとした。
例2.大事にしていた花瓶を割ってしまってイライラした。
例3.新しい靴をはいたら、靴擦れしてイライラした。
例4.クローゼットに洋服が入りきらなくて、イライラした。
例5.楽しみにしていた最後の一口を下げていったファミレスの店員にイラッとした。
例6.忙しくていっぱいいっぱいのところに上司から仕事をふられて、イライラした。
これらの例はいずれも、自分の「予定が狂った」という状況であることがわかるでしょうか。
根っこには「〇〇するはずだったのに」「〇〇になるはずだったのに」という気持ちがあります。
例6の場合も、「いっぱいいっぱいの中でも、何とか自分なりにやりくりしていくはずだった」という状況で、それをぶち壊しにするような形で上司から仕事をふられた、というふうに見ればやはり「予定狂い」です。
イライラするのは予定が狂ったから
なぜ、予定狂いによるパニックを「イライラ」として感じてしまうのでしょうか。
それはやはり「被害」があるからなのです。
この場合の「被害」は、「予定が狂った」という現実そのものです。
突然の被害に遭うと、私たちは反射的に「やられた!」と感じて、その脅威を撃退しようとします。
私たち生物には「闘うか、逃げるか」という反応システムが備わっていて、「やられる!」「やられた!」と感じると、逃げるか、逃げることができなければ闘って撃退するか、ということに心身が集中するようになっています。
突然の「予定狂い」は、まさに逃げることのできない現実ですから、反射的に「撃退モード」に入ってしまうのです。
もちろん、よくよく考えてみればそれは被害でもなかったり、撃退すべき対象でもなかったりするのですが、こうした反射的な反応は、とっさに「脅威」と認識してしまうために起こるものです。
これは反射的な反応ですから、そのイライラの内容はかなり支離滅裂だったり混沌としていたりすることが多いです。
とても裁判の席で理路整然と述べられるようなものではないはずです。
例えば、例5の店員にしても、本当に悪いことをしたのかというと、必ずしもそうとは言えないでしょう。
無断で下げたのは悪いかもしれませんが、ファミリーレストランという環境を考えれば、損害賠償を請求できるような事例ではないでしょう。
「まあ何とかなるだろう」と思えるまでイライラは続く
こうして考えてみると「言いがかり」という現象が理解できます。
例えば、仕事の締め切りを守れそうにない場合に、「君の資料が不完全だからだ」とか「君が早く報告書を出さないから」などと、本来は自分で責任をとらなければならないことなのに人のせいにするのが「言いがかり」ですが、これは、「締め切りを守れない」という結果が、本人にとってそれほど受け入れがたい現実だからだと言えるでしょう。
通常は、反射的な怒りの後にだんだん冷静になってきて、「まあなんとかなるだろう」と思えると怒りもおさまるのですが、「まあなんとかなるだろう」と思えない人はいつまでもイライラし続け、「言いがかり」にしがみつくことになります。
ですから、「言いがかり」というのは、どれほど横柄な態度で行われるとしても、「何とかしてよ」という悲鳴なのです。
「言いがかり」に対して逆ギレしてしまうと事態が悪化するのは、相手にとってますます現実が受け入れがたくなるから、と考えるとわかりやすいものです。
とにかく、自分がとっさの怒りにとらわれたときには、「単に自分の予定が狂ったから困っているのだ」と思ってみましょう。
これは、おもしろいくらいに、あらゆる状況に当てはまるはずです。
そういう視点を持つだけでも、「とっさの怒り」は手放しやすくなります。
イライラするのは心が傷ついたから
例7.自分のミスではないのにクライアントからクレームをつけられイライラした。
例8.すごく悩んで買ったプレゼントをあげたのに文句を言われて頭にきた。
例9.「そうじしたの?」など、今やろうとしていることを言われて、イライラした。
今度は、同じ「予定狂い」でも、単なる偶発的な事故というより、「相手との関係性の中で心が傷ついた」という色彩がつよいものです。
例7の場合、本来はクレームをつけられるわけがないところでつけられた、という意味では明らかな「予定狂い」なのですが、それと同時に、自分はこんなに頑張っているのに認めてもらえない、という「心の傷」も関係しています。
例8は、すごく悩んで買ったのだから喜んでもらえるはずだったのに文句を言われた、という意味ではやはり「予定狂い」ですし、プレゼントを選んだ自分の労力が全く報われていない、という「心の傷」もあります。
例9も、やろうとしていたときに指摘されるというのは完全な「予定狂い」ですし、やろうとしていた自分を信頼してもらっていない、という問題もあります。
「そうじしたの?」というのは、質問の形ではありますが、「あなたはいちいち言われないとできないダメな人ね」という批判的な雰囲気を伴うものです。
ダメ人間のように言われてしまったら、やはり心は傷つくものです。
こうした「心の傷とセットになったイライラ」は単なる「予定狂い」の場合よりも強く長くなる傾向にあります。
心に傷があるとイライラしやすくなる
単なる「予定狂い」であれば、その衝撃に順応していくにつれて落ち着いていきます。
しかし、心の傷を反映したイライラは、心の傷が癒されない限り積み重ねられていき、「自分のことを大切にしてくれない」など関係性そのものを問題と感じるようになり、「くすぶる不満」につながりやすいのです。
これがイライラのもう一つの側面。
イライラには、「予定狂い」のパニックだけではなく、自分の心の傷を反映したものがあるのです。
自分の心を傷つける相手を「加害者」と考えれば、相手に対してイライラを覚えるというのは理にかなったことです。
また、すでに心に傷がある場合、痛みに対して敏感になっていますから、ちょっとしたことでも「脅威」に感じて、イライラを持ちやすくなります。
心が深く傷ついている人は、心身の全体が「再び傷つけられないようにすること」に集中するため、少しでも「脅威」と感じられることは徹底的に排除する、というふうに考えるとわかりやすいと思います。
傷が癒されれば、イライラを手放せる
このタイプのイライラは、過去のことを思い出したときにも感じられます。
自分の心にまだ傷がある場合、今現在誰かが自分を傷つけているわけではなくても、「あのとき、あんなことを言われた!」などと、傷つけられた過去を思い出すことで、イライラを感じるのです。
「自分の傷はまだ癒されていない」という感覚と怒りはセットになっています。
自分の傷が癒されたと感じると、イライラを手放すことができるようになります。
例えば、歳を重ねて、「まあ、あれも青春のひとコマだったんだな」と過去を許す気になるときには、もはや自分が傷ついているという感覚はなくなっているものです。
イライラの根っこにある「我慢」
例10.電車で隣の女性が化粧をしていて、イライラする。
例11.父親がパンツ一枚で歩いていて、イライラしてしまう。
このようなタイプの怒りもあります。
「人間としてあり得ない行動」をとる人にイライラする、というようなケースです。
こういう場合、自分が「被害者」として何かをされたわけではありませんし、心に傷を負ったわけでもありませんから、ここまでの話が当てはまらないように感じるかもしれません。
強いて言えば「見たくないものを見させられているという被害でしょう。
しかし、目をそらしても怒りがおさまるわけでもなく、「そういう人の存在そのものがイライラする」などと感じられることもあります。
こうした「人間としてあり得ない」という怒りに関連しているのは、「自分はちゃんとやっているのに」という気持ちです。
我慢しているから、イライラしてしまう
私たちは社会におけるマナーを守るために、それぞれがすこしずつ我慢をしています。
「自分も電車の中で化粧をすれば、朝あとニ十分余計に寝られたかもしれないし、パンツ一枚で歩きたいときもあるけれども、マナーだから我慢している」ということもあるでしょう。
自分は我慢しているのに相手は我慢していないというとき、それはやはり「被害」ということになります。
電車で化粧をしている人を同じように見ても、ほとんど気にしない人もいるでしょうし、怒りを感じずに、ただ興味深く見つめる人もいると思います。
これはそれぞれがどれだけ我慢しているか、つまり「我慢度」の問題と言えるでしょう。
自分も好きなようにやっているという人の場合、他人の異常な行動に寛容になりやすいのです。
これは「予定狂い」という観点からも考えられます。
「我慢度」が高い人の場合、「電車で化粧するなんてあり得ない」というように、我慢する以外の選択肢はない、と考えていることも多いですから、そうでない人を見たときの「予定狂い度」も高い、ということになります。
特定の状況や人物にイライラする場合
〇同僚や上司、取引先の人やママ友など、頻繁に顔を合わせなければならないけれども、顔を見る度にイライラしてしまう「苦手な人」
〇要領よく立ち回る人など、決して受け入れられない「苦手なタイプ」
〇他のことを言われてもそんなに頭にこないのに、ある一言にはイラッときて、状況を冷静に見ることができなくなってしまう「苦手なフレーズ」。
こんなふうに、特定の「苦手」があるという人も多いと思います。
自分が過去に人からバカにされて傷ついたことがある場合、そのテーマに関することを言われたり、そのテーマに関する行動をとられたりすると、特に感情的になりやすいでしょう。
それは、「心の傷」があって、その部分は特に痛みに敏感になっているからです。
あるいは、「痛いところを突かれてカッとした」ということはありませんか?
自分でも矛盾していると思いながら何とか取り繕っているときに「それっていい訳だよね」と言われる。
自分でも太ったことを気にしているときに「太った?」と言われる。
こうした状況では、カッとして、強く自己正当化したり、相手に反撃したりしがちです。
これらは、「何とか取り繕う」という予定が狂ったと考えればわかりやすいでしょう。
さまざまな「予定狂い」の中でも特に苦手なパターンがある人も多いですが、一般に「心の傷」を守るためにたてていた予定が狂うと、「やられた!」という感覚は強くなるものです。
もちろん、特定の人(状況)に腹が立つ原因は、「心の傷」だけにあるわけではありません。
前述したように「我慢」もその一つ。
自分が特に人間として我慢していることがあれば、それを逆撫でするような人を強く「許せない」と感じるものです。
特定の「苦手」がある人は、それが自分の何を刺激しているのか、よく考えてみると、いろいろな発見があると思います。
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イライラは心の悲鳴
ここでは、「予定狂い」による怒りや、「心の傷」や「我慢」から生み出されるイライラなど、さまざまな種類のイライラを見てきましたが、いずれにも共通しているのは、「怒っている当人が『被害』に遭って、困った状況にある」ということです。
つまり「イライラ」は「困ってしまった自分の心の悲鳴」ととらえることができるのです。
この視点の転換はコントロールを取り戻すために大きく役立ちます。
「イライラして仕方がない」などというときには、「誰が悪いか」を考えていく前に、「自分が困った状況にある」ということを認識してみましょう。
「自分はいったい何に困っているのだろうか」という視点を持てば、自分が本当に求めていることがわかり、ただイライラのエネルギーに振り回されるだけ、という状況から解放されていきます。
まとめ
「予定狂い」「心の傷」「我慢」のイライラとは?
- 予定が狂ったから、イライラするのでは?と疑ってみましょう。
- 心の傷に触れたからイライラするのでは?と疑ってみましょう。
- 自分が我慢しているから、他人にイライラするのでは?と疑ってみましょう。
- 自分は「どんな状況に、どんな人に」イライラしがちなのか、考えてみましょう。
- イライラは自分の「心の悲鳴」と考えてみましょう。