言いにくいことを言わなければならないときでも気遣いはできる
ある意味では、最も気をつかうのが、言いにくいことを言うとき。
相手の非を指摘して改善してもらわなければならないとき、あるいは締め切りやお金のことなど「言いにくいこと」を言わなければならないときは、なかなか嫌な時間ですね。
相手を傷つけたくない、自分が嫌われたくない、と気はつかうものの、気遣いしすぎて肝心なことが伝わらないのも困ります。
気遣いのポイントは「安心」と「つながり」です。
これらをただ文字通り考えてしまうと、「言いにくいこと」を言って人が安心するわけもなければ、人とつながりが強まるわけでもない、つまり気遣いなどできない、ということにもなってしまいかねません。
しかし実際には、気遣いしながら言いにくいことを言うことは可能なのです。
「安心が無理なときは安心を脅かす要素を減らす」「断る際には、相手が不適切感を持たないように、こちら側の事情であることを明確にする」という気遣いがありますが、言いにくいことを伝えるときの気遣いのコツがあります。
なぜ「言いにくい」のか
そもそも、なぜ締め切りやお金のことを「言いにくいこと」と感じるのかを考えてみます。
それは、「言いにくいこと」を聞くのは、相手にとってストレスだということを知っているからです。
相手は嫌な気分になるでしょうし、傷つくかもしれません。
また、そんなことを言った自分は「嫌な人間」だと思われるのではないだろうか、この後関係性が気まずくなるのではないかなど、心配の種は尽きませんね。
つまり、ここでの「言いにくさ」をつくっているのは、「相手にとってどういう体験になるだろうか」という「相手」についての話と、「自分がどう思われるだろうか」という「自分」についての話の両方がある、ということになります。
人によって、どちらの比率が大きいかはさまざまでしょう。
「自分がどう思われるだろうか」ということしかほとんど頭にない、という人も少なくないはずです。
なぜかと言うと、「言いにくいこと」を言わなければならない状態をつくり出しているのは一般に相手のほうです。
相手が不適切なことをするので注意をしなければならない、などという状況では、こちらから見てその相手は「ストレスの種」そのもの。
そんな相手に対して親身になって心配するということは一般に難しいでしょう。
このような状況では、「相手にとってどういう体験になるだろうか」ということよりも「自分がどう思われるだろうか」ということばかりが気になるのも当然です。
しかし、相手にとってのストレス度を低くできれば、こちらとの関係性に与えるダメージもすくなくてすむはずです。
気遣いの悩み:相手が傷つく可能性がある事実を、相手を気遣いながら上手に伝えたい。
一般に、「言いにくいこと(つまり、相手からすれば聞きたくないこと)」を聞かされるのは、ストレスです。
もちろん、「相手にとってストレスだろう」と思うのは相手の領域について自分が予想したことですから、外れることもあります。
実際に、人によっては全く気にしないということもあるでしょう。
しかし、やはり「言いにくいこと」を言われればストレスを感じる人は多いはずです。
こんなときの気遣いのポイントは、「相手にとってストレスだということを認識する」ことと、「そのストレス度をできるだけ下げる」ということになります。
前者は、相手のありのままを認める、というテーマになりますし、後者は、「安心を脅かす要素」を減らす、というテーマになります。
完全な無事は期待しない
それまで聞かされていなかったことを聞かされるのは、一つの「変化」です。
特にその内容が「聞きたくないこと」である場合には、それなりの衝撃を伴う変化となるでしょう。
どんなものであれ、人間が変化に適応するためには、一連のプロセスを乗り越える必要があります。
まずはびっくりしますし、変化に対する抵抗が生まれます。
いろいろな感情が出てきます。
その感情の中には、怒りや不安がよく見られます。
これらの一連のプロセスにそれなりの時間をかけて、人は一つの変化を乗り越えるのです。
ほんの小さな変化であれば、このプロセスは数秒の「違和感」で終るかもしれません。
一方、たとえば「リストラされた」などの大きな変化であれば、そこで出てくる感情も強く複雑なものになりますし、「それなりの時間」も長くなるでしょう。
大切な人を亡くした、というような場合、通常でも数ヵ月間はかかります。
社会的な場面で「言いにくいこと」を言われる、という「変化」は、よほど心の傷として残らない限りは適応に何カ月もかかるようなことは稀でしょうが、どれほど程度が軽くても、「完全な無事」は期待できないのが現実なのです。
自分がどう思われるかを気にしてしまうと・・・
その際、「自分がどう思われるか」を気にしてしまうと、相手の「適応のプロセス」すらゆるしてあげられなくなります。
相手が単に「変化への適応プロセス」の一環として感じているネガティブな気持ちを、「自分が悪く思われている」ととらえてしまうからです。
これはまさに「不安のメガネ」で相手を見ると歪んでしまうという現象そのもの。
そこで「自分がどう思われるか」から「相手」に視点を移すことは、「つながり」を生みます。
たとえば、仕事の仕方について改善してほしいと伝えた場合、相手にとってはもちろんショックで不愉快なことでしょう。
「聞きたくないこと」を聞かされた相手は、ネガティブな気持ちも感じながら「変化への適応プロセス」を歩む必要があります。
そんな相手のありのままを「大変だね。うまく乗り越えられるといいね」という気持ちで見てあげればよいだけです。
「注意上手」な人は、注意だけきっぱりとしてしまって、あとは全く何事もなかったかのように振る舞っていたり、「頑張れよ」などと温かく接していたりすることが多いですが、まさにこういうことですね。
必要なこととして注意はしたけれども、同時に、それを受け入れる側のストレスも認識している、ということになります。
注意における気遣いの仕方
「言いにくいこと」の筆頭が、「注意」でしょう。
相手の行動を変えてもらわなければならないときには、どうしても「言いにくいこと」を言わざるを得ません。
「注意の難しさ」の本質は、実は「行動」と「人格」の混同にあります。
本来、変えてほしいのは相手の行動だけなのですが、多くの注意において、「どうしていつもそうなんだ」「こういうことをされると困るんですよね」など、人格否定的な要素が入ってしまいます。
相手の人格を否定することはもちろん相手を傷つけることですから、「注意は難しい」と感じることになるのです。
しかし実際には、人格を否定せずに、行動だけ変えてもらう「注意の仕方」があります。
「役割期待」という考え方
ここで知っておくと役に立つのが「役割期待」という考え方です。
私たちはあらゆる人に対して何らかの「役割」を期待しています。
役割期待というと少々難しく聞こえますが、知っておくと人間関係がすっきりして気遣いも上手になりますから、ご説明しましょう。
たとえば、駅ですれ違った見知らぬ人には「知らない人」という役割を期待しているけれども、現実の相手がそうでないことをしたからです。
見知らぬ人には、見知らぬ人らしく振舞ってほしいのです。
あるいは、知り合いに会ったのに挨拶をされないと傷つきます。
なぜ傷つくかと言うと、知り合いには知り合いらしく振舞って欲しい、つまり会ったときには挨拶くらいしてほしい、と期待しているからです。
このように、相手に期待している役割と実際に相手が果たした役割がずれていると、私たちはストレスを感じます
また、相手が自分に期待していることが、自分がやりたくないことだったり苦手なことだったりすると、やはりストレスを感じます。
ですから、あらゆる対人ストレスには、「役割期待のずれ」があると考えてよいのです。
そして、ストレスを是正するには、相手に期待する役割を整理し、それが相手にとって現実的なものであるかどうかをよく考えた上で、現実的な期待を相手に伝える、ということをすればよいだけです。
また、相手が自分に期待していることがストレスだと感じられるのであれば、相手は本当に自分にそんなことを期待しているのかを確認した上で、自分にとってより実現可能なものに形を変えてもらえばよいのです。
気遣いの悩み:年齢は上だが社歴は下の相手に、できるだけ不快に感じられないように上手に注意や間違いの指摘をしたい。
「役割期待」という考え方を知っていると、「注意」についても頭の整理ができます。
注意と考えると、どうしても相手の人格を否定するようなニュアンスが入ってきます。
年齢が上の人に対して注意することに抵抗を感じるのはそのためです。
なぜかと言うと、注意とは、基本的に「悪い」という価値判断を前提としたもので、それを是正してほしいという性質のものだからです。
しかし、単なる「役割期待のずれ」と考えれば、相手が果たす役割を別のものに変えてもらう、というだけのことになります。
そこには、価値判断はありません。
単に「自分がやってほしいことと違った」というだけの話で、悪いということではないのです。
ですから、「悪いことを是正してください」という思いではなく、「〇〇という結果がほしいので××にしてください」とだけ言えばよい、ということになります。
この時点で、相手の「行動」と「人格」が完全に区別されている、ということがわかるでしょうか。
「行動」だけ目的に合わせて変えてもらいたいと言っているだけで、その行動を引き起こした本人の「人格」には一切立ち入っていないからです。
このような注意の仕方でも、もちろん相手にとっては何らかの「変化」を要求されることになりますから、不快な気持ちが出てくることは十分にあり得ます。
でもそれは単なる変化に適応するためのプロセス。
変化はストレスとは言え、人生を豊かにもし得るものですから、変化そのものが悪いわけではありません。
ですから、ある人の行動を変えてほしければ、「〇〇のためには××していただいたほうがよいのですが、お願いできますか」とただ頼めばよいだけなのです。
相手が年上であれば、その口調をさらに年長者向けの丁寧なものにすればよいでしょう。
これが、「変化のストレス度をできるだけ下げる」というやり方になります。
何であれ変化を要求されることはストレスなのですが、人格否定とセットにされなければ、ストレス度はぐっと下がります。
これは立派な気遣いです。
注意は相手がなぜそうしているのかを理解してから
ここで改善してほしい行動が、単に相手が何かを「知らない」というだけの話であれば、「〇〇のためには××していただいたほうがよいのですが、お願いできますか」と言うだけで十分でしょう。
知らないことはただ教えてあげればよいだけです。
しかし、知らないわけでもないはずなのに、相手が望ましくない行動をとる、という場合、行動の修正を頼む前に、まず、相手がなぜそういうやり方をしているのかを理解する必要があります。
相手は相手なりに「よかれ」と思ってやっている場合もありますし、「それ以外に選択肢がない」という場合もあります。
かなり難しい状況の中、工夫して何とかやっている、ということもあるでしょう。
これらはいずれも相手の事情であり、相手の領域の話です。
それに対して一方的に「こうしてください」と言われると、「こちらの事情もわからないくせに」という反発を招いてしまうこともあるでしょう。
いくらこちらが人格否定を手放して「〇〇のためには××していただきたい」とだけ言っても、現状に相手の事情が色濃く反映されているのであれば、相手は現状を変えてほしいという要望を「人格否定」ととる可能性もあるのです。
ですから、「〇〇のためには××していただきたい」というこちらの「役割期待」を伝えた上で、「でも現在△△をされているということには、何か事情があってのことだと思うのですが、それをうかがってもよいですか」と聞いてみればよいでしょう。
相手がその時点で「確かに××に変えるべきだ」と思っていれば「大した事情ではないので××にします」ということになるでしょうし、その「事情」が、本当に配慮を必要とするものであれば、よく聴いた上で「役割期待」をさらに調整すればよいでしょう。
つまり、注意をする際にも、相手という存在を尊重することがとても大切だということです。
自分がどういうつもりでそれをしたのか、ということを理解してもらった上で「そういうことならこういうやり方のほうがいいよ」と言ってもらうと、その注意は「自分を否定するもの」ではなく「自分がよりよくできるようになるためのもの」としてすっと受け入れられるでしょう。
疲れる気遣いは相手を傷つける
注意をする際に、「相手を傷つけないように」「自分が悪く思われないように」という「不安」をエネルギーにしてしまうと、かえって逆効果になることもあります。
「あなたがやってきたことを否定するつもりはないのですが」「大変申し訳ないのですが」などと言いながら注意すると、どうしても注意が大袈裟になってしまいます。
すると相手も「私はそんなに不適切なことをしてしまったのか」というダメージを受けることになります。
これは、不安のエネルギーが相手にも不安を与えている例だと言えます。
「年上の方にこんなことをお願いするのは申し訳ないのですが」などという言い方は、かえって相手を傷つけることもあります。
「年上なのにこんなこともできていない」と指摘されたような気になる場合があるからです。
それよりも、「〇〇さんだから頼りにしています!」とお願いすれば、相手が年上であることも肯定的にとらえた上での姿勢になります。
たまたまこの職場における職業上の立場は自分のほうが上だけれども、自分よりも長く生きている相手を尊重すれば、ある仕事を頼みつつ、その人格を信頼する、という形で整理するのが最もわかりやすいでしょう。
言いにくいことを伝えるときのコツ
気遣いの悩み:業務上みんなから資料を提出してもらわなければ自分の仕事が進められない。でも忙しそうな姿を見ると、なかなか切り出せない。
言いにくいことを伝える際に最も難しいのが、その「切り出し方」でしょう。
何しろそこから空気ががらりと変わる可能性があるのですから、ハードルは高いですね。
言いにくいを言う際の切り出し方として、「大変申し上げにくいのですが」という言い方は一般によく使われるものの、その効果はきちんと検証されていないと思います。
実は「大変申し上げにくいのですが」という言い方は、案外相手を傷つけるものです。
その大袈裟な言い方は、「自分はそんなに不適切なことをしてしまったのか」という罪悪感をすり込むことにもなります。
また、「今まで言えずに耐えてきたのか」、つまり、「自分のことをずっとそんな目で見ていたのか」という不信感も与えます。
丁寧な言い方なのかもしれませんが、決してよい気遣いとは言えないと思うのです。
申し上げにくいというのは、よく考えてみれば「自分がどう思われるか」の話です。
温かい気遣いの基本は、自分がどう思われるかではなく相手について考えること。
突然嫌なことを言われる相手の立場に立ってみれば、「ちょっと面倒な話かもしれませんが」「負担をかけてしまうと申し訳ないのですが」「急にこんなことを言われてぎょっとされるかもしれませんが」という言い方のほうが、罪悪感を刺激しないですみますし、「嬉しくない話題」を一緒に扱っている人間同士のつながりも感じられるはずです。
予告することで「安全を脅かす要素」を減らす、という考え方にも通じるものです。
「あなたが不適切」なのではなく「私のためのお願い」
切り出し方だけでなく、全体の伝え方も、ちょっとした工夫で相手の「ストレス度」をぐっと下げることができます。
それは、「私のためにお願いします」という枠組みで話すこと。
「あなたは不適切ですから直してください」と言われると、誰でも不愉快になるでしょう。
そして抵抗を感じたり、自己正当化したり、相手に反撃したくなったりするものです。
しかし、「私を助けてもらえますか」という言い方であれば、私たちは基本的に親切な存在なので、相手を助けたくなるのです。
これは「領域」という観点から考えてもわかりやすいでしょう。
「あなたは不適切です」と言うと、相手の領域のことを決めつけている、ということになります。
相手の現状には相手なりの事情があるからです。
一方、「私を助けてもらえますか」と言うときには、自分の領域の話だけをしているわけですから、相手の抵抗を招くこともなく、
最も親切な部分が引き出されてくるのです。
「締め切りを守ってくれないと困ります」というだけの言い方だと「不適切感」が強いですが、「締め切りまでにいただけないと、上司に怒られてきついんです。
何とか助けていただけませんか?と言われれば、そこは一肌脱いであげようかと思うでしょう。
この場合、相手に思った通りの行動をとってもらえるだけでなく、相手を「一肌脱いでやった」とよい気持ちにすらさせているのですから、まさに元気になる気遣いですね。
気遣いの悩み:よい関係ができてきた頃に、お金の話をするのが辛い。相手との関係が悪くならないような話し方を知りたい。
相手の行動を変えてほしい、という状況以外にも、言いにくいことはありますね。
その典型例が「お金」だと思います。
和やかに話し合っている中で、にわかに料金の話を切り出すのは、確かに言いにくいことです。
なぜお金のことは言いにくいのか、と考えてみると、関係性が急に即物的な感じになるところが気まずく感じられる場合が多いでしょう。
つまり、それまでは「人間同士の信頼関係」の中で打ち合わせをしていたのに、突然「それで料金は」という話になると、「なんだ、お金のためにやっていたのか」と思われかねない、という心配があるからです。
実際、お金の話が出た時点でその場の雰囲気が変わる、ということはよくあることです。
しかし現実に費用がかかるものであれば、それは仕方のないことですし、そこに過剰な意味づけをする必要はありません。
そもそも、「お金のことは言いにくい」と思っている時点で、相手を「その程度の人間」と見くびっているとも言えます。
つまり、「ものごとには対価としてのお金がかかる」という現実を受け入れることもできない人間であるかのように扱ってしまっている、ということなのです。
しかし、相手も一人前の社会人なのであれば、「ものごとには対価としてのお金がかかる」という常識くらいわきまえている、と信頼してよいはずです。
もちろん、話題がお金に変わるという時点で、それは一つの「変化」ですから、何らかの違和感はあるでしょう。
一般に「お金の話が出た時点でその場の雰囲気が変わる」と感じられるのは、そういう違和感なのだと思います。
しかし、だから相手がそれを受け入れられないということではないのです。
かなりの事情を抱えた人であれば、「何だ、お金のためにやっていたのか」と実際に言うこともあるかもしれませんが、そのありのままを受け入れていけば、つまり、言い返したりしないで「大丈夫」という雰囲気で話を聴いていけば、ある程度気が済んだ時点で受け入れてくれることも多いものです。
「お金の話題は受け入れにくいはず」という「決めつけ」が相手を傷つけることも
お金の話を切り出す際にも、「大変申し上げにくいのですが」という言い方は、相手を傷つけることがあります。
「ものごとには対価としてのお金がかかることくらいわかっているのに、そんな常識もないと思っているのか」「お金を払うことがそれほど辛く見えるのか。
そこまで同情されているのか」「それほどお金にケチだと思われているのか。
そんなに卑しく見えるのか」などと憤りすら感じる人もいるのです。
また、言葉としては「それで料金なのですが」と中立的であっても、声のトーンを落として、申し訳なさそうに言う人も多いものです。
これも気遣いとして行われているのでしょうが、やはり「大変申し上げにくいのですが」と言うのと同じ効果を生んでしまいます。
このような言い方の何が相手を不愉快にさせているのかと言うと、やはり「お金の話題は相手にとって受け入れにくいはず」という決めつけなのだと思います。
実際の相手はお金について全く違うふうに考えているかもしれないのに、勝手に決めつけてしまい、それに基づいた物言いをしているからです。
実際に、お金についての感じ方は、その人の人生を反映するくらい、複雑で多様です。
よほど相手が「お金の話は苦手」という標識を立てているのでなければ、「それで、料金なのですが」と淡々と話した方が、余計な「決めつけ」もなく、傷つけずにすむことが多いでしょう。
こちらの役割は、相手の価値観を決めつけることではなく、料金に見合うだけのしっかりした仕事をすること、という原点も見失わないようにするとよいでしょう。
「決して安くはないですよね。でも、お金をいただく分、頑張ります!」という明るい気持ちでいることも元気になる気遣いにつながります。
言いにくいことを言える相手かどうかも考える
言いにくいことの受け入れについてはかなり個人差があります。
一般に、衝撃に弱い人、傷つきやすい人は、「言いにくいこと」を言われると敏感に反応します。
往々にして「自分が否定された」と思ってしまうのです。
このあたりは相手の領域の話になります。
心に傷を負っている人は傷つきやすいですし、発達障害などをもっている人の中には何であれ「自分が責められた」と受け止めやすい人もいます。
相手の領域に傷つきやすいので要注意という標識が立っているようであれば、それはよくわきまえた上で行動したほうがよいでしょう。
場合によっては相手側の非であっても自分側の非であるかのように扱ったほうが効率的ということもあります。
言いにくいことを言ったほうがよい相手と、言わないほうがよい相手がいる、というのも現実なのです。
気遣いの悩み:部長と課長から相反する指示が出てしまった。
このような場合、もちろん両者の言う事を単純に聞くことは不可能ですね。
部長と課長のうち、「あなたの指示がもう一方の指示と違っていて困っているのですが」という相談に乗ってくれやすいのはどちらでしょうか。
つまり、言いにくいことを聴いてくれそうな人はどちらか、ということを考えてみましょう。
一般には、「寛大」と言われるほうの人でしょう。
自分が同じ部署の他人と違う指示を出したことについて、「大した問題ではない」と思える人です。
また、職場ではそのようなことは「よくあること」だと知っている人です。
一方それだけのことでも「自分が否定された!」ととらえるようなタイプの人もいます。
基本的に自信がないので、少しでも自分の言動を脅かすようなことを言われると、徹底的に排除しようとするのです。
「自分が他人と違う指示を出した」という事態に、よりうまく対応できるのはどちらかと言えば、もちろん、それを「大した問題ではない」「よくあること」と考えてくれる人のほうでしょう。
部長と課長のどちらがそういうタイプなのか、考えてみましょう。
相手の事情によって、期待できることと期待できないことがあります。
自信がなくて、自分と他人の違いに穏やかに向き合うことが難しい人には、こういう難しい状況の処理を期待するのは無理でしょう。
どちらがより適役かを判断した上で、「私を助けてください」という形で相談してみましょう。
「あなたの指示は前に指示されたことと違う」という言い方をしてしまうと、相手の不適切さを指摘することになってしまいます。
そうではなく、「実は部長から〇〇という指示を前にいただいていて、ちょっと困ってしまっているのですが、どうしたらよいでしょう?」という言い方をすれば、親身になってもらえると思います。
まとめ
- 言いにくいことを伝える際は、ストレス度を下げる工夫をする
- 「大変申し上げにくいのですが」という言い方は、案外相手を傷つける
- お金のことは言いにくいと思うのは、相手を決めつけているから
注意するのではなく、相手に期待する役割を伝えよう
聞きたくないことを聞かされた相手の「変化への適応プロセス」を尊重する