親しき仲にも礼儀あり
人を「いじる」のがうまい人がいる。
たとえば、テレビでの明石家さんまや恵俊彰などの司会者は、その典型だろう。
彼らは、コメンテーターとして出演しているタレントをときに笑いのネタにしても、その価値を下げることはない。
みんなが気づかないでいる、そのタレントの面白さを引き出したりするから、見ているほうも楽しいし、タレントからも好かれる。
彼らのように人のいじり方がうまい人は、いきなりズケズケと相手の懐に入っていくようでいて、越えてはならない一線をわかっている。
礼儀の距離感をわきまえているのだ。
単なるお笑いタレントではない。
人間としても立派だ。
「親しき仲にも礼儀あり」と昔からいわれてきたが、いまの若い人たちは、ここが弱いようだ。
フランスの哲学者モンテーニュは、「夫婦の仲というものは、あまり始終一緒にいると、かえって冷却する」
と述べている。
この言葉には、国籍や性別を問わず、多くの人が賛成するはずだ。
なぜ冷却するかといえば、長くいればお互いに油断してだらしなくなり、相手がそこにいることすら意識しなくなるからではないか。
いつも自分中心で、そんな自分が相手にどう映っているかという配慮がなくなる。
ずうずうしく振る舞うようになった相手に幻滅するのは当然のことだ。
愛し合った男と女でさえそうなのだ。
友人関係や、まして仕事で知り合った人間に対しては、守らなければならない節度がある。
二十代の女友達が数人集まってホームパーティを開き、気楽に鍋でもしようということになった。
みんなで楽しく鍋をつついていると、そのうち一人が、自分の取り碗に残っていた汁をいきなり鍋にもどしたというのだ。
残りのメンバーがギョッとしたのはいうまでもない。
思わず「アッ」と声を上げた人もいたかもしれない。
みんなの箸も止まったに違いない。
理由を問うと「碗の中の汁がさめたから」と返ってきた。
「いつも、家ではそうしているの?」と聞くと、悪びれることなく「そう」と答えたそうだ。
百歩譲って、自分の家ではそれが許されていたとしても、仲間の友人に対してやっていいはずがない。
まして会社の飲み会だったら、どうするのか。
汁が冷めてしまったのがイヤなら、流しに捨てに行けばいいだけの話だ。
これなどはマナー以前の問題だろう。
大人になった人間の礼儀作法ではない。
いったい彼女は、どんな家庭で育ってきたのかと思ってしまう。
礼儀やマナーというのは微妙な問題で、不作法はなかなか他人から指摘してもらえない。
だからこそ、自分で身につけていくしかないのだが、それができない人が多いようだ。
一度、自分の行動が人にどう思われているかを、離れたところから客観的に見てみることが必要なのだろう。
それをしないでいると、どんどんおかしなことになっていく。
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ほどよい遠慮が自分を助ける
「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」は『平家物語』の一文である。
ナポレオンは、「最も大きな危険は勝利の瞬間にある」といった。
このように、洋の東西を問わず、昔から謙虚であることの重要性が説かれてきた。
だから、謙虚はいいことなのだろう。
ある一部上場企業には、「社員として身につけるべき十五訓」というのがある。
その中の一訓が「謙虚であれ」だ。
しかし、よく考えると不思議な気もする。
そもそも謙虚とは、その人の中に「ある」ものなのか、それとも「なる」ものなのか。
「謙虚であれ」と説いているのは、「いまは謙虚でないあなたでも、謙虚に振る舞うようにしなさい」ということだろう。
だが、もともと謙虚ではない人が、本当に謙虚になれるのか。
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謙虚なフリをするだけではないのか。
謙虚で「ある」ことがその人の性格の場合は、たしかに本当に謙虚でいられるだろう。
だが、そうではない人が意識的に謙虚でいようとすると、どこかで無理が出る。
たとえば、慇懃無礼な人だ。
一流を気取っているホテルやレストラン、航空会社などのサービス業では、慇懃無礼な従業員をときどき見かける。
彼らは、お客に対して謙虚に接しているようでいて、どこか見下した失礼な態度をとる。
たとえば、ジャケット着用が基本のレストランでセーターなどを着ていったとき、ボーイがお客に、「お客様、それは・・・」と指摘したりする。
空港で、探せばすぐわかるような場所を受付で尋ねたとき、案内嬢に「そんなことまで」といいたげな微妙な間があく。
使っている言葉こそ丁寧だが、上から目線の距離にいるのだ。
そうした態度について、なかには「カチン」とくるお客もいる。
だが、当の本人は「自分は謙虚に接している」と思っている。
人は、謙虚に振る舞おうと意識すると、かえって鼻持ちならないイヤな人間になる可能性がある。
だから、謙虚よりも、むしろ「遠慮」を心がけたほうがいいのではないか。
遠慮は一歩身を引くことであり、行動に見えるからわかりやすい。
「ここは、ちょっと遠慮しておこう」と一歩引くことで、人間関係が円滑になることはよくある。
遠慮を使いこなせるようになると、人との距離が上手にとれる。
二十代後半のサラリーマンが、上司である課長から夕食をご馳走になった。
その席には上司の同期である隣の課の課長もいた。
会計がすみ、課長同士で「もう一軒行こう」と話している。
「お前も行くか?」と誘われたが、遠慮した。
「いえ、ずっかりご馳走になりました。僕は帰ります。今日はとても楽しかったです。ありがとうございました」
これが、ほどよい距離感というものだろう。
上司にいわれたからと、またホイホイつきあったのでは、「あいつは、ちょっとずうずうしい」と思われかねないのだ。
ある三十代のOLは、通っている料理教室の講師が主催する「特別無料懇親会」に参加したかったが、遠慮した。
すでに参加希望者が定員を超えているのを知っていたからだ。
自分にも「参加したい」という権利はあるが、講師を困らせても仕方がない。
すると、後日、講師が声をかけてくれた。
「先日は気を使ってくれてありがとう。次回は優先的に声をかけるから、ぜひ、参加してくださいね」
このように、遠慮した分がどこかで返ってくることも少なくない。
逆に、遠慮しすぎはよくない。
何もかも引いていては、自分の存在理由を見失う。
存在理由を見失ってしまったら、どんな人との関係もつくりようがない。
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どうしてもやりたいこと、どうしてもいいたいことまで遠慮していてはいけない。
「譲れないこと」をしっかり押さえた上で、遠慮というテクニックをうまくつかいこなしてみてはいかがでしょう。