「相手のため」にしたことは実は「自分のため」

「やってあげたのに」と思う心理

自分が幸せな人は、優しく与える。
ケーキの上のクリームをなめる。

あげたほうはあげたと思っている「頭で考える人」。
もらったほうは全部もらったとは思っていない。

自分が満足して、あげたいと思ってあげる人は上のクリームを食べない。
「あげたい」という気持ちが大切。
あげる動機で考える。

あげたくないという動機を重視するのか、あげたという事実を重視するのか。

頭で考える人は幸せになれない。
心で考える人は幸せになれる。

表面的なものに視点がとまる。
ポイントを考える。
心は相手を見る。
好きなら好きの感情が働く。
嫌いなら嫌いの感情が働く。

感情がでることは生きている証。

「頭で考える人」が、恩着せがましく5万円を貸してあげた。

貸してもらったほうの感情を考えていない。
それが視野の狭さ。
報われない努力をする人である。

相手を見返すための努力

動機で成功と失敗は決まる。

努力の動機を間違えると何事もうまくいかない。

成功して自惚れる人は劣等感から努力している。
だから嫌われる。

たとえば、まずでしゃばりになる。
自分の立場を間違える。
係長なのに課長の役割を果たそうとする。

そういう人は努力するけれども嫌われるだけである。
努力するけれども社内に味方ができない。
努力するけれども人望がない。

本人は「オレがこんなに努力しているのに・・・」と不満になるが、周囲の人は「あいつは勝手なことばかりして」と思っている。

本人は「どうしてみんなは分かってくれないのだ」と不満になるが、周囲の人は「どうしてあいつは自分のしていることが分からないのだ」と苦々しく思っている。

自分が努力しているけど人生において毎日が積み重ねられていない人は、自分が頑張っている動機を反省することである。

たとえば、あいつを見返してやりたいとか、自分が成功して周囲を見下したいとか、そういう動機で頑張っているのではないか。

人生において毎日が積み重ねられていないとは、たとえば親しい人ができないとか、自分の能力の向上がないとか、会社の中でポストが上がっていかないとか、楽しい思い出が増えていかないとか、お金が貯まっていかないとか、懐かしい写真が増えていないとか、いうことである。

それは心の財産でもいいし、俗世の財産でもいいが、一つ一つ何かが積み重ねられているということである。
心の財産で幸せになる人もいるし、俗世の財産で幸せになる人もいる。

何事によらず長期にわたって着実に業績を上げている人は、努力の動機に問題がない人である

人のタイプによって積み重ねられるものは違う。
心を打ち明けられる友達が増えるタイプと、権力の階段を上るタイプとは違う。

それぞれのタイプによって積み重ねられるものは違う。
何を幸せに感じるかは人によって違う。
だから積み重ねられるものは違ってよい。

思い出の写真がアルバムに増えることで幸せになる人と、貯金通帳に残高が増えることで幸せになる人がいるだろう。

豪邸よりも一枚の古い写真がその人を幸せにするときもあるし、権力がその人を幸せにするときもある。

大切なのは自分が幸せを感じることである。
その人の心が満足することである。

要するに努力しながらも不満でしょうがない人は、努力の動機を反省するしかない。

自分の立場を間違えていないか、自分の評価を間違えていないか、周囲の人は自分をそんなに能力があると思っていないのではないか、自分一人で自分が大物と思っていないか、自分は皆の信頼を得ていると一人で思い込んではいないか、自分が勝手に相手に信頼されていると思っているのではないか、相手は自分をそんなに親しいと思っていないのではないか。
そんなことを考えてみることである。

立場を間違えるとは課長が部長のような顔をすることである。

プライベートな立場でも同じである。
恋人のうちから奥さんのような顔をすれば男から嫌われる。
男が女と一度デートしただけで「あれはオレの女だ」という顔をすれば、その人に逃げられる。

要するに努力が実らない人は関係を間違えているのである。
関係を間違えている人の努力は何も生み出さない。

人はその人のしたことにも反応するが、それをしたその人の動機にも反応する。
しかし人は自分のしたことに気を奪われているから、「ここまでしてあげているのに」と不満になるのである。
なぜここまでしたかという自分の動機を反省はしていない。

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他人の期待に応えようとする動機

良かれと思って相手が望んでいないことをしていないか

努力の動機を間違えている人は、立場を間違えることの他に、たとえば相手の望んでいないことをしているということがある。
相手からの関心を引こうとしていると相手が見えなくなる。
すると相手が望んでいないことをしてしまうことがある。

相手に対する思いやりから相手に何かをするときには、することを間違えない。
しかしたとえば、感謝を求めて何かをするときにはすることを間違える。

それは「お母さんはいろいろのものを買ってくれたが、欲しいものは一つも買ってくれなかった」という子どもの言葉に表われている。
自己無価値感の人は相手から感謝を求めていろいろなことをするが、残念ながら努力は実らない。

愛情飢餓感の強い人はすぐに派閥を作る。
そして人間関係で公正をかく。
その結果人のために努力しながら、人望がない。
最後はたいてい嫌われている。

愛情飢餓感の強い先生や上司などがこの間違いを犯す。

動機がゆがんでいるから目的を間違えるのである。
その人にふさわしい目的を持っていない人は動機に問題がある。
見返してやりたいという気持ちがあれば、人生の目的を間違える。
劣等感が動機になれば目的を間違える。

頑張って努力している人でも、自分の利益のために頑張っている人と、人の幸せを願って頑張っている人がいる。
頑張りの動機が違う。
そして挫折するのは自分の利益のために頑張っている人である。

自分が出世したくて頑張っている人と、人を助けるために頑張っている人とでは頑張りの動機が違う。

人の幸せを願って頑張っている人に対しては「やり遂げた努力」をほめてあげる。

しかし自分の利益のために頑張っている人をほめてあげる必要はない。

その人はやり遂げたことを自分が満足していればよい。

神経症者は努力している他人と、努力していない自分を同じに考えている。
だから「隣の芝生は緑」になる。
うつ病者は努力している。
でも自己執着の努力である。
友達のための努力でも、家族のための努力でもない。
「こんなに頑張っている」。
でも皆から反発される。
攻撃のための努力だから。

家族の幸せのために頑張っている人と、自分が有名になるために頑張っている人とでは、頑張りの動機が違う。
それなのに人はそれを一緒にして「あの人は頑張っている」と言う。

そして人は動機を反省しないで「オレは頑張った」と言う。

しかし自分が業績を上げるために頑張ったときに「オレは頑張った」と自慢することはないだろう。
誰に頼まれたのでもないし、誰の幸せのためでもない。
自分の利益のために頑張っただけである。

頑張っただけの利益を享受することはいいが、自慢することではない。
怠けた人間はその利益を享受しないだけである。

怠けた人間が利益を享受しようとするのもおかしいし、頑張った人が頑張ったと偉そうにするのもおかしい。

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認められるために頑張っていないか

他人の成功に嫉妬するのは、心の中に劣等感がある人

目的も同じ。
その目的を持つ動機。

どうしてその目的を持ったかということである。
成功して人を見返すために持った目的もあるし、人を蔑むための、復讐のための目的もある。

自分のしていることが面白くて自然と出てきた目標というのもある。
走るのが好きで走っているうちに、ある大会に出場したいと思い出す。
次には入賞したいと思い出す、そして優勝が目的になる。
さらに次のもっと大きな大会が目的になってくる。

好きなことをしていて自然に出てきた目的は順序がある。
いきなりオリンピックに出たいと目標を持つ人はたいてい自己実現の結果としての目的ではない。

そしてまたそれをしているときには生き甲斐がある。
目的がどこで止まろうともそれをしている間はそれをしていることが生きがいになっている。

その人がどういう目的を持つかということがその人の心を表わしている。

職業的成功でも同じことである。
ノーベル賞をもらうような教授になろうとして、そうなれない自分に劣等感を持つとすれば、その人は自分のしている学問が好きな教授ではないだろう。

そもそもそういう劣等感の強い教授は、なぜ教授になろうとしたかという動機に問題があったのである。
自分のしている学問が好きな教授はそれほど業績が上がらなくても劣等感に苦しむことはない。

だから他人の業績をけなすこともない。
心は満足して地道に努力している。
だから仲間もいる。

こうなりたいという自分と現実の自分のギャップに苦しむタイプ、つまり劣等感に苦しんでいるタイプが一番問題である。

そうした劣等感が強くてすぐに人の業績をけなすような教授は実は学問していることが辛いのである。
だから次々と業績をあげる仲間が面白くない。
そこで仲間の業績をけなすのである。
足を引っ張る人は自分が満足していない人である。

そして業績をあげている人を叩くために徒党を組む。
このタイプは職場で最も害になるタイプである。

これはもちろん大学ばかりでなく会社でも同じである。
自分が役員になれないことに劣等感を持っている部長がいるとする。
部長は有名大学を卒業している。
しかし中途採用できた高卒の人が役員になってしまった。
するとこの部長は凄まじい勢いでこの役員をけなす。

そのくせ親の七光りで役員になった二世役員には迎合したりする。
もちろん迎合するけど好きではない。

幼児的性格の人は、そのまま大人になれば、どんなに努力しても報われない努力になる。
人が自分の期待通り動いてくれないと腹が立つ。
腹が立って行動してしまうと感情は消える。
社会的には問題である。
しかしそのままだと憎しみが出る。
心理的には問題である。

情熱が分かっていない。
拳を振り上げることが情熱と思っている。
だから「笛ふけど踊らず」なのである。
先生が楽しければ生徒は踊る。

家族の犠牲の上に自分だけ外でいい顔をする。
一事が万事で知らない間に生徒や部下を犠牲にしている。

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自己評価が低いせいで物事をマイナスに捉えてしまう

人生の選択を間違えてしまう心理

努力の動機が復讐だと、次に選択の手順を間違える。
誰とつきあうかの選択を間違える。

どのスポーツをするのかを間違える。

どの商品を売るのかの選択を間違える。
健康を考えていない人に健康の物を売るのは難しい。
健康を気にしている人に、健康の物を売るのは比較的容易である。

自分の選択は間違っていないのかな?
選択はその背後にある世界観を正当化するから。

何をするかの選択。
準備体操なしに急に走ったら身体に悪い。

これに対して、過程を重視する態度は、「自分にはできるだろうか」ではなく、「どうしたらできるか」に関心がいく。

すると、ある物事を行うときに、それを行う手順を考えることに注意が向く。
この過程を重視する考え方は、失敗などというものはなく、すべてそれは成功へのステップと受け取るようになる。
過程を重視する人は、環境が変わっても、容易に適応することができる。

神経症は親しいことがいいことだというと、誰とでも親しくなることがいいことと思う。

誰と親しくなるかということを選択しない。
歳をとったら親しい人がいることが幸福に貢献するというと、誰とでも親しくなる。

だから「べき」の暴君に支配されるということになる。
「べき」はべきで望ましいことなのである。

どの人と親しくなるかというように選択がないということは、親しくなるということを大雑把に考えているから。

報われない努力を改めるためには、自分の心の底にある隠れたる真の動機を見つけだすことである。

幸せになるためには、隠れたる真の動機を見つけだすことである。

成功するためには、隠れたる真の動機を見つけだすことである。

現実から逃げるために依存症になる

そして現実を認めることを拒否すれば、その辛さから逃れるために惨め依存症ばかりではなく、アルコール依存症になるかもしれないし、悪口依存症になるかもしれないし、依存症中毒になるかもしれないし、ギャンブル依存症になるかもしれないし、セックス依存症になあるかもしれないし、仕事依存症になるかもしれない。
「酒は百薬の長」とも言われるし、「悪魔の水」とも言われる。
どちらにもなる。
それはなぜ酒を飲むかという動機によってどちらにもなるということであろう。

現実逃避のために酒を飲めば「悪魔の水」となり、楽しみのために酒を飲めば、「百薬の長」となるのだろう。
辛い現実を忘れるために酒をを飲めば、さめたときにはもっと辛いのだから、アルコール依存症になってもおかしくない。

仕事や勉強等、社会的に望ましいこととされていることも同じである。
動機によっては「百薬の長」にもなるし、「悪魔の水」にもなる。
人生に生きがいをもたらすし、逆に人をノイローゼにもする。

仕事に興味があって仕事をしていれば、仕事依存症にはならない。
仕事で疲れたら休める。
しかし対決しなければならない人に、逆に認めてもらおうとして仕事をしていれば疲れても休めないだろう。
対決しなければならない人に従順になり、実際の自分を裏切って働いていれば、ストレスで消耗しても、もっと仕事をしようとする。

仕事依存症もアルコール依存症等と同じように何かの現実から逃げているのである。
誰かと対決しなければならないのに、その対決を逃れているから、仕事をしても仕事をしても満足できないのである。

「どうしてもやめられない」というときには、自分は何から逃げているのだろうと反省する必要がある。
楽しいからパチンコをする人はギャンブル依存症にはならない。
現実を忘れるためにパチンコをする人がギャンブル依存症になるのである。

私達は心の病を考えるときには何をするかも大切だが、それ以上になぜそれをするかの動機のほうが大切である。

自分が「医者になりたい」と思ったときに、なぜなりたいかを考えることである。
「認められたいから」というならやめたほうがいい。
「認められたい」からした努力は身につかない。
報われない努力になる。

受験勉強が身につかないのは、受験勉強の内容にも原因があるだろうが、それ以外にも「認められたくて」している努力だから身につかないのである。

これは現実を認めることを拒否して燃え尽き症候群型の人間になり挫折するタイプである。

宗教依存症等は「きずな喪失症候群」型の人間の挫折であろう。
意識されている動機と意識されていない動機がある。

まずは、あなたを縛っている「心の呪縛」を解け

手足を縛られて泳ごうと努力している人と、手足が自由で泳ごうとしている人と、どちらが泳げるだろうか。

手足を縛られて泳ごうとしている人の努力は辛い。
そしてその努力はあまり効果があがらない。
心に手錠をかけられている人は、自分は心に手錠をかけられていると気がつかない。
報われない努力である。

アメリカのマーデンという作家は、これでもかこれでもかと不遇な環境から身を起こして意味のある人生をつくり上げた人を書いている。
マーデンがあげている人物を自分と同じ心の状態の人と思ってしまったら大間違いである。
そして頑張れば自分も同じにできると思って、努力すれば悲劇となる。
自分の身体にムチ打って辛いだけで、最後は燃え尽き症候群である。

見習うべきは、朝の四時に起きて夜中まで働くことではなく、彼らの心の状態である。

まず自分の手足を縛っているヒモを解くことである。
手足を縛っているヒモを解けば自然と努力しているかもしれない。
青筋をたてて絶叫しなくても、気がついたらあなたは努力の人になっているかもしれない。

しかも報われる努力をしている。