人付き合いが怖い心理

人付き合いが怖くなった人は、まず自分はありのままの自分ではなく、自分でない自分になることを強制されて生きてきたということを、理解することである。

その結果、自分の中にはすさまじい憎しみが生まれ、その憎しみは血肉化している。

人付き合いが怖い人は、受け身と無力感と、悲観的見通しと、自己蔑視を「敵意」という金庫に入れて、しっかりともっている。

そしてその敵意や憎しみは直接的に表現されず、過剰な規範意識などに変装して現われてくる。

自分の中に憎しみの感情が生じた過程を理解し、なぜそれを直接表現して処理できなかったかという原因を理解することである。

ここまでを理解するためには、フロイト以来の精神分析論が助けになる。

とにかく自分がネコなのかリスなのかもわからないでは、人付き合いの怖さに打ち勝とうにも、その「すべ」がわからない。

何よりもまず自分が何者で、なぜ人付き合いが怖くなったのかを理解しなければならない。

「私たちは困難に打ち勝つこともできるのです。

自分がどのような人間であるかに気付き、自分の天性に見合う生き方を選ぶよう心に決めさえすれば」。

間違った生き方に固執していながら、人付き合いの怖さが解消すると思うほうがおかしい。

共同体的存在である人間としての心を失ったのが、人付き合いの怖さである。

アドラーは若い頃社会主義の勉強をしていたが、ドイツの社会主義学者カール・マルクスの言葉を使えば、人付き合いの怖さは「類的存在」からの疎外である。

アドラーにいわせれば、「人類共同体」からの疎外である。

人は苦しみを通して人類共同体に帰属意識をもてるようになる。

エーリッヒ・フロムも、人が心理的に正常であるためには人とのつながりが必要だと述べているが、同じ意味である。

ウェインバーグも、積極的な見方をするためには「他人の人生を考えよう」と次のようにいっている。

「他の人のあがき、目標、強さ、弱さとはどんなものでしょうか?

彼らの特別なあがきは何でしょうか?

彼らはどんな困難に打ち勝とうとしているのでしょうか?

あなたは彼らの苦闘がわかったことを示してきましたか?

このことは、今後起こるであろう深刻な歪みから、あなたを救うことができます」。

ウェインバーグも、人生の過去のトラウマは乗り越えられるという立場で治療を行ないながら、実績をあげている。

そもそも人付き合いの怖さばかりではなく、依存症の治療も同じように人とのつながりを回復することが大切であろう。

ギャンブル依存症でも人への思いやりがあれば、回復へのきっかけになる。

もっと広くいえば神経症も同じである。

自己執着が弱まれば、つまり人への思いやりが出てくれば、治り出すであろう。

アドラーは、よくクライアントに「私たちは誰でも、あなたのいうような困難はもっている、いやもっとすごい色々な困難をもっている。

でも私たちは、それにそんなに深刻な意味を付与していない」といったという。

アドラーのいうことを「患者の苦しみを理解していない」と捉えるのではなく、「クライアントの注意を自分の外に向けようとした」と捉えるのが正しいだろう。

人付き合いが怖くなった人は「私は苦しい、苦しい」という。

そのときに「他の人も苦しいんだ」とか「みんな我慢して生きているんだ」という他者への関心はない。

あくまでも「私が苦しい」のである。

人付き合いが怖い人は「大変だ、大変だ」という。

そのときに「他の人も、同じように大変なんだ」という他者への関心はない。

もちろんこれは、人付き合いが怖い人にだけに限ったことではない。

悩んでいる人は、本当に恐ろしいくらい他者への関心がない。

アドラーがいうことは、この他者への関心が出てきたときに人付き合いの怖さは解消し出すということである。

「私はこんな酷い環境で育った、親から無視された」と嘆くだけではなく、「他の人だって、親に十分愛されないけど、頑張っているんだ」と他者への関心が出てくることで、人付き合いの怖さは治り出す。

人付き合いが怖くなった人の模範的生き方そのものが問題なのではなく、なぜそのように模範的生き方をしていたかという動機が問題なのである。

依存心などの、その人の弱さが仮面をかぶって登場したのが、模範的生き方ではないか。

人付き合いが怖い人には、基本的には近い人との矛盾した関係がある。

近い人に対して依存心をもちながら、反発をする。

自分が敵意を持っている人に、自分がしがみついている。

いきなり「孤立」と「追放」を恐れないで生きるということは無理だとしても、自分を正しく分析することが必要である。

アドラーは、社会的問題を起こす子どもは「他者に対する関心」がほとんどないという。

カレン・ホルナイのいう「他者に対する積極的な感情」が、アドラーのいう社会的関心であろう。