ありのままの自分で生きると自信が湧いてくる

自信がないと、いろんなものを足そう、足そうとします。

自信がないと、それを打ち消すように、いろんな努力をします。

あるいは、お金だったり、地位だったり、服装だったり、資格だったりで自分の身を守ろうとします。

でもやっぱり自信がないから、さらにつけようとする。

そんなときは、いったんやめる。捨てる。手放す。断る。

つまり「引く」。

「素のままの自分、何もない自分には価値がある」と気づくためには、一度、「断る」「やめる」「手放す」「なくす」などを通して、「素の自分」「何もない自分」になる必要があるのかもしれません。

自信がないので、足そうとしてしまう

できるビジネスマンに多いのですが、「ちゃんと働いて稼げること」というのが、自分の自信になってきたタイプの人がいます。

「お金」という価値観で自信をつけてきた人です。

こういう人たちにとって、一番見えやすくて、わかりやすい他人から認められた証拠が「お金」なのです。

「お金」を他人から認められた「モノサシ」にしているのです。

がんばって、結果を出して、自分の価値を「わかってほしい」。

その「価値をわかってもらう」ための手段が「お金」だったんです。

「ありのままの自分を素晴らしい」と信じられないから、「お金を稼ぐこと」によって他人から認められることで、自分を素晴らしいと思おうとしたんです。

こういう人は、売上を達成し、稼いでいるときは、自信たっぷりです。

でも、売上が足りなくなると、とたんに自信をなくします。

「俺なんてダメだ」と自分を責め始めます。

それでも、認められたくて、また売上を上げようと必死になってがんばります。

稼いでも稼いでも「まだだ」と思ってしまう、自信がついたように見えても、いつもどこか不安です。

これは、人によっては、「お金」ではなく「成績」の人もいるかもしれません。

評価が目に見えやすい「数字」に目が行くのです。

あるいは、「学歴」や「肩書」「資格」をモノサシにして、自信をつけようとする人もいるでしょう。

人は”自分で”「自分は素晴らしい」「自分には価値がある」と信じられないとき、”他人から”それをもらおうとするのです。

”他人から”肯定されたり、認められたり、「素晴らしい」「価値がある」と言われたりすることで、自信をつけようとするのです。

結果、「売上を増やす」「実績を積む」「資格をとる」「肩書をつける」などの「足す」行動に出てしまう。

そのために、がんばる、努力する。

それでへとへとになって、疲れてしまっている人も多いのです。

加算法の人生からおりる

我々は今まで親や先生、まわりの大人から「足し算」ばかりを教えられてきたように思います。

「期待に応えなきゃ」と、がむしゃらにがんばる。

「ちゃんとやらなきゃ」と、一生懸命努力する。

「結果を出さなきゃ」と、身をすりへらして働く。

そんなふうに、他人からの評価を気にして、「がんばる」「努力する」「働いて結果を出す」と足し算の人生を歩んできたように思うのです。

そして、その裏には「~しなきゃ好かれない」「~しなきゃ認められない」という「否定の前提」があったりするのです。

それでつらいのなら、苦しくなっているのなら、この「否定の前提」を一つずつ、一つずつ引いていく。

「~しなきゃ好かれない」「~しなきゃ認められない」と思っていることを、一つひとつやめていくんです。

「引き算」をするのです。

足し算ばかりを教えられてきた僕たちが、突然引き算をするのは、やっぱり怖いものです。

それでも、勇気を出してやってみる。

我々は、自信を取り戻すために、ある意味、赤ちゃんのころに戻る必要があるのかもしれないですね。

何もできない、誰かの助けを借りなければ生きていけない、迷惑をかけるしかない、生まれたまんまの裸の自分になる。

そして、そんな自分にOKを出す。

それでいい「ことにする」。

そんな自分を信じる。信じてみる。

信じていいことにする。

少しずつ、手放す、捨てる、やめる

どうしようもない自分でも、ダメな自分でも、最底辺の自分でも素晴らしい、大丈夫と思える。「なんかしらんけど大丈夫」と思える。

この「理由のない自信」は、理由がないんだからなくなりません。

そして、これが「折れない自信」だと気づく。

「折れない自信」をつくるためには、「理由のない自信」を取り戻すためには、自分にこびりついてしまった「理由のある自信」を、「張りぼての自信」を、はずしていく必要があるのかもしれませんね。

少しずつでいいから、「やめる」「手放す」「断る」「離す」「捨てる」「絶つ」。

つまり「引く」んです。

「素のままの自分、何もない自分には価値がある」ことに気づくためには、一度、「なくす」「引く」などを通して、「素のままの自分」「何もない自分」になる必要があるのかもしれません。

少しずつでいいから、引いてみませんか。

頼まれた仕事をキャンセルする

「仕事を断れない」という人がいます。

仕事を断れないままに、がむしゃらにがんばる人がいます。

言われたことや頼まれた仕事を全部引き受けるのも、心意気の一つかもしれません。

しかし、「仕事を断れない」ことで、疲弊してしまったり、自分が嫌になったり、生活に支障が出てしまっているのなら、やりたくないことは「やりません」と断ることが大事なのではないかと、僕は思うのです。

そういう「仕事を断れない」という人の心理の裏に何があるのかというと、「断ったら、もう仕事がこないかもしれない」「断ったら、嫌われるかもしれない」「断ったら、使えない人と思われるかもしれない」という「恐れ」だったりします。

つまりは、「断っても、また自分には仕事がくる」「断っても、嫌われない」「断っても自分の価値には傷つかない」とは思えない。

「断っても、自分は大丈夫」と思えないわけです。

だから、断れない。

では、どうしたらいいのか。

あえて「断る」という行動をとるのです。

「断っても、大丈夫」と「思えない」から「断れない」のです。

「断っても、大丈夫」と「思える」なら「断れる」のです。

だから、「断っても自分は大丈夫」と「思える」ために、まず先に「断る」という行動をとってみるのです。

「思えない」人が「思える」ようになるために、まずは、「思える」人と同じ行動をとってみる。

これって、逆説的ですが、大事なことです。

「断っても、大丈夫」と思える人と同じ行動を通して、だんだんと自分は「断っても、大丈夫」「断っても自分の価値は落ちない」と感じていけるのです。

この「断る」という行動は、ある意味、ちょっとした傲慢な言動かもしれないし、上から目線のように見えることがあるかもしれません。

だから、「断っても、大丈夫」と思えない人が「断る」とき、とてつもなく「不安」「嫌だ」「怖い」と思うことでしょう。

でも、この「断る」勇気をもたないかぎり、ずっとやりたくない仕事をがむしゃらに、安い仕事をカリカリカリと、頼まれただけの仕事をへとへとになるまでやらないといけなくなるのです。

やがて、いっぱいいっぱいになって、苦しくなって、不平不満を言い出すことにもなりかねない。

だから、そうならないためには、まず、断る

言われた仕事を、「私、やりません」「やりたくありません」って断る。

「断っても、自分は大丈夫」と自分を信じるために、やってみてほしいことです。

「別の悩み」で「本当の悩み」を埋もれさせない

ある女性は「私って『片付けられない女』で、それが悩みなんです」と悩んでいた。

でも、彼女に「部屋を片付けるテクニック」などは無用でした。

彼女が片付けられないのは、能力の問題ではなく、ただ忙しいからであった。

では、なぜ忙しいのでしょうか。

それは、「仕事が断われないから」なんです。

もっと踏み込んで言うと、自分のことを「仕事を断ったら、仕事がこなくなる人間」と思っているからなんです。

前項で記した「仕事を断れない人」の典型的な例なんですね。

だから、片づけられるようになるためには、仕事を断ることである。

「断る」ことができれば、忙しくなくなるのですから、部屋の掃除ももちろんできるんです。

つまり、彼女の本当の悩みは「片付けるのが下手」ではなくて、「片付ける時間がない」のでもなくて、「片付けられないことで自分の生活に影響が出ているのに、仕事を断れないこと」だったんです。

もっと言えば、「『自分は断ったら仕事がこなくなる人間』という前提で生きてしまったこと」なんです。

この片付けられない女性の悩みのように、ときに、本人が話す悩みとは違うところに、本当の悩み、問題の種があることがあります。

だから、本人が話す悩みはあくまでもダミー。

実際は、別のところに本当の悩みがあったりするのです。

これは、頭のいい人、できる人に多いのですが、本当の悩みがあったりするのです。

これは、頭のいい人、できる人に多いのですが、本当の悩みに気付きたくなくて、別の悩みを巧みに用意してしまうのです。

「悩みに気づく」ということは、「ダメな自分に気づくこと」でもあります。

それが怖いので、わざと「別の悩み」をもってきて、自分で自分の痛み、「ダメな自分に気づくという痛み」をごまかしてしまうのです。

そして、その悩みが「本当の悩み」か、「ダミー」か、どうやってわかるかというと、「やめてみたらどうですか?」と提案したときに、相談者が「やめるなんて、ありえない」と答えたほう、です。

それが本当の悩みです。

「片付ける」よりも「仕事を断る」ことのほうが「怖い」。

「片付けられない」よりも、「仕事を断れない」ほうが本当の悩みなのです。

自分はバカであると開き直る

世の中には「知らない」というのが「恥ずかしい」ことだと思っている人がいます。

「知らないなんて言ったら恥ずかしい」「知らないなんて言ったら、バカにされる」って。

「バカな自分」だとばれないように、付け焼き刃の知識をつけようとします。

「バカな自分」だと思われないよう、賢いふりをして、知ったかぶりをします。

でも、自分より賢い人はたくさんいますから、付け焼き刃な知識なんぞでは、到底たちうちできません。

すぐに「バカな自分」がばれます。

そのたびにぽきっ、ぽきっと自信が折れていったわけです。

ある日、「もう、いいや!」と思って白旗を上げて、今までと反対のことをしてみたのです。

つまり、それまでは「バカな自分を隠そう」としていたわけですが、「バカな自分を隠そうとしない」と決めたんです。

知らないことは知ったかぶりをせず、「知らない」と言おうと決めたんです。

「自分はバカ」だ。

でも「バカな自分でもできることがある」と思ったんです。

「自分はバカだけど、バカなりにできることをやっていこう」、そう思える。

そうしたら、何が起こるか。

まわりの人が自分の得意なことを喜んで教えてくれるようになりました。

「バカだなぁ」と笑いながら、助けてくれるようになりました。

それを聞きながら、少しずつ自分のなかに知識を重ねていったのです。

つまり、「バカな自分を隠さない」という、これまでとは正反対の行動をとることが大事だったんですね。

「バカな自分でいい」と開き直ることが大事だったんです。

「バカ」の代わりに、「貧乏」「ブス」「おじさん」「デブ」「不器用」でもなんでも同じです。

自分がコンプレックスだと思っている単語を入れてみてくださいね。

うまくいかないときの自分を肯定する

ある女性は婚活がうまくいかなくて自信を失い、落ち込んでいました。

しかし、その女性は美人だし、頭もいいし、気もきく素敵な女性です。

「もっと美人だったら結婚できたのに」と、エステに通っています。

「もっと若ければ結婚できたのに」と、年齢を聞かれるとごまかします。

「もっと会話がうまければ結婚できたのに」と、せっせと話し方教室に通っています。

自分磨きてんこもり、でがんばっています。

でも、合コンに行ってもうまくいかない。

恋人ができても振られる。

やっぱり結婚できなくて、彼女は「悲しい」「悔しい」「情けない」と落ち込みます。

でもね、これは、当たり前のことなんです。

なぜなら、彼女は、「美人ではない」「若くない」「会話が下手」なことが結婚できない原因だと思っている。

これらは原因なんかじゃないんです。

原因は、彼女が「否定の前提」で生きてしまっていることなんです。

「もっと美人だったら結婚できたのに」は、今の自分を否定しています。

「美人ではない自分は愛されない」と、「否定の前提」で生きてしまっています。

だから、彼女に必要なのは、エステに行くことではなく、「美人ではない」自分を自分で愛してあげることなんです。

もっというと、「美人でもない」「若くもない」「会話もうまくない」自分を愛してあげることなんです。

「ありのままの自分」を愛してあげることが大事なんです。

そして、「ありのままの自分を愛する」チャンス、ベストタイミングは、実は、「うまくいかなかったとき」です。

うまくいかなかったときに、「悲しい」「悔しい」「情けない」と訴えているその気持ちを、まずはじっくり感じることが重要です。

「今回も結婚できなかった」と悲しく思う気持ちを、「欲しいものが手に入らなかった」と悔しく思う気持ちを、とにかく感じきる。

なぜなら、うまくいかなくて、「悲しい」「悔しい」「情けない」と自信を失っているときは、理由のある自信、折れる自信が、自分の身からポロポロ落ちている状態でもあるからです。

「美人になろう」「若いと思われよう」「会話上手になろう」って、どんどん足してしまった折れる自信、張りぼての自信が、はがれ落ちているのです。

そのときに、「美人ではない自分」「若くもない自分」「会話もうまくない自分」を、弱いまま、ダメなまま、自分をありのまま見つめる

素のままの自分を認めるのです。

それができたときに、わかるのだと思います。

「弱い自分でもいい」「ダメな自分でもいい」

美人にならなくてもいい。年齢をごまかさなくてもいい。話が下手でもいいのです。

そんな自分を愛おしい、素晴らしいと信じるのです。

逃げるために頑張ることをやめる

職場や家庭、学校など、いたるところで、がんばっている姿を数多く見かけます。

毎晩のように残業、残業、休みも返上してがんばっている人。

なるべく上司の指示に沿おうと、部下の訴えにも耳を傾けようとがんばっている人。

チームの売上目標を達成しようと、チームのために必死にがんばっている人。

「お客さまのために」とがんばっている人。

仕事に家庭に趣味にと、日々の生活を充実させようと頑張っている人。

でも、これらの「がんばる」という行為、意外に曲者だったりします。

これらの「がんばる」って、「何かから逃れるため」「何かを認めたくないため」にやっていることが多いからです。

がんばって残業しているのは、「仕事ができない人と思われたくない」から。

上司にも部下にも頼りにされようとがんばっているのは、「本当は頼りない自分を認めたくない」から。

迷惑かけないようにがんばっているのは、「迷惑をかけてダメな人間と言われるのが怖い」から。

こういうように、「本当はダメな自分」を認めたくなくて、他人から「ダメな自分」だと見破られるのが怖くて、そんな自分から逃げたくて「がんばって」いる。

もちろん、それをエネルギーにして、がんばるのもいいでしょう。

でも、このエネルギーは求めるところに際限がなく、どこまでいっても安心できなくて、「もっと、もっと」と、苦しくなります。

この「がんばり」だけでは、いつまでたっても「折れない自信」は育ちません。

だから、「がんばる」のに疲れたら、「がんばっても、がんばっても、不安、自信がつかない」と感じたら、「がんばるのをやめよう」と言いたいのです。

頑張りすぎてるサインに気づく

一生懸命がんばっても、思うようにいかないことってありますよね。

そんなとき、「せっかく大切なお得意先をまかせてもらえたんだから、頑張らなくちゃ」

「上司の期待に応えるために、いい成果を出すために、なんとかしなくちゃ」

というように、少しでも挽回しようと、この「がんばらなくちゃ」に拍車がかかりがちです。

そして、自分では「まだ大丈夫、がんばれる」と思っていても、いつしか心が重荷に耐えられなくなり、ブレーカーがバチッと落ちるように落ち込んでしまう人がいます。

しかし、そんなときでも、「心のブレーカー」が落ちてしまった人は、「再びがんばること」を考えがちです。

でも、ここで、ちょっと考えてみてほしいのです。

たとえば、あなたがもし何気なく部屋にいるときに、突然ブレーカーが落ちてしまったら、どうするでしょうか。

ブレーカーを上げると同時に、使いすぎていた電化製品を減らす必要がありますよね。

そもそもブレーカーが落ちたのは、「電化製品をたくさん使いすぎたから」なのです。

心のブレーカーが落ちたときも同じです。

心のブレーカーは、そもそも正常に作動していたんです。

しかし、使いすぎたから、がんばりすぎてしまったから、落ちてしまったのです。

ということは、「がんばりすぎているよ!」と、心がサインを送っているのです。

そんなときは、「がんばる」のではなくて、「あ、がんばりすぎちゃったんだな」と、がんばることを「やめて」ほしいのです。

心のブレーカーが落ちてしまったときは、「がんばりをやめる」チャンスでもあるのです。

常識を変化させる勇気を持つ

本物の自信、折れない自信をつくるためには、「やめる」「断る」「止める」「手放す」必要があるというお話をしてきました。

でも、頭では、理屈ではわかっていても、「できない」「怖い」「不安」と思う人もいます。

人は、「自分が信じていたことを覆す出来事」や「自分が当たり前と思っていたことを覆す意見」に初めて出会ったときは、まずは「驚き」や「拒絶」という形で現れることがほとんどです。

「会社員は、上司に言われたことを一生懸命がんばるべき」と信じていたのに、新入社員から「上司に言われても、やりたくないことはやらない」と言われてぎょっとする。

あるいは、「職場では協調性が大事」と思っていたのに、外国人のトップになったら「協調性はいらない。成果が大事」という方針になって、驚くとともに、抵抗感をもつ。

このように、常識の違う人が目の前に現れたとき、常識が変わったとき、人は驚いたり、拒絶したりするのです。

だから、「今まで自分が常識だと思っていたこと」と違う行動を提案された場合、それらを拒絶するのは、ある意味、当然の行動だったりもするのです。

「新しいものを信じる」のは、「今まで信じてきたものを捨てる」ことでもありますから、勇気がいるのです。

でも、「変わりたい」なら、「不安で自信がない自分を卒業したい」なら、勇気を出して、古い常識は捨てて、新しい常識を受け容れてみてほしいのです。

結局のところ、今までの考え方を捨てる「勇気」、自分が変わるという「決断」、リスクをとる「覚悟」、ダメな自分を信じるという「チャレンジ」がなければ、何も変わりません。

でも、あなたが、「勇気」を出して、「決断」して、損してもいい「覚悟」で、「チャレンジ」すれば、人生なんて劇的に変わります。

「常識を変える」ということは、「正しさを変える」ということ。

今までダメだと思っていたものを受け容れ、今まで正しいと信じていたものを疑うこと。

「間違っていること」「嫌いなこと」「ありえないこと」「怖いこと」に飛び込んでみること。

そう”タブー”に挑戦することなのです。

そのことでしか、新しい自分、本当の自分に出会えない。

そんなふうに思うのです。

のるか、そるか。

決めるのはあなたなのです。

「ちゃんと」に縛られず楽しむこと

以前、「コンプライアンス」という企業の法令遵守が叫ばれたときがありました。

仕事の1から10まで「法」「倫理」に縛られ、それによって手順や制限が増えて、お客様に役立つような活動まで制限されてしまった。

嫌われることを恐れて、他人と付き合えなくなった人のような。

損することを恐れて、投資のできなくなった投資家のような。

保護者が怖くて、子どもに注意できなくなった教師のような。

「ちゃんと生きる」「まじめに生きる」「しっかりする」「迷惑をかけない」「法律を守る」、確かにどれも大切なことだし、それをないがしろにするつもりもありません。

しかし、「そもそも」を忘れたら、「本来の目的」を忘れたら、意味がないとも思うのです。

「うまく生きる方法」「後悔しない方法」「失敗しない方法」ばかり追いかけて、「あれをしてはいけない」「これをしなければいけない」でがんじがらめになった人生。

それでいいのでしょうか。

「ちゃんと」よりも大切なこと、それが「楽しむこと」や「うれしいと感じること」なのではないでしょうか。

失敗しない人生、無難な人生、だけど、生きている喜び、楽しみのない人生でいいのでしょうか。

ちなみに都々逸にこんな歌があるそうです。

「酒もたばこも女もやらず 百まで生きたバカがいる」

まとめ

〇「折れない自信」を取り戻すためには、「やめる」「断る」「捨てる」「手放す」など、「引く」ことが大事。

〇「断っても大丈夫」と思うためには、まず先に「断る」という行動をとってみる。

〇うまくいかないときこそ、「ありのままの自分に価値がある」と信じるチャンスだと考える。

〇不安で自信がない自分を卒業したいと思ったら、勇気を出して古い常識を捨て、新しい価値観を受け容れてみる。