「憎まれっ子、世にはばかる」と言います。
人のことを気にしている人よりも、むしろ傍若無人にふるまっている人のほうが元気で、生き生きしています。
学校では「良い子」や「誰とも仲良くすること」が価値があるとされます。
良い子でないとなにかひどい目に遭うというような不安がつくりあげられます。
しかし、「良い子」や誰とでも仲良くすることは、幼い時期と学校だけで必要なものなのです。
思春期以降には、「良い子」や「誰とでも仲良く」することではなく、「自分であること」が要求されるのです。
子どもとして親に適応するための良い子をくずして、自分自身をつくりあげなければならないのです。
ひとかどの優れた業績をあげる人とは人格も優れた人、すなわち良い子である、という誤解を持ちがちです。
しかし、優れた業績は必ずしも人格の優れた人、すなわち良い子があげるものではありません。
現代芸術のある分野で日本を代表するX氏は、そのルーズさのために同僚にどれほど迷惑をかけたかしれません。
その名を言えば多くの人が知っていると思われるある学者は、ゼミの最中に居眠りしてしまうなどという良い子とはほど遠いエピソードを持っています。
その人となりを知っていたら、人と作品とは別物であると考えなければとても作品を鑑賞できない、と思わせるような良い子とは程遠い画家もいます。
学校と違い、社会ではある力さえあればよいのです。
会社はあなたの良い子としての人間関係を買ったのではありません。
あなたの仕事の能力を買ったのです。
多くの人から嫌われながら、その能力の高さと、それにすばらしい奥さんと子どもに愛されていることで、生き生きと仕事をしている良い子とは程遠い人がいます。
ある不動産屋の人も、こうしたタイプの良い子とは程遠い人でした。
良い子とは程遠い彼は車で走っていると、相手の車のちょっとしたミスを非難します。
良い子とは程遠い彼は店に入ってもぶっきらぼうです。
しかし、徹底的に客を大事にし、物件の細部まで調べ尽くすなど、プロ意識と商売の腕はしっかりしています。
そんな彼は家族のために、夏休みを毎年十日間ほどとっていました。
しっかりした業績をあげているので、誰も文句を言えません。
この世で楽しく生きていくのに、みんなから好かれる良い子にならなければいけないということはないのです。
あるがままの自分を受け入れてくれる人だけを相手にすればよいのです。
あるがままではなく、いつも周囲に合わせていく良い子になるとしたら、周囲の人はさまざまなのですから、自分がいくつあっても足りません。
良い子になってどのように相手に合わせようとも、嫌われる不安から免れることは絶対にできません。