境界とは、自分が他の人とは別の独立した存在であることを保証するものです。
私たちの育った家庭では、多くの場合、境界のゆがみや混乱が起こっていたり、はっきりした境界が存在しませんでした。
それは見捨てられ体験を引き起こすもとになります。
境界の混乱は、たとえば次のような形で現れます。
親が子どもを仲間として扱う
親が子どもと、まるで友人や仲間であるかのような関係をつくることがよくあります。
子どもを自分の同盟相手とみなすということは、親子の境界が存在しないということです。
そして子どもの年齢にふさわしくないことまで知らせてしまうのです。
不適切な情報を与えられた子どもは重荷に感じ、罪悪感さえ味わうこともあります。
これはフェアではありません。
十歳の娘にあなたのお父さんは浮気したのよと話すことは、子どもの安全を損ないます。
母親はそのことをだれかに話す必要があるかもしれませんが、その相手はおとなとしての能力があって適切なサポートや助言ができる人であるべきです。
八歳の息子に職場でのポストを失う不安について話すことは、親は弱すぎて子どもの自分を守れないと思わせるだけです。
親が子どもに責任を負わせようとする
親が自分の感情や考えや行動に責任を持たず、子どもにその責任を負わせようとすることがあります。
これは親子の境界がねじれた状態です。
たとえば、結婚がダメになったのは子どもが悪い子だったせいだと言ったり、子どものせいでストレスが溜まるから酒やドラッグが必要なんだと言うのは、子どもの責任ではないことを子どもに負わせ、不可能なことをやらせようとすることです。
実際こうした親は、子どもが実際に持っている以上の力を持っているかのように言い聞かせ、子どもを無謀な努力と、力不足に打ちのめされる体験へと駆り立てるのです。
親のニーズが子どもより優先となる
親が自分のニーズを満たすために子どもを利用するとき、子どもの境界への侵入が起こっています。
アダルトチルドレンのヘンリはこう話します。
「私は子どものとき、学校の成績はよかったし、運動もできました。
みんなのリーダーで、地元の新聞にしょっちゅう写真も載っていた。
父は私の出る行事にやってきては、私のことを大げさにほめそやしたものですよ。
うぬぼれた態度で、自分があの息子の父親なんだとみんなに知ってもらおうとしていた。
でも家にいる時は、父はまったく私に関心を示さなかったんです。
野球の試合から戻ると、父はもうベッドに入っていました。
一度も、おまえを誇りに思うとは言ってくれなかった。
たったの一度だって、おめでとうとも言わなかったし、背中をたたいて励ましてくれたこともなかった」
問題は、ヘンリが父親の自尊心を満たすための道具に過ぎず、利用価値のあるときだけしか存在を認めてもらえなかったということです。
親が子どもに自分と同じでいるよう求める
親が子どもを、自分とは別の独立した存在として見ることができないというのは、つまり子どもの境界を認めないということになります。
親と同じものを好み、同じような服装をし、同じように感じろというわけです。
これは特に十代の子どもにとってはつらいことです。
その年代には、自分自身を見つけるための手段として、親とは別の行動をとろうとするものですから。
けれどこれを思春期にはよくあることだと理解できずに、親の生き方や価値観への面と向かっての侮辱や挑戦と受けとる親がいるのです。
そんな時、子どもがどんな形であれ親と違った考え方や行動をとると、あえて親に拒絶される危険をおかすことになるのです。
親が子どもを自分の延長とみなす
親が子どもに対して、自分が果たせなかった夢を叶えてほしいと望むことは、子ども自身の境界を認めず、子どもを自分の人生の延長とみなすことです。
かつて行きたかったけれど行かれなかったからという理由で親が決めた学校に通った人は、どれぐらいいるでしょう?
親が選んだ職業についた人は、どれぐらいいるでしょう?
親の望む相手と、親が望む時期に結婚した人はどれぐらいいるでしょう?
決して、親の期待や要望や要求にそった行動が間違っていると言っているわけではありません。
ただ、それがまったく私たち自身の選択ではないことがいかに多いかを指摘しているのです。
結果はともかく、間違っているのは決め方なのです。
一方、親の望みとは逆のことをする人もたくさんいます。
たとえば母親が憧れている大学にだけは行かなかったり、単に大学に行かないことを選ぶ人もいます。
親が絶対好きになりそうにない相手と結婚する人もいます。
その場合もやはり、結果ではなく決め方が問題です。
自分の自由な選択ではなく、親に対する怒りによって決めているかもしれないからです。
●あなたが子ども時代に体験した、境界の混乱を書き出してみましょう。