”不公平が憎しみを生み出す”
ポーランドの哲学タタルケヴィッチは、大災害は大きな苦痛をもたらすが、自分だけが苦しんでいるのではないので、人々はそれほど苦しまない、と述べている。
苦しみが多く、喜びのほとんどない人にとって、満足を与えてくれるわずかなものが重要になるという。
人の不幸にとって、問題は「不公平」だという。
しかし、人生は不公平なのである。
デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」と言った。
全てのことは疑わしいが、今、じぶんがこうして考えていることだけは確かだというのである。
それにならっていえば、すべてのことは疑わしいが、人生が不公平だということだけは確かなのである。
それを本当に受け入れられた時に、あなたは幸せになれる。
人生の不公平を正面から受け入れた時に、自分は今「大きな闘い」をしているということを理解できる。
そして、自分の人生に誇りを持ち、謙虚になれる。
「毎日毎日喜んでかれの運命に従う者は、幸福です。」
逆に人生の不公平を嘆いているうちは、どうしても幸せにはなれない。
人は運命を受け容れるから幸せになれるのである。
何が辛いかといって、不公平ほどつらいことはない。
「なんで俺だけが」と言う気持ちは辛い。
「皆は楽しているのに、なんで俺だけが辛い思いをしなければならないのだ」ということが、心の底に憎しみを堆積させていく。
不公平が憎しみを生み出す。
私自身、自分の人生で本当につらいと思ったのは、不公平を感じた時である。
本当につらかったのはそれだけである。
困難そのものはそれほど辛くはなかった。
病気も貧乏も辛くはあったけれども、不公平に比べれば辛くはない。
よく、「給料が低いことよりも、どんなに高級でも「あいつの方が給料が高いのはおかしい」と言う気持ちになることの方が辛い」という。
ただ、もし愛されて育っていれば、不公平よりも、困難そのものの方が辛いであろう。
愛されて育っていれば自我の確立がある。
あの人と自分とは違うという気持ちが確立している。
しかし、愛されて育っていない人は、自我の確立がない。
どうしても自分と他人を比較してしまう。
そこで、自分が人よりも不公平に重い負担を背負わされれば辛い。
どんなに重い負担でも、皆と同じ荷物を持っていると思うなら、それほど辛くはない。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するには人生の不公平を正面から受け入れることである。