人を大切にすると幸せになる

気の合う友人との交流は喜びであり、人生を豊かにする。

若い時期に人生の師ともいうべき人に出会うことは、成長の大きな助けになる。

積極的にこうした人達との交流を深めよう。

愛情を大事に育てて、幸福な家庭生活を築くようにしよう。

これら心通じ合う関係が自己価値感を高めてくれる。

友人や人生の師が人生を尊くする

友人は少数でもいい

還暦を迎える頃になると、同窓会やら同期会の案内が多くなる。

若いときには出席しなかった人も、出席する方に心が動かされる。

そうした会に出席すると、人生のある時期を共有したことで、今でもお互いがお互いの心に位置づいていることを実感する。

こうしたとき、しみじみ友という存在の幸福感に浸っている自分を自覚する。

友人とは、自己価値感を強化し合う存在である。

とりわけ、若い時期の友人は、大人になる勇気を鼓舞し、大人として生活する自信を支えてくれる。

ところが、無価値感の強い人は、こうした機会をみずから狭めてしまうことが少なくない。

相手の心を深読みして、不必要な遠慮をしてしまう。

比較の対象として見てしまい、防衛的に身構えてしまう。

傷つくことを恐れて、表面的な交流にとどまろうとする。

自分を振り返ってみればわかるように、友達とは何か優れているとか、役に立つとかということを求めはしない。

必要なときには支えたり、助けたりする準備はできているけれども、何よりも一緒にいる時間を楽しみたいのである。

だから、身構える必要などない。

友人との率直な関係を回避していては、自分を信頼する力を育てることはできない。

若いうちは、たとえ傷つくことがあったとしても、あるがままに誠実に交わろうとする努力をすることである。

マズローによれば、高度に自己実現した人は友人が多いわけではなく、むしろ少数の友人と深い心のつながりを大事にする傾向があるという。

少なくてもよい、心から信頼できる友と、ありのままの姿を共有し、夢を語り合い、励まし合い、成長を刺激し合う関係を大事にしたい。

このことは、本来努力を要するようなことではない。

ところが、無価値感が強いと無意識のうちに防衛的に接してしまうので、この姿勢を突き崩すことに努力を要することがある。

そうした人は、つぎのようなことを意識的に自分に言い聞かせつつ、オープン・マインドを心がけることである。

「あるがままの自分でいこう。」

「自分を守ろうとしない。」

一生の友達は、お互いの人生をお互いの心の中に焼き付かせつつ生きる。

ある歳になって「お互い、がんばってきたな」と挙げる祝杯は、家族とは別の深い愛情の喜びがある。

転機をもたらす人生の師

レビンソンは、青年期から30歳前後までを人生の「新米時代」と名付け、この時期に「よき相談相手」に出会えるか否かが、その後の発達と人生に大きな影響を与えると述べている。

よき相談相手とは、ある人にとっては生き方を教えてくれる師であるかもしれない。

ある人にとって、仕事を教えてくれたり、目をかけてくれる上司であるかもしれない。

優れた先輩や友人である場合もあるし、愛情豊かな異性である場合もある。

若い頃道を踏み外した人が、こうした存在と出会って立ち直った、という事例は稀ではない。

その最中には気づかないけれども、後で振り返ってみれば、そういう存在の人が必ずいるものである。

周囲を改めて見回してみよう。

人間性、生き方、仕事上の能力など、称賛すべき人がいる。

そうした人に積極的に近づき、そうした人から学ぶことを心がけよう。

無価値感が愛を歪ませる

異性との愛には責任が伴う。

自分の人生への責任、相手の人生への責任の分担、そして、やがてこの世に生まれてくる新しい生命に対する長い期間にわたる責任。

アイデンティティが確立していれば、すなわち、いかなる仕事をして、いかに生きていくかについてのビジョンと決意ができていれば、愛に伴うこうした責任を逃げることなく負うことができる。

しかし、アイデンティティが未確立であると、これらの責任を担う自信と確信が持てない。

このために、精神的な結びつきを恐れ、身体だけの関係にとどまろうとするなどのことが生じる。

さらに、無価値感が加わると、愛と性にいろいろな歪みがもたらされる。

1.愛は犠牲

自己価値感をしっかりと獲得できなかった人は、愛し、愛されることとは、自分を抑えてもっぱら相手の要求に応えることである、と思ってしまう。

こうした傾向は女性に顕著である。

ある女性は次のように述べている。

「なんでもいいから要求して欲しいんです。

これをしろとか、あれをしろとか。

そうしたら愛されているって感じられるし、それに応えてあげたら自分も愛しているんだなって思えるんです。」

2.監視される愛

私たちは自分の行動を社会的なものにとどめておくために、多かれ少なかれ他者の目を必要とする。

自律性が十分獲得されず、もっぱら親の「監視する目」によって秩序立てられた人は、監視する目が無くなると自分の生活が崩れてしまう不安に襲われる。

そのために、自分を束縛してくれる人を無意識のうちに恋愛対象に選んでしまう。

3.反抗としての愛

親に取り込まれた子どもにとっては、愛や性そのものが親への反抗と感じられる。

このために、たとえば援助交際のように、愛や性を親への意識的、無意識的反抗として行うケースがある。

子どもと過度の一体感を持っている親は、実際に子どもの恋愛を自分への反抗と感じる。

親のこの感情を感知して、安定した恋愛や結婚に踏み切れない人もいる。

あるいは、親との結合を強めてしまうような相手に執着する場合もある。

たとえば、結婚後の生活がトラブル続きで、そのために親が乗り出さざるを得ないような人を相手として選んでしまうなどである。

4.反復強迫としての愛

親の気分にもてあそばれるようにして育つと、愛を信頼しきれず、パートナーに対して親にされたことを繰り返してしまう。

愛をもてあそびことで、相手を翻弄したり、好きな相手でもつい苦しめずにいられない、そんな心理と行動に陥ってしまう。

5.実りのない愛

無価値感が強いと、単なるセックスフレンドの関係であるとか、不倫であるなど、幸福に結びつかない愛の方が安心できることがある。

そして、実りがないとわかっている愛でも捨てることができない。

それは、一人になるさびしさを避けたいだけでなく、異性がいるということ自体が自己価値感をもたらしてくれるからである。

とくに女性にとって異性を失うことは自分に魅力がない証明のように思われ、関係をつなぎとめておこうとする。

幸福な愛と性のためには、深層における幾多の葛藤を乗り越え、大人としてのアイデンティティを形成する必要がある。

ただし、誰でも多かれ少なかれそうした葛藤を引きずっており、アイデンティティも揺らぎやすいままにとどまっている。

まず、お互いにこうした弱さを持っていることを自覚し、自分の愛情生活が歪なものになっていないか見直すことである。

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人生で最も重要なのは、愛情を深める努力

青年期において、愛する異性の存在ほど自己価値感を高めてくれるものはない。

恋愛に熱中している二人にとっては、自分たちだけが主人公であり、他者や世界は背景に退く。

だから、失恋は最大の自己価値感の傷つき体験となる。

安定した愛情関係にある夫婦はお互いを受容し、尊重し合っている。

これは、存在価値を高めあっていることに他ならず、こうした家庭に招かれると、客もまた幸福感に満たされる。

社会的にどんなに成功しても、愛情生活において失敗すれば幸福とはいえない。

逆に、他の人から成功と思われなくても、愛情生活に満足していれば幸福である。

だから、愛情を大事にすることこそ、最も優先すべき努力である。