人間を磨くとは

人間を磨く唯一の方法は、人間と向き合うこと

人間を磨き、人間力を高めるための道は、古典を読むことでもない、山に籠もって修行することでもない。

日々の仕事と生活において、縁あって巡り会った人間と正面から心を開き、向き合うことである。

その相手は、ときに、家族や親戚、友人や知人、上司や部下、顧客や業者、店員や隣人であろう。

ただし、「向き合う」とは、もとより、喧嘩をすることではない。

それは、未熟な人間同士が、不和や不信、反目や反発、対立や衝突を生じ、心がぶつかり、心が離れながらも、互いに、相手を許し、自分の非を認め、心を開き、相手に謝り、理解し合い、和解しながら、互いに良き関係を築こうと、もがき、努力することである。

それゆえ、その「格闘」の本質は、「相手の心との戦い」ではない。

自分の中の「小さいエゴ」を見つめること

それが、「向き合い」ということの意味である。

そして、この「向き合い」とは、自分の心の中の「小さいエゴ」を捨てようとすることでもなく、抑えようとすることでもない。

それは、「ただ、静かに見つめる」という意味での「静かな向き合い」に他ならない。

自分の心の中で、「小さいエゴ」の見栄や虚栄心、優越感や劣等感、嫉妬や羨望などが、「相手を許せないエゴ」「自分の非を認めたくないエゴ」「自分から心を開くことを拒むエゴ」「相手に謝ることを厭うエゴ」といった形で蠢くとき、その「小さいエゴ」の姿を、その蠢きに決して巻き込まれることなく、ただ静かに見つめる。

それが、「向き合う」という言葉の真の意味である。

しかし、この「静かに見つめる」ということを実践するためには、自分の中に、「静かな観察者」と呼ぶべき「もう一人の自分」を育てていかなければならない。

この「静かな観察者」と呼ぶべき「もう一人の自分」を育てていかなければならない。

人間を磨き人間力を高めていくためには、自分の中に、この「静かな観察者」を育てていくことが、極めて大切な課題となる。

人間を磨くとは、心の鏡を磨くこと

では、人間を磨くための唯一の道が、人間と向き合うことであるならば、人間を磨くとは、一体、何を磨くことなのか?

しばしば、世の中では、「彼も、人間関係で苦労して、丸くなったな」や「彼女は、人間関係で揉まれて、角がとれたな」といった表現をする。

しかし、ここで語る「人間を磨く」という言葉の意味は、そうした意味ではない。

あたかも、石を磨くと「角」が取れていくように、人間を磨くと「小さいエゴ」が消えていくということではない。

我々の心の中の「小さいエゴ」は、それを捨てたり、消したつもりでも、それを、ただ、抑え込んだだけであり、それは、一度、心の奥深くに隠れるが、必ず、別なところで顔を出し、ときに否定的な動きや、破壊的な動きをする。

ここで語る「人間を磨く」とは、「小さいエゴ」を捨てることでも、消すことでもない。

「人間を磨く」とは、自分の心の中の「小さいエゴ」の動きが見えるようになることであり、そのことを通じて、「小さいエゴ」の否定的な動きが見えるようになることであり、そのことを通じて、「小さいエゴ」の否定的な動きや、破壊的な動きを静めていくことができるようになることである。

もし、それができるならば、我々は、過去の否定的な人間関係を好転させ、未来に向かって良き人間関係を築いていくことができる。

では、自分の心の中の「小さいエゴ」の動きが見えるようになると、何が起こるのか?

一言で申し上げよう。

「心の鏡」に曇りがなくなる

では、「心の鏡」に曇りがなくなると、何が起こるのか?

自分の姿、他人の姿、物事の姿が、曇りなく見えるようになっていく。

逆に、自分の心の中の「小さいエゴ」が見えていないと、「心の鏡」が曇ってしまい、自分の姿も、他人の姿も、物事の姿も、ありのままに見ることができなくなってしまう。

「小さいエゴ」が抱える、見栄えや虚栄心、優越感や劣等感、嫉妬や羨望などの感情のため、それらの姿を「小さいエゴ」が好むように解釈してしまうからである。

されば、「人間を磨く」とは、何を磨くことなのか?

「心の鏡」を磨くこと

そのことに他ならない。

もとより、「人間を磨く」とは、人間としての成長を遂げ、人間力を高めていくことでもあるが、実は、「心の鏡を磨く」ことを通じて、自分の姿、他人の姿、物事の姿を、ありのままに見ることができなければ、人間として成長していくことも、人間力を高めていくこともできない。

されば、

自分の心の中の「小さいエゴ」を、静かに見つめ、その「小さいエゴ」によって、常に曇ってしまう「心の鏡」を磨いていく。

それが、「人間を磨く」という言葉の、真の意味であろう。

しかし、そうであるからこそ、「人間を磨く」という山の頂への道は、遥かに遠い。

それでも、歳を重ねるにつれ、少しずつ、その山道を登ってくることができた。

しかし、自分の未熟さは、自分が一番よく知っている。

目の前に聳え立つ山の頂は、まだまだ、遥か彼方。

それでも、この山道を登りながら、心に居来する思い。

いずれ、自分は、生涯、この未熟な自分を抱いて歩み、人生を終えるのではないかとの思い。

しかし、そうした思いを抱き、道を歩む、一人の未熟な人間に、救いとなる言葉がある。

求道、これ道なり

一つの人生において、道を求め、道を求め、道を求め、歩んだ。

その姿は、すでに、道を得ている姿ではないか。

一人の旅人は、この言葉に救われ、支えられながら、歩んできた。

未熟な自分を抱えながらも、成長を目指して歩み続けた姿、生涯をかけて、人間を磨こうと歩み続けた姿、その姿こそが、尊い姿なのではないか。

そのことに気づくとき、「人間成長」という名の山の頂をめざし、生涯をかけて登り続けた、先人たちの後姿が見える・・・。輝いて見える・・・。

あの優れた先人たちも、この言葉を支えとして、歩んでいったのではないか。

求道、これ道なり

一人の旅人は、この言葉に救われ、支えられながら、歩んできた。

そして、いま、改めて、思いを定める。

それがどれほど遅い歩みであろうとも、拙い歩みであろうとも、この人生を終える、その最後の一瞬まで、歩み続けていこう。

「人間を磨く」

その言葉を胸に。