他人にいい顔をしてしまう人には「ずるい人」が集まる理由

子どもが欲しくないものを与える親

人は愛されないと、大きな望みを抱く。
そして、お腹のすいていない人に、ものすごいお弁当を作っていってあげるような人になる。

多くの親は子どもに恵まれた環境を与えることに努力しているつもりでいる。

そして子どもが期待した反応を示さないと、親が「こんなに頑張っているのに」と不満になる。

しかし親が恵まれた環境を与えられるということと子どもが幸せを感じるかどうかは別のことである。

『ブレイン・スタイル』の著者マーレーン・ミラーは、「自分よりも贈る側の趣味を反映するプレゼントを一体いくつ貰ったことがあるだろう?」と書いている。

意味もなく、心のこもった言葉をいくつ送ったり受け取っただろう?

そしてお互いの脳のタイプについて知れば、誰とでも友達になれるという。

なぜ真面目な警官が強盗に!?

仕事に真面目に努力しながらも、人生を間違ってしまった例を考えたい。
報われない努力の例を考えたい。

1988年5月28日、その日の新聞は現職の警察官が白昼銀行強盗に入ったことを大々的に報道した。
たとえば毎日新聞は大きな見出しで「現職警官が強盗とは!」。

クラブで会ったホステスのフィリピン女性から「お金をつくってくれ」と言われて白昼銀行強盗に及んだ。

家には妻子がおり、勤務態度は真面目で職場でも地域社会でも評判がいい。

毎日新聞の見出しは「温厚で部下思い」となっている。

彼は勤務態度が真面目だった。
彼にとって仕事は生き甲斐とは矛盾して辛かったであろう。

人が嫌がる仕事を嫌な顔をしないで代わってあげる。
上司からも部下からも信頼は厚い。

この行動こそまさに「他人に気に入られるため」である。
不安からの一体化願望である。

憎しみが愛情の仮面をかぶって登場している。
職場の人たちから愛されたいという要求の裏に敵意が隠されている。

残念ながら彼にとって、周囲の人に尽くすことは「自分自身の実現のため」ではなかった。
彼の生き甲斐とは全く正反対の行為であった。
「あなたのために私はこんなに苦労している」と恩を着せるような動機の行動であった。

保護と安全を求めて、神経症は極端に人に迎合したり、逆に極端に拒絶したりする。
彼は極端に人に迎合している。

彼は何事にもNOと言えない。
深刻な劣等感のある人は人を助けたがる。
しかしそれは相手への親切ではない。
自分が気に入られるためである。

たとえば恋愛依存症。
相手に気に入られたいと思い、時間とエネルギーを相手のために割く。
しかし相手を愛していない。

こういう人は、学生時代に真面目で努力するけど人間関係が深まらない。
周りには厚かましい人が集まるだけ。
ビジネスパーソンになっても同じ。

悩んでいる人は人間関係の距離感がない。

自我喪失しながら誰にでも愛を求める。
その結果心の底では、自分の人生に絶望が深まるだけ。

これが決定的。

努力しながらも人生が行き詰まる人は、人との関係の中で生きていない。
それが相互性の欠如である。

NOと言えない人、言いたいことが言えない人、それが恋愛依存症者である。

報われない努力をする人の典型である。

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他人に尽くすことで自分の居場所をつくる不幸

こういう人は、仕事に生きがいのある人の特徴である自分に「重心」がない。
人によく思ってもらうということに生きることの重心がいってしまっている。

子どもが喜ぶ姿を見ることそのことが喜びになる親の気持ちが本当の愛情である。
彼にはこれもない。

彼は同僚、上司に「尽くすこと」で仕事場での居場所を作ろうとしていたのであろう。
部下にいい上司になることで居場所作りをしていたのだろう。

彼のような仕事人間は、職場の人にいい人と思ってもらうためにいい人になる。

だからいい人であることが辛い。
愛を求める相手に対して無意識の領域で敵意を持っている。

相手に「これあげるよ」と言うことで自分の居場所を作る。

生き甲斐を持って働いている人は、もともと居場所があるから、居場所作りのためにいい人になる必要がない。
そこでいい人になろうとしない。

彼はまさに働き盛り、分別盛りの人である。
地域の人は真面目な人と言い、挨拶もマナーもいいと言う。

しかし彼の仕事熱心、生真面目は批判されまいとして仕事熱心である。
仕事熱心は他人に自分をよく印象づけようとする仕事熱心である。

また同時に彼は真面目でなければ他人の気を引けないと恐れていた。

職場での愛想のよい性格も、不安から自分を守るための性格であった。

相手が何を求めているかわからないから、独善的に、人に尽くす。
とにかく独りよがりで、独善的で、やたらに善意のつもりで人に干渉する。

自分に対する要求が高いので、自分に失望し、その結果、人からの承認を求めて、人に干渉する。

相手にとっては迷惑な話である。

こうした報われない努力をしている人は多い。

誰にでもいい顔をしていると、「ずるい人」を寄せ付ける理由

彼の場合もおそらく周囲からの愛情、注目を求めるために愛想をよくしていた。

相手が好きだから愛想がいいのではない。

心の支えがあるから真面目なのではない。
心の支えがなくて職場で生きていくための道具が、表面的な愛想のいい性格である。

不安の消極的解決をする人は自分が何をしたいか分かっていない。

不安な人にとって、自分のために生きることは、大変なことである。

彼も小さい頃からどんどん自己実現のためには生きられないような人間になっていったのであろう。

人の期待を裏切らなかったが、自分自身を裏切り続けることで、幸せになる力をどんどん失っていったに違いない。
まさに報われない努力の日々である。

周囲の人のほうは、自分の心の葛藤を解決するために彼に接していたに違いない。
彼は周囲の人の心の必要性を満たす道具であったに違いない。

心優しい彼は小さい頃から周囲の人の餌食になっていたのである。

「こんな人達にいい人と思われてもなんの意味もない」と思って立ち上がれば、彼は仕事に生きがいを持てる人になれたのである。
女に騙されないで、銀行強盗をしないですんだ。

ところが、人に認められ、人に褒められ、受け入れられることによって、自我の確認ができる人というのは、こういう人の餌食になる。
「つきあう人を間違えるな」と言っても、自分を見失った人は、つきあう人を間違える。

周囲の人が驚くような社会事件を起こす真面目な人は、真面目で立派でも、周囲の人に迎合しているから心は満足していない。
どんなに愛想がよくても心の底は不満である。

彼らは、心が満たされていない人が「真面目という服」を着て働いているようなものである。
人は着ている服しか見ないから、この人は立派な人だと思う。

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「思いやり」からではなく「嫌われるのが怖い」からやる親切

疑似成長した場合、「このような欲求は絶えず無意識的な力として固執される」となる。
反復強迫とマズローは言っている。

このような欲求とは満たされていない基本的欲求である。
人は愛が手に入らない限り愛を求め続ける。

そのために部下にまで「いい人」になる。
そのために真面目に仕事をする。

しかし人が嫌がる仕事を嫌な顔をしないで代わってあげるときに、彼は自分自身を犠牲にするという無理をしていた。

それは彼自身の「相手に対する思いやりからくる喜び」による選択ではなかったであろう。

残念ながら彼は生産的いい人ではなく非生産的いい人である。

人が嫌がる仕事を嫌な顔をしないで代わってあげるのは、彼自身の居場所作りである。

彼には職場に心理的居場所がなかったのである。

なんであんな言動をするのだろうと不思議に思うときには、たいていその人が重大な感情を抑圧している。

嫌われるのが怖いのは、自分自身であることを放棄したからである。

彼は何か役に立っていないと、自分の居場所がない。

職場で嫌な仕事を「代わってあげる」という親切をしながらも、彼はおそらく職場で親しい人間関係ができていなかったのではないか。

要するに人に親切にしながら生きていても、人間関係の積み重ねがない。

やっていることが積み重なっていかない人生である。

彼は人と心を紡いでいかない。
心の中で何かを編んでいない。
人生が、長年にわたって編んでできあがるセーターのようなものになっていない。

それだけ人に親切にしながら、長年かかってできあがってくる人間の信頼関係のようなものがない。

要するに生き甲斐のない人が親切をする場合、動機が問題である。
行動が問題なのではない。

親切の動機が相手に対する思いやりではなく、いい人と思ってもらいたいという願望であるからである。

強盗をしてしまった警察官も人から認めてもらいたいという願望で「代わってあげる」という選択をしていたに違いない。

嫌われたくないから「代わってあげる」のであろう。
無理をして「代わってあげる」仕事が生きがいになるはずがない。

彼は職場に居場所がない。
同様に嫌な仕事を「代わってあげる」は居場所作りである。

この彼に「仕事に生きがいを持て」と言っても無理である。

たぶんずるい同僚からいいように利用されていたに違いない。
まさに「ずるさは弱さに敏感である」。

ずるい上司もずるい部下もずるい同僚も彼を利用していたろう。

そうして「嫌な仕事を代わってあげる」ごとに彼は自分で自分がより頼りないという感じ方を強化していった。
生き甲斐がどうのこうのというレベルではない。

「嫌な仕事を代わってあげる」ごとに他人の依頼に彼はどんどん弱くなっていった。
ポジティブなNOが言えない人間になっていった。

自分を裏切り続けて生きてきた、弱い彼は「断れない」。
「俺は皆になめられているだけだ」と気がつきさえすれば、悲劇は避けられた。
周囲の人に気がつけば、報われない努力が終わりに向かう。

自分を裏切って仕事をしている人が、仕事に生きがいを期待するのは、中華料理屋に入ってフランス料理を期待するようなものである。

おそらく警察官の彼は小さい頃からどこでも「ありのままの自分」を表現できなかったのであろう。
誰もありのままの彼を愛さなかった。

そして彼はたまたま「ありのままの自分」を表したが、それを表現する場所が適切ではなかった。

自己実現している人でさえ、時に「健康性退行」をする必要があるとマズローは言っている。

「健康性退行」とは、自己実現している人でも、安全という低い欲求に退行する過程が、つねに可能性として残されていることである。

「一種の疑似成長は、人が満たされていない基本的欲求を、実際にはみたされているかそれとも存在しないかのように、みずから確信しようとする場合に、極めて一般的に生じるものである。」

疑似成長している人はどうしても非生産的いい人になっていく。
社会的に上へ上へと急ぐ。
それは、その人の人生が「人に見せるための人生」であるからである。

その結果自分の心がどんどん空洞化する。
まさに報われない努力である。

戦いには二つある。
外敵と戦うことと、自分と戦うことである。
自分と戦うこととは、心の葛藤に直面することである。
自分をコントロールすることである。

「生き甲斐が欲しい、生き甲斐が欲しい」というときに、どうしても仕事そのものに注意がいってしまう。
仕事の種類だけに注意がいく。
生き甲斐のない仕事、生き甲斐の持てる仕事、そういう考え方である。

しかし、そもそも自分は「生き甲斐が持てるような生き方をしてきたか」という反省がない。

人を愛することも生き甲斐の条件である。

人を愛する能力がないのに、生き甲斐が欲しいと言っても無理である。

カレンホルナイは神経症の特徴の一つとして「The world should be at my service.」
ということを言っている。

これは自己消滅型とは逆である。
周囲の人への要求がひどい。
そして自分が周囲の人にひどい要求をしていることに気がついていない。

これも本人の倦怠と無気力を隠すための「べき」。

倦怠と無気力は自分の適性を無視した努力だからである。

欠乏動機で頑張った結果が無意味感と倦怠と無気力である。

欠乏動機からの努力の結果が自己疎外である。

人生を基本的不安感からスタートしてしまい、間違ったコースを選んで、崖っぷちに来て「こうあるべき」と叫んでいる。

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「好意」も出し方次第で「ありがた迷惑」

もったいぶる人。

さりげない気持ちで相手に伝えるマナーがある。

陰徳という言葉がある。
陰で徳を積むことである。

さりげない気持ちは相手に心の負担をかけさせないことである。
さりげない気持ちでもてなしてくれたときは心を豊かにさせてくれる。

反対にやり過ぎる好意は、相手の心の負担になる。

心の負担は「こんなことをしてもらってお返しをどうしたらいいのかしら」という気持ちである。

「こんなに大げさにしてもらってかえって困ってしまう」と相手に考えさせないことである。

自分では好意と思ったことでも相手には負担と感じることがある。

「好意」も出し方しだいでは、かえってありがた迷惑ということがある。

深刻な劣等感のある人は、認めてもらいたいという気持ちが強いからこうしたさりげない行動は無理である。

劣等感の深刻な人の努力は、どうしても最終的に報われない努力になりがちである。