他人の人生を生きてしまう理由

もう、「誰かの期待を満たすため」に生きなくていい

いつも悩んでいる人は、無意識の絶望から目を背けているから、自分が自分を分かっていないばかりでなく、接する相手も分かっていない。

小さい頃、親をはじめ、周囲の人からの破壊的メッセージで徹底的に絶望させられた。
それに気がついていない。

適切な目的を持っている人は、無意識に虚無感がない。
適切な目的を持っている人は虚無感もないし、自分に絶望もしていない。

それに対して無意識の絶望から目を背けている人は、栄光へと駆り立てられている。

彼らにとって最も重要なことが「心の葛藤を解決すること」であれば、実際の自分は無視される。

実際の自分では「心の葛藤」を解決できない。
「心の葛藤」を解決しようとすれば、実際の自分は障害になる。

そこで実際の自分を憎み始める

自分を憎むのは、基本的愛情欲求の欠如が原因と考えられるが、自分の運命に立ち向かう気力がない。

心身ともに気分が悪くて悩んでいる人は自分が想像している以上に、無意識に怒りが蓄積されている。
想像もできないほどの怒りが心の底に蓄積されている。

しがみついているのは壮大な自己イメージであるが、それは心の葛藤に直面したくないからである。

本当は自己蔑視しているから「自己栄光化」が必要になる
こうありたい自分と「実際の自分」との乖離が深刻であり、それゆえに自己蔑視という無意識に直面したくない。

ありのままの自分に失望しているから栄光にしがみついている。

普通の人はそこまでありのままの自分に失望していない。

正しい自分に何度でも乗り換える。

人は毎日の生活の中で屈辱を味わうことが多い。
その屈辱が無意識の記憶に凍結される。
抑圧される。

その抑圧の結果、焦りが出て、のんびりできない。

孤独と不安と焦りがつながって無意識にどんどん蓄積されていく。

そこで人に優越することで安心を得ようとして、間違ったボートに乗る。

焦って、不得意領域に足を踏み入れてしまう。
不得意領域で頑張ってしまう。
自分は「なにに適しているか?」よりも、「世間はなにに権威を与えるか」に関心を持ってしまう。

そして生きることに疲れる。
生きるのがつらい、でもボートを乗り換えることは考えない。

自分には間違ったボートに固執する。

しかしその道に先はない。
そして破滅。

なぜボートを乗り換えないのか?

唯一の障害は「歪んだ独りよがりの価値観」である。

独りよがりの価値観から生じた絶望から目を背ける。

人は本来、絶望から希望に乗り換えるときに成長する。

ロロ・メイの言う「意識領域の拡大」が起きる、視点が増える、心がふれあう友人ができる、いままで見たこともない世界が見えてくる。

しかし、小さいころに、周囲の人との共感がない人がいる。
コミュニケーションがないから人生の土台ができていない。

人格の未形成、自我の未確立のままで、歪んだ価値観に固執する。

「無理をすること」の大きな弊害

不得意領域で頑張っていると、自分が自分として生きてこないので、心に大きな問題を抱えるようになる。
そして人は自分の心に問題があるということを意識しない。
心に問題を抱えていると知らないで、つらいけれど頑張って生きている。

間違ったことをしているのではなく、立派なことをしていると錯覚している。

心に問題がある人は、生まれてから自分の意志と願望とを捨てて、養育者の意志にしたがって従順に生きてくることが多い。

ときには社会的には見事な適応であろうが、内面は崩壊している。
心理的ばかりでなく、さらに社会的にもつまずく場合には、人生が行き詰まる。

そして、その内面の崩壊は外からは見えない。

自分自身もまわりの人も、その人が心に大きな問題を抱えているとは思っていない。

しかし重大なことは、”サディズム”が絶望という心理的な土壌から生まれてくるということである。

その人は立派な社会人となった場合でも、官僚やビジネスパーソンとして成功者に見えるが、会社で部下にハラスメント行為をするかもしれない。
家ではドメスティックバイオレンスの状態で、狼になって家族に襲い掛かるかもしれない。

そとから見れば、見事な成功者でありながら、心は破綻している。

自分がサディストであるなどとは思いもよらない。
中には自分ほど立派な人はいないと思っていたりする。

だからこそエリートコースを走りながら、些細な失敗で、絶望する人が出てくるのである。

大企業や地方公務員という社会的には恵まれていると見えるところでうつ病者が出てくる。

失敗がそこまで大きな影響を持つのは現在の自分に満足していないで生きているからである。

不得意領域で頑張っているのでなければ、困難は乗り越えられる。

得意領域で充実感を持って生きていれば、失敗は失敗ではない。
落ち込むどころか失敗でやる気を刺激される。

自分でない自分で生きていて、失敗するからイライラする。

人々が気づいていないのは、「自己疎外」された人が失敗したときの恐ろしさである。

自己実現している人が失敗したときと、自己疎外された人が失敗したときとでは、失敗の意味はまったく違う。

失敗した人自身の心に与える影響も違うが、周囲への影響もまた恐ろしく違う。

人は母体の中にいるときには完全な保護のもとにいるが、その楽園は終わり、母親から分離し、次に「個性化」への道を歩き始める。

この個性化が進展すると、無意識の領域に孤独と不安が生じてくる。

自分はひとりではやっていけないかもしれないという不安から逃げた迎合的性格になる人は多いし、それで”いい顔依存症”になる人もいる。

”いい顔依存症”の人は、アルコール依存症の人がアルコールを飲まないではいられないのと同じで、他人に「いい顔」をしないではいられない。

つまり、個性を投げ捨てて服従することが安心への道であるが、その道を歩く人が多い。
つまり社会的に見事な適応をする。
表面的には立派な社会人となる。

しかし、それはアメリカの心理学者ロロ・メイの言うように「自分自身の強さと統一性の放棄」につながっている。

そして自分が重要な存在とは感じられなくなっている。

その結果、嫌われるのが恐くなる。
恐怖感は日々強化されていく。

そして、誰にでもいい顔をするようになり、その「嫌われたくない」は、”現代のペスト”になる。

もちろん迎合的性格ではなく、逆に攻撃的性格になる人もいる。
不安から人をやたらに攻撃する。

■関連記事
前向きになれない人が前向きになれる心理
苦しみから逃れる心の無意識に気付く心理
自分の無意識に気付き認めれば、生きるのが楽になる

他人の人生を生きてしまう心理

「自分には価値がある」という”安らぎ”にたどり着く方法

よく、「嫌われる勇気」と言われるが、嫌われる勇気ではなく、正しくは「個性化の道を歩く勇気」である。
勇気と言ってもよいが、「能力」である。

意味ある人生を生きるために必要とされる能力は、「個性化の道を歩く能力」である。

「無力感」と「依存性」は人間の宿命である。

必要なのはそれに打ち勝つ勇気であり、能力である。
その結果、人格が統合されて、気持ちが楽になり、自分のするべきことも理解でき、意味ある人生が送れる。

逆の場合は人生が行き詰まる。
個性を投げ捨てて服従し、よい子として社会的に適応するが、「自分自身の強さと統一性の放棄」をしているので、自分が重要な存在とは感じられなくなる。

ロロ・メイが「自己の内なる力を失うときに、どのように恐ろしいことが起きるか?」と書いているが、このことを示唆しているのであろう。

表面的には立派な社会人が周囲の人からの些細な批判で激怒する。
そして激怒できないときには落ち込んで憂うつになり、立ち上がれなくなる。
しかもなかなか立ち上がれない。

いつまでも、いつまでも水の底に落ち込んでいて、上に上がってこられない。
じーっと憂うつになったままで、元気が出ない。

こうした心理現象が、その人の内面が崩壊している証拠である。

なんであんな些細なひと言で、そこまで落ち込んでしまうのか、なんであんなにいつまでもじーっと憂うつになっているのか、周囲の人は理解に苦しむ。

周囲の人から見ればどうでもいいひと言、どうでもいい失敗が、自己疎外された彼の心の中の絶望感を刺激したのである。
そこで激怒した。

彼が頑張ったのは、無意識の絶望感に直面することを避けるためである。

いままでは力や名声などさまざまな方法で、絶望感に直面することを避けることになんとか成功してきた。

悩んでいる人は自分への失望感を味わうことを避ける。
自分が自分に絶望しているという感情に直面することを避ける。

自分にとって危険な感情を味わうことを避けるために、「あること」をしなければならないからする―。
それが強迫性である。

立派な人としての自己イメージは、彼には絶対に必要なことである。
その自己イメージが傷つけられたので、激怒したのである。
そして激怒を表現できなければ、憂うつになる。

ピストルを突きつけられれば誰でもしたくないことでも「しなければならない」。

このピストルに当たるものが、その人の中にある「危険な感情」である。

無意識に追いやった「危険な感情」が意識に戻ってこようとする。

それを防がなければならない。
その「防ぐためにしていること」は止められない。
たとえば、成功への努力である。
富を得ることであり、権力獲得である。
それが強迫性である。

”それ”がなければ生きていけない。
心理的に健康な人は”それ”がなくても生きていける。
生きていくために、必要なものが、神経症的傾向の強い人と心理的に健康な人とは違う。

無意識で「自分自身に絶望している人」の口癖

ある大学教授である。
本当の意味での学問上の業績はほとんどない。
すると「自分には学問の業績価値などない」という考えを意識から追い払おうとする。

すると、御殿を建てようとして神経症になってしまった。

その人は、学問の世界で自分は失敗者だと勝手に思っている。
すると「学問の世界なんてくだらない」と常に言い張る。

心理的に健康な人から見ると、御殿を建てる必要はない。
しかし彼にとっては必要なことなのである。

学問の業績は重要で、自分は業績がない、失敗者である。
そこでその考えを心の中から追い払おうとする。

「意識からある思考を追い払おうとする行動は、一方でその思考を存続させ、その望まれない思考に附随する印象全体も存続させているのです。」

たとえば、自分を守るために劣等感から人を批判する。
世の中はバカばかりだと言って、自分についての、世の中の当たり前の評価を受け入れない。

自分への失望を意識することを妨げるためには、どうしても人を批判するのが彼には必要なことなのである。

自分を偉く見せるのも強迫的名声追求である。
無理しているからつらい努力だが、意味はないし、心の底の絶望感は追い払えない。

「status seeker」といわれるひとたちがいる。
彼らは、自分は有能ではないという感じ方を避けようとして、社会的なステイタスを必要とする。

ジョージ・ウェインバーグは「どんなことでも強迫的な行動」になるという。

行動そのものが、世界観に動機づけられており、自己不適格感を再生します。

仕事の勝負を避けて家族にしがみつく。

防衛的価値観としての家族愛である。

「社会的仕事の成功なんて意味がない」と言い張る。
「家族愛が最高の価値である」と声高に主張する。

しかしそれを主張すれば主張するほど、無意識では仕事ができない劣等感を深刻化させる。

「変わり者」といわれる人にはこの種の人が多い。

変わったことをしていれば、世間一般の基準で評価されることを避けていられる。

オーストリアの精神科医ベラン・ウルフの言うように、「独自性の主張」が神経症である。

「変わっていること」を言い張って、世間一般の価値基準で自分が評価されることを頑なに拒否する。

ワーカホリックなどもそうであろう。
アルコール依存症の人とワーカホリックの人とは心理的には同じである。
自分への絶望感を避けるためのアルコールであり、仕事である。