「ありのまま」を認めることの重要性
他人の目が気になる心を克服する中で起こっていくことは、「ありのまま」を認めてもらうという体験です。
身近な人たちに、自分が今こう感じている、ということを、そのまま受け入れてもらうのです。
そもそも、私たちの「感じ方」には不適切なものなどありません。
感じ方というのは、自分にとってその状況がどんな意味を持つかを知らせてくれるものです。
それぞれの人が、生まれ持ったものも違えば、それまでに経験してきたことも違います。
現在抱えている事情も違います。
ですから、ある状況は、それぞれの人にとって違う意味を持つのが当たり前であり、そこでの感じ方も人それぞれなのです。
例えば、「そんな言い方をされると傷つく」というのは、その人の感じ方であり、決して「不適切」な感じ方ということはありません。
他の人が見れば「傷つくようなことでもない」と思うかもしれませんが、本人の事情を考えれば、適切な感じ方なのです。
他人の目が気になる病気になっている人たちは、その多くが「少しのトラウマ」に満ちた環境で育ってきており、自分の感じ方について「どうしてそんなふうにしか感じられないの」などと非難されてきています。
ですから、外部から直接ストレスを受けるだけでなく、それに対してストレスを感じる自分を、「こんなことで傷つくなんて自分は弱い」
「こんなことをストレスに感じるなんて自分は未熟だ」
などと責めてしまい、「少しのトラウマ」を自分で増やしてしまっているのです。
「ありのまま」を認めるということは、自分の感じ方をそのまま認めてもらうということで、実は当たり前のことです。
むしろ、ありのままを認めないということのほうがおかしいのです。
「その感じ方はおかしい」と言われても、感じ方は本人が恣意的にコントロールできるものではなく、いろいろなことの結果として起こってくるものです。
治療の中で、ありのままを認めてもらう体験を積み重ねていくと、薬も使わずに病気すら治るほどの効果が示されてきます。
「こう感じてよいのだ」という安心感が、自己肯定感を高め、「少しのトラウマ」を癒していくのだと考えられます。
また、ここで大切なのは、現状を受け入れることであって、「犯人捜し」をすることではありません。
誰が批判的だったからこうなった、ということを追及するよりも、自分がそれほど厳しい状況に置かれてきたということを認め、そんな中で世の中を「他人の目」を通して見るようになったのも仕方のないことだ、と理解することです。
その理由の詳細はわからなくても大丈夫です。
ただ、何らかの理由があって、その結果として今現在自分はこんなに「他人の目」がきになるのだ、ということを認めればよいのです。
「他人の目」が気になるのは、相応の理由があるのです。
このステップを踏まないと、「他人の目」を気にする心を手放すことはできません。
まずはこれでよいのだ、というふうに現状を認めることができると、「『他人の目』が気になる心」を手放す土台ができます。
ポイント:「ありのまま」を認めてもらう体験に「少しのトラウマ」を癒やす効果がある
「ありのまま」を否定されるとどうなるか
他人の目が気になる人の特徴の一つに、ありのままを認められた体験に乏しいことが挙げられます。
ありのままを「どうしてお前はそうなのだ」「おかしい」と直接批判されてきた人もいれば、「そんなことをしたら人がどう思うか」という形で、他人や世間を引き合いに出されながら、ありのままに対して常に疑問を呈されてきた人もいます。
「おかしい」と言われれば、「おかしい」と言われないように、「他人の目」に合わせて自分の形を作ることになります。
そんなことをしていては、「他人の目」をきにするようになるのも当然のことなのです。
そして、ストレスがたまってあるレベルを超えたとき、「他人の目」が気になる病気になりやすい、ということも理解できます。
病気になると、それがまた周りの人の批判や心配の対象となっていきます。
拒食症の人は「どうして家族に心配をかけてまでやせようとするのだ」と言われ、過食症状がある人は「わがままだから我慢が足りない」「食べたり吐いたりして動物のようだ」「地球上には飢えている人もいるのに」という具合に、症状が人の批判の対象となっていきます。
あるいは、社交不安障害になると、「気にしすぎ」という批判を受けることになります。
「誰も他人のことなんてそれほど気にしていないものだ。自意識過剰なのではないか」というわけです。
身体醜形障害については、まだまだわかっていないところも多いのですが、やはり虐待やいじめを受けた人に起こることが少なくありません。
虐待やいじめというのは、自分のありのままを認められない体験の典型ですから、やはり「他人の目」に目がいきやすくなります。
また、虐待やいじめの場合、「自分はなぜいじめられたのか」という理由は、ほとんどのケースにおいて永遠にわからないものです。
なぜかというと、単に相手の気分によって起こることが圧倒的に多いからです。
「自分はなぜいじめられたのか」がわからなければ、予防としてできることは唯一、「いじめられないように、できるだけ他人に批判されないように自分を整える」ということになります。
これは容易に「『他人の目』が気になる心」につながってしまいます。
ポイント:他人の批判に合わせて自分の形をつくると、たまったストレスがあるレベルを超えた段階で病気になるおそれがある
他人の「ありのまま」を認めていますか?
「ありのまま」を認める、という話になると必ず出てくる抵抗が、「ありのままを認めてしまうとわがままになるのではないか」というものです。
実はここに大きな矛盾があります。
「他人の目」を気にして「ありのまま」を認めないほうが「わがまま」なのです。
なぜなら、「他人の目」を気にすることは、「自分がどう見られるか」ということを、相手を思う気持ちより重視した、自分中心の考え方だからです。
この考え方は、相手が何を望んでいるか、どうしてあげることが相手にとって最もよいことかを考える「思いやり」とは大きく異なります。
他人の「ありのまま」を認めることは「思いやり」なのです。
実は、自分の「ありのまま」を認められない人は、相手の「ありのままを認めることも苦手です。
「人間はこうあるべき」という気持ちが強すぎて、相手についても不適切さを感じてしまうのです。
すると、相手を思いやるよりも、「相手はこうすべき」という気持ちが強くなってしまいます。
相手のちょっとした言動に怒りを感じたりするのも、そのせいです。
同時に、「他人の目」は気になりますから、怒りをそのまま表現することは一般にしません。
ですから、まさにストレスがたまるのです。
「思いやり」は、本来は相手の現実に合ったものでなければ意味がありません。
ですから、自分のありのままを認めてもらい、相手のありのままも認めることが「思いやり」には大切なのです。
ポイント:自分の「ありのまま」を認められない人は、相手の「ありのまま」も認められず自己中心的になりがち
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「想像上の他人」から「目の前の人間」へ
「他人の目」を気にする、というのは、他人を気にしているようであって、実は他人をきちんと意識していない感覚だということは、よく理解しておく必要があります。
というのが、人間は他人のことを、「やせているか、太っているか」「メイクが上手か、下手か」「センスがいいか、悪いか」「仕事ができるか、否か」
などの「評価」だけで見ているわけではないからです。
例えば、以前より太った人に会ったとき、瞬間的には「わあ、太ったな」と反応することもあるかもしれませんが、その後に、「でもそんなふうに考えたら悪いだろう」「太るだけの事情があったはずだ」などの思いがめぐり、結果としては何事もなかったかのように振る舞う、ということもあるはずです。
「他人」とはそれほど複雑な生き物なのです。
ところが、「他人の目」を気にしている人の多くは、目の前の相手のその複雑さを認識していません。
「想像上の他人」のことばかり考えて、実際には他人とほとんどコミュニケーションしていないことが多く、リアルな人間の実際についてあまり知らないことが多いのです。
つまり、リアルな人間関係の体験に乏しい、というのが、「他人の目」を気にする人の特徴の一つだと言えます。
これは、「対人関係能力がない」「友達が少ない」という意味ではありません。
「少しのトラウマ」によって作られた、「他人とは、自分に評価を下して傷つける存在」という思い込みにそれだけ支配されているということです。
「他人とは恐ろしい存在だ」と思っていれば、その実体と深く関わってみようとは思わないものだからです。
克服の治療においては、リアルな人間関係の中で、やりとりをしてもらい、いろいろなことを実感してもらいます。
そして徐々に「他人とは、自分に評価を下して傷つける存在」という認識を手放していくのです。
「他人とは、自分に評価を下して傷つける存在」という認識に基づく「頭の中の『他人』」に取り込まれることなく目の前にいる生の相手とやりとりすると、そこからはいろいろなことが得られます。
思ったほど相手が自分のことをネガティブに見ていないことに気づくこともあります。
実際にやりとりをしてこちらの気持ちを伝えることができれば、相手が自分について思い込んでいることを修正することもできるでしょう。
また、相手も完璧ではないと知ることができるのは大きな収穫です。
「相手もいろいろな事情を抱えた一人の人間なのだ」
「常に完璧に振る舞えるわけではないのだ」
「不適切な行動をとることもあるのだ」
ということを理解すると、相手が言ったことの位置づけがしやすくなります。
つまり、相手の言ったことは「真実」ではなく、「現在の相手の感じ方」に過ぎない、相手にも努力が必要なことがある、と考えられるようになるのです。
ポイント:「想像上の他人」とコミュニケーションをとることはできない。「目の前の人間」と接して認識を変えていこう