傷つきやすい人にもいろいろなタイプがあります。
それぞれのタイプで多少特徴が異なるのですが、ここでは、傷つきやすい人に比較的共通する特徴をみていくことにします。
感受性がマイナスに作用
傷つきやすい人は、「自分は感受性が鋭いから傷つくのだ」と思っています。
このように考えて自己満足し、自己憐憫する傾向があります。
たしかに、ある意味で感受性が鋭いといえるでしょう。
しかし、じつは、その感受性の鋭さの方向を間違えてしまっているのです。
感受性を建設的な方向ではなく、破壊的な方向に向けてしまっているのです。
さらに、感受性によって不必要に感情を喚起してしまうという誤りを犯しているのです。
こうしたことは、ある種の素質を推測させます。
すなわち、もともと敏感な神経系統の持ち主だと考えられます。
そうした素質的な感受性の鋭さを持ちながら、その方向を間違え、感情的に過度に混乱し、これによって、勝ってに傷ついている姿が、傷つきやすい人の正体だといえます。
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課題よりも、人間関係に注意が向く
傷つきやすい人は、今取り組むべき課題よりも、人間関係に注意が向きがちです。
たとえば、仕事について上司から注意を受けると、その内容よりも、自分に対する上司の気持ちの方が気になってしまいます。
職場では、仕事こそが第一の課題です。
それなのに、仕事をしていても、誰と誰は仲良しで、誰と誰は嫌い合っているなどと、人間関係を常にきにしてしまいます。
会社での人間関係は、仕事のために協同すべきものです。
プライベートな人間関係は、楽しめばよいものです。
ところが、傷つく人は、人間関係を競争であり、戦いの場だと感じています。
人間関係に敏感なので、ちょっとしたことに深い意味を読み取ってしまいます。
ある人が、たまたま他の人を名前で呼んで、自分は苗字で呼ばれるということがあると、その人は自分に対して好意を持っていないと解釈するなどです。
こうした人は、自分では意識していなくとも、他の人への依存心が強いのです。
本来期待すべきでない人について、まちがった期待をしてしまっているのです。
たとえば、友達が他の同僚の仕事を手伝うと、その同僚のおかれた状況を思いはかろうとするのではなく、自分は友達なのだから、まず自分を援助すべきだと思い、友達の行為を裏切りと感じてしまったりするのです。
ですから、こうした人は、二人だけの時は割合うまくいっても、三人になると傷つくことが多くなるのです。
評価や嫌われることを過度に気にする
傷つきやすい人は、とりわけ、人から受ける評価を気にします。
仕事の進捗状況を報告しなければならないとき、報告したことが相手にきちんと伝わったかどうかが問題なのに、「相手が自分をどう思ったか」がもっぱら気になります。
「相手に嫌われるようなことをしなかったか」「自分の評価を低めるようなことはなかったか」。
そんなことの方が気になります。
このために、評価にほんのちょっと非難めいた内容が含まれていると、それだけで感情を大きく揺さぶられてしまうのです。
嫌われることを恐れて、たいして楽しくもない仲間の誘いを断れない人がいます。
女性では、嫌われるのがこわくて、男性の言いなりになる人がいます。
好きでもないのに、ただ嫌われたくないためにセックスを許して、その後自己嫌悪に陥るような人がいます。
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競争心が強い
傷つきやすい人は、引っ込み思案で、目立つ場面や、競争場面を避けがちです。
このために、競争心がないかのように見えることがあります。
しかし、内心では強い競争心を持っています。
逆に、競争意識が強いからこそ、負けたときにこうむる痛手を恐れて、前もって競争場面を避けてしまうのです。
ですから、傷つきやすい人は、テレビを見ていてさえ、密かに傷ついていることがあります。
テレビに登場する人たちと比較してしまい、「自分は彼らほど魅力的でない」「能力がない」と傷ついているのです。
悪意と受け取りやすい
心理学に帰属理論というものがあります。
出来事の原因を自分の能力や運などに帰する法則性についての理論です。
たとえば、成功は自分の努力に帰し、失敗は運など自分以外の原因に帰する、という一般的な傾向があります。
傷つきやすい人のなかには、出来事を悪意に帰する傾向の強い人がいます。
場の状況から人がしていることを、その人が「悪意からしている」と解釈してしまうのです。
たとえば、自分が不在にしていたために、たまたま緊急の連絡網ではずされて、連絡事項を知らなかったとします。
こうした場合、わざと自分が抜かされたと解釈して傷つくのです。
あるいは、店員からおつりを受け取るとき、何らかの調子でついポンと投げ渡されたような形になると、店員が自分を馬鹿にしてそうしたのだ、と解釈してしまいます。
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気をまわしすぎる
傷つきやすい人は、自分の本当の気持ちを隠す傾向があります。
あるいは、本当の気持ちに触れることを避ける傾向があります。
そして、これを他の人にもあてはめて、気を回しすぎることが多いのです。
この気の回し過ぎが、かえって他の人には迷惑になることがあるのです。
たとえば、試験の答案が返ってきたときに、友達を傷つけないようにと思い、「自分の方が悪い点だった」と嘘を言います。
ところが、後になってそれが事実でないことが明らかになって、二人の関係が気まずくなってしまうというようなことです。
気をまわしすぎると、関係のないことを自分に関係させて考えてしまうことになります。
なにかを自分に関係するものととらえることを、自己関係づけといいますが、傷つきやすい人は、過度の自己関係づけによって傷つくことが少なくないのです。
さらに、きをまわしすぎることは、素直な自分の表現ではない、偽りの自分の表現です。
この自己欺瞞という意識のために、自己嫌悪感が生じることにもなります。
マイナスの感情を広げてしまう
傷つきやすい人は、プラスの感情よりもマイナスの感情を強く持つ傾向があります。
たとえば、同じ仕事をしても、傷つきやすい人は、不十分な点に関心が向きがちで、それゆえに、マイナスの感情が強く生じます。
それに対し、傷つきにくい人は、うまくいった点をきちんととらえ、不十分な点はあるが仕事を成し遂げた、という充足感を強く感じます。
傷つきやすい人は、マイナスの感情を持ちやすいだけでなく、広げてしまう傾向があります。
さらに、この不十分な点をいつまでも忘れられず、マイナスの感情が消え去るまでに時間がかかるのです。
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傷つきやすさゆえの優しさ
傷つきやすい人は、傷つきたくないために、心から触れ合うことに抑制がかかります。
そのために、たとえ友達と一緒にいても、心のどこかで寂しさを感じています。
なかには、すねることによって周囲の人を自分に注目させ、この寂しさを埋めようとする人もいます。
しかし、傷つきやすい人の多くは、優しさとして表現します。
ある人は、動物は心を傷つけないので、動物に強く惹かれます。
とりわけ、捨て犬など、寂しさを共有していると感じられる動物に対する共感が強くなります。
この心理は、ペットとしてかわいがるだけでなく、酪農を夢見るということにつながる場合もあります。
あるいは、優しさが、幼い子どもの面倒をみる保育士にあこがれるという表現になる人もいます。
また、同じような心理から困っている人や弱い人を援助するボランティア活動や福祉の世界に入る人もいます。
現実の世界での傷つきやすさから、本の世界に惹かれる人もいます。
こうした人が夢見る職業は、童話作家や図書館司書であったりします。
さげすみと妬み
傷つきやすい人は、傷つきにくい人を無神経な人としてさげすむ傾向があります。
しかし、さげすむ心の背後で、そうした人を妬み、うらやんでいます。
「傷つかない人の方が、本当は健康なのだ」と、心のどこかで思っています。
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傷つきやすさの根底は自己無価値感
揺るぎない自己価値感を持つ人の姿から、傷つきやすい人の心の根底には、揺らぎやすい自己価値感が存在することが分かります。
自己価値感が侵害されてしまうことこそが傷つくということであり、容易に自己価値感が揺らいでしまうことが、傷つきやすいということの本質なのです。
自己価値感とは、「自分に価値があるという感覚」のことです。
かならずしも意識的な感覚だけではありません。
もっと根源的で、それゆえにおぼろげにしか意識化できない感覚でもあります。
通常は自己価値感をそれとして感じることはほとんどありません。
健康なときには、身体を改めて意識することがないのと同様です。
ですから、確固とした自己価値感を持つ人は、自己価値感などあまりに当たり前のことであり、改めて意識することはほとんどありません。
むろん、大きな自己充足感をもたらす出来事があったり、温かな愛情に包まれていることを実感したときなど、充足感や歓び、満足感とともにしみじみと自己価値感を実感することはあります。
多くの場合、何らかの意味で自己価値感が脅かされたときに、初めてそれとして実感します。
たとえば、失敗したり、否定的に扱われたり、軽くあしらわれたりした場合などです。
こうした時、「どうせ自分は・・・」とか、「自分なんて・・・」という言い方をしますが、これは希薄な自己価値感を表現した言葉です。
したがって、確固とした自己価値感を持てない人の方が、自分の希薄な自己価値感を頻繁に実感します。
自己価値感が脅かされた時に自己価値感を実感することが多いので、自己価値感は無力感や絶望感、卑小感や屈辱感、不安や恐れ等々の感情とともに体験されがちです。
また、自己価値感の希薄さは、劣等感と結合しています。
しかし、自己価値感は、客観的には優れた業績をあげながら、あるいは、人並みはずれた能力を持ちながら、自己無価値感に悩む人も少なくありません。
逆に、自己無価値感を埋めようとする努力が、並外れた能力を形成している場合もあります。
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自己価値を実感したいという欲求は根底的なものなので、私たちは意識的、無意識的に自己価値感を得ようとあがき、また、自己価値感を守ろうと必死になります。
むろん自己価値感は、獲得されるか、獲得されないかという「全か無か」という性質のものではありません。
いかなる養育環境であろうとも、自己価値感の獲得に有利な要因と不利な要因が存在します。
このために、人は多かれ少なかれ自己価値感を獲得するのであり、十分に獲得した人とそうでない人とがいるのです。
そして、それにより、心理と行動に大きな違いがもたらされるのです。