劣等感からがんばりすぎる人

がんばりすぎるとどうなるか

意識するしないにかかわらず、がんばりすぎを長期に続けていると体はダメージを受ける。

いずれストレスによって体のバランスは崩れ、忘れっぽくなったり、夜眠れなくなったりする。

ボールを空中にたくさん上げ過ぎて動きを止められなくなった曲芸師、荷物を積みすぎて沈みかけている船を操る船長のようなものだ。

そんなとき陥りやすいのが、いい人の勘違いというわなだ。

頼まれて「ノー」と言うのは身勝手で悪い気がする。

そこで、頼まれたことを全部やり遂げようととしては疲れ、その結果、生気を失い、効果的に働けなくなり、生活を楽しめなくなる。

がんばりすぎると腹立たしさが、物事を頼んだ相手だけでなく(それ自体、的外れなのだが)、ノーと言えなかった自分自身にも向けられることだ。

自分に向けられた腹立たしさは、やがてうつ状態に変わる。

心も体も消耗させるこの現代病は、燃え尽き症候群と呼ばれる。

人間を、複雑でスピードの速い現代社会に生きる生物として考えた場合、現代人が毎日エネルギーを費やす活動は、生活に喜びや楽しみをもたらすと同時に、エネルギーを吸い取り、絶えず緊張にさらしつづける。

このストレスを少しでも減らし、生気を取り戻すために、人は食べ、眠り、運動し、リラックスし、休憩をとり、ペースを変え、さまざまなレクリエーション活動をする。

アルコール、ニコチン、カフェイン、その他の薬物の世話になる人もいるだろう。

エネルギーを消耗させる活動にひたりすぎたまま、消費したエネルギーを回復する努力をしないでいると、心も体も生気の抜けた状態になり、たまったストレスは精神的疲労に変わる。

その結果、完璧主義の場合と同様、生きがいもなくなり仕事も生活も楽しめなくなる。

がんばりすぎが自滅に通じることはわかっていながら、がんばるのが自分の道だと信じるのも、いい人の特徴だ。

やり方を変えたいと思っても、どうすればいいのかわからない、あるいはできないと無意識に思い込んでいる。

そのままでは、燃え尽き症候群に陥る危険を一生負いつづけることになる。

慰めにはならないかもしれないが、がんばりすぎからストレス、うつ状態、過労になる人は大勢いるし、珍しくはない。

でも心配はいらない。

まず、なぜそうなるかを理解しよう。

何のためにがんばりすぎるのか

現代社会では、単に生き延びるためだけでもがんばりすぎてしまう。

でも、いい人が自分を消耗してしまうのは、自らの生存のためだけでなく、もっと大きな目的のため-友人の役に立ちたい、地域社会をもっとよくしたい、みんなの幸せのためになりたい―なのだ。

意識としてはどれも高尚だし、すべて善意から出発している。

しかし、燃え尽き症候群から守ってはくれないし、負担を負いすぎると目に見えない、いろいろなことが起きる。

完璧主義の場合、どんなに気高い目的の背後にも、認められたい、受け入れられたいという願いが隠されていた。

がんばりすぎる人の場合も、ほとんどはその行動の背後に同じ願いを隠しもっている。

完璧主義の場合は、活動の質にこだわる。

これでいいか、賢明だったか、上手くできたか―と。

がんばりすぎは、活動の量にこだわっている。

これで充分だろうか、もう一つやれば、気に入ってもらえるのではないか―。

言うまでもなく、こんな果てしない努力はする必要がない。

人間には愛という、人を人たらしめているものがあり、愛はすべての人を受け入れるものだ。

いい人たちがしなければならないのは、すでに受け入れられているという事実を受け入れ、愛によって豊かさと自由が与えられていると認識して、自由な気持ちで生きることだ。

それができれば、「完璧でなくっちゃ」「がんばらなくっちゃ」という人の目を意識したプレッシャーの大半は軽減される。

なぜ、仕事を背負い込むのか

いわゆるいい人たちは、なぜいつもがんばりすぎるのだろう?

完璧主義もがんばりすぎも、二つの考え違いに原因がある。

一つは、人に受け入れられるには条件があって、それが人生の法則だという考え違い。

もう一つは、誰も、ありのままの自分など評価してくれないという考え違いである。

その結果、自信を喪失し、自分を低く評価するようになるのだ。

私もほかのいい人たち同様、明らかに、しかも半分無意識に、自分をわざわざこの状態に追い込んでいた。

自信をなくし、自分をつまらない人間だと思う種は、幼児期に植え付けられることが多い。

両親をはじめ、大人と並ぶと子どもは小さく、経験も浅く、体力はなく、知識も少なく、自信もない。

大人たちは、子どもに自信をもたせようとしたかもしれないが、ふつうは、子どもの意見や感情やニーズは重要ではないという信号を与えるほうが多かった。

子どもは話し掛けられたときだけ口をきいてよく、与えられたものを受け取り、しろと言われたことをするものだと教えた大人もいただろう。

ときには、じゃまだとにおわすこともあったろう。

無邪気な子どもの心は、そうした大人の評価を受け入れ、社会の中の自分の地位と重要性はそんなものだと納得した。

秘密でしたことを恥じ、誰にも知られないように気を使いながら、何かたいへんなことをしてしまったような気がしたものだ。

容姿や身体的能力の限界も、自分を正しく評価できない原因になった。

ひどく痩せていたり、太っていたり、のろまだったり、不器用だったり、醜かったことが、誰にでもある。

こうして子どもは、自分などあまり価値のない人間だと思って育つ。

とくに不安定な思春期に入ると、失敗や魅力的でない部分が気になり、友達の強みと自分の弱みを比べては、ますます劣等感をもつようになる。

いい人になるように育てられた人は、そんな否定的な自己像を引きずって成長し、やがて本当にそうなってしまうことが多い。

自分はどうせそういう人間なのだと思い込み、そのイメージに生き方まで支配されてしまう。

自己評価にはそれだけの影響力があるとわかれば、なぜがんばりすぎるのかもわかってくるだろう。

「私は人より劣っている、重要でない、価値がない」と思うから、その思いを打ち消そうと一生懸命になるのだ。

認められたいと思う人から頼まれれば、つねにイエスと答え、さらには頼まれもしないのに、自分から「やりましょうか」と申し出てしまう―すでに充分、忙しいのにもかかわらず!

自分の劣等感を変える

受け入れられていると知っている人は、自分には価値があると思える。

実際、人間が宇宙の中心にある愛によって生かされているとは、自分にもそれだけの価値があるということだ。

家族や友達の無条件の愛が、自分の本当の姿を映し出している。

こうした見方はとりあえず、低い自己評価を変えるきっかけになる。

問題は習慣からついいつまでも、子ども時代の自分のイメージをもちつづけてしまうことだ。

私たちが子ども時代のイメージを引きずって成長し、それが現在の自分の一部になっている。

心理学者によれば、子ども時代に満たされなかった欲求から解放されて健全な大人になるには、この子ども時代のイメージを理解し、受け入れ、吸収しなければならない。

子ども時代に自分を低く評価した経緯がわかったところで、大人になっても同じことを繰り返す必要もないし、すべきでもない。

肯定的な自己像を築く第一歩は、そのことに気づくことだ。

歴史的にみると、大人は肯定的な自己像を築く手段として、次の三つの評価法を使ってきた。

社会的成功をめざす

社会では、成績のいい人、美人、チームのスタープレイヤー、表彰された人、金や権力を手に入れた人は価値があると思われる。

社会的に成功して価値ある人間になりたいと思うことは、現代社会ではとくに大きな原動力になる。

受け入れられるには条件があるという考え違いと同じで、この評価法にも問題がある。

まず才能がない、体が弱い、金がないといった人は、成功を手に入れにくい

また、他人の基準で評価されている間しか通用せず、評価を失う可能性がいつでもある。

自分の力を、自分にも他人にもつねに証明していなければならないため、つねに競争し、つねに人より成果を上げなければならず、そのためにがんばりすぎることもよく起きる。

みんなのためを思う

住まい、衣服、平和、知恵、正義、知識、健康促進、美、コミュニケーション、希望、環境保全、ビジネス、交通、自由、愛など、世の中を豊かに健康的にし、生活を充実させる活動は価値がある。

人間は互いに助け合って生きる社会的動物だから、誰にでもできるし、精神的にも満足できるこの種の活動をする人は、自分の富や名誉のためだけに生きる人より数倍いい。

しかしこの評価法も、行動を基本にしているので、満足感を得るためにがんばりすぎる原因になりかねない。

つまり、度を越して忙しく働き、自分をこき使い、他人の犠牲になり、極端な場合は自分が苦しまなければ、自分が価値ある人間だと思えなくなるのだ。

人間としての価値

これは、資格などいっさいなくても、人がどう言おうと、ありのままで人間として価値がある、という考え方だ。

この考え方では、どんな人間も、大きな創造的可能性をもっていると見なす。

人間は誰でも知識を吸収し、技能を身につけ、物事をいい方向に変えることができる。

人のためにも自分のためにも生活を豊かにする能力をもち、出会ったすべての人たちから最善のものを引き出すことができる。

たとえば、ある人が建設的な仕事をしたとすれば、そのとき、その場で、その人だけがもつ能力を使ってできたことで、ほかの誰でも同じことができるわけではない。

だから価値があるのだ。

子どものときから引きずってきた否定的な自己像とはまったく逆なこの考え方でいくと、自分はそんな大事な存在なのだから、がんばりすぎずに、エネルギーと時間の使い方を責任をもって選び、使うのが当然だ、ということになる。

たしかに、自分の潜在能力を百パーセント発揮したり、自己基準を百パーセント達成することなど、なかなかできない。

いくら善意の行動であっても、無知、誤解、偏見、プレッシャー、感情的な反応などに出合ってベストをつくせないことも多い。

こうした外圧と悪意の状況―できたら出合いたくないものだが―に出合うと、いい人でも人に危害を与えたり、意地悪をしたり、暴力をふるったりしてしまうことは、歴史が証明している。

いい人にはこうした暗い側面もあるし、欠点も、数え切れないほどの矛盾もある。

しかし、まずは自分を、人々の尊敬に値する、魅力的ですばらしい生き物なのだと考えよう。

いずれ、愛されているという事実を知って劣等意識を捨てられれば、愛に基づいた関係やコミュニティをつくることができる。

もちろん、潜在能力だけでなく、人生とどうかかわっているかも評価されていい。

ありのままの自分を受け入れることは重要だが、そのままの自分でいる必要はない。

誰でも、今、この瞬間の自分とほんとうの自分との間にはギャップがあり、そのギャップを埋めようとするものだ。

身体的、感情的、精神的、社会的、道徳的、倫理的側面を発展させて、もっと役に立つ、もっと成熟した、もっと幸せな人間になりたいと、みんな一生懸命努力する。

今、あなたがこの記事を読んでいるのも、自分をもっとよく知り、もっと役に立つ人間になりたいと思うからだ。

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劣等感をぬぐいきれず、肯定的な自己像をつくれない

この評価法をひと言で言えば、人は金持ちでなくても、有名でなくても、意味ある尊い存在ということだ。

前の二つの評価法をどう使おうと、ありのままの自分、今もっている技量だけを根拠に肯定的な自分をつくることが大事だ。

人は自分で思うほど弱くも、無力でもない。

こうした調和のとれた評価ができても、すぐに劣等意識を捨て去り、自分の価値を認められないかもしれない。

だが、少なくとも、それまでの自己像がいかに歪んでいたかを知り、新しいイメージをつくりはじめることはできるだろう。

自分に責任をもち、自信をなくさせるような状況にも創造的に立ち向かう健全な性格と自信を築く基盤はできる。

また他人を尊敬するとともに自尊心も生まれ、人と対等になれるから、健全な関係が築ける。

すると気持ちが自由になり、完璧でない自分を肯定でき、がんばりすぎることもなくなる。

誰かにかけがえのない人だと思ってもらいたいために、自動的に「イエス」と言わなくてすむ。

自分がかけがえのない存在だと、自分でもわかったからだ。

きっと身近な人にこう言えるはずだ。

「生まれてはじめて、今の自分を大切にしようと思う。
あなたによくしようと思えばこそ、自分を大事にし、がんばりすぎないようにして、時間とエネルギーをとっておきたいのだ」と。

それでもまだ劣等感をぬぐいきれず、肯定的な自己像をつくれない人は多いはずだ。

あなたもその一人なら、次の三つの練習をしてみよう。

自分の強みをほめる

自分の弱さ、欠点、失敗を見ずに、自分の強みに注意を向ける。

箇条書きにもしてみよう。

たとえば、リーダーシップ、自然を愛する気持ち、美術や音楽の才能、社会問題への関心、詩心、科学的な考え方、子ども好き、生産性、ほがらかさ、忍耐力、フェアプレー精神、思慮深さ、記憶力、他人への思いやり、などなど。

自分の強みがわからないというなら、家族や恋人に聞いてみてもいい。

一カ月間、毎日、そのリストを何度も何度も口に出して言ってみよう。

自分の強みに自信がもてるようになれば、自分はノーと言うべきときにノーと言う権利も責任もある人間だとわかってくるだろう。

想像の中でノーと言う

自分が尊敬する多忙な人を思い描き、自分がその人だと想像し、頼まれごとを丁重に断っている姿を想像する。

次に同じような状況に自分がおかれたと想定し、「ノー」と断ってみる。

その場面を想像の中で何回か再生し、ノー、ノー、ノー、ノー、と繰り返す。

ノーと言ったときのいい気分を楽しんでほしい。

もし「イエス」と言っていたら、後で腹が立ち、後悔しただろう。

「イエス」を言わなかったことそのものを意識しよう。

この想像を一週間続ける。

あるいは過去の経験のなかから似たような状況を思い出し、一つひとつのケースでノー、と答えたと想像すれば、自尊心がわいてくるはずだ。

あなたの自尊心に乾杯しよう。

現実の生活でノーと言う

今度誰かに何かを頼まれたとき、ほんの少しでも嫌な気持ちやためらいがあったら、「悪いけど、だめなんだ」と言おう。

人と会うたびに、すべてにイエスと言わなくていいのだと意識して話をしよう。

もう手いっぱいなのだからノーと言おう。

健全な習慣を身につけるためにノーと言おう。

一度、きっぱり断れれば、何にでもすぐイエスと言っていた古い習慣は壊しやすくなる。

ノーと言うのはおもしろいからノーと言おう。

このところ仕事を背負い込み過ぎ、楽しいことはあまりなかった代わりに。

自尊心をもつために、つねに他人を無視し、自分を優先させ、何でも機械的にノーと言えということではない。

適度に自分を気遣うべきというだけで、言い換えれば、もっと重要なことをする予定があるから断る、という意味だ。

私的にも公的にも必要とされることはいくらでもあるが、一人の人間の時間やエネルギーには限りがある。

だから新しいことを始める前に、仕事、立場、責任をはかりにかけ、自分と周囲の人の両方を考慮に入れて、やるかどうかをよく考えることが大切だ。

自分が受け入れられていると認識し、大いなる宇宙に身をゆだね、人間として生まれたこと自体に価値があると思えれば、確固たる自己がもうすぐ築ける。

同時に、自分の価値を意識して暮らし、よりよい生活を送れれば、もっと自尊心をはぐくむことができる。

自分の価値を認めて生きるには、価値のある目標を定め、目標を実現する具体的な計画を立て、釣り合いのとれた生活を設計すればいい。

まとめ

がんばり過ぎてしまう人は、他人に受け入れられたいという欲求が根源になっている。

そういった人は、すでに受け入れられているということを自覚し、自由な心を手にすることができる。

がんばりすぎてしまう理由は幼児期に親に過保護過干渉に育てられたことが大きな要因となっているが、大人になった今、その十字架を背負う必要はなく、他人からは無条件に愛されているということを自覚しよう。

駄目な時は思い切ってノーを言ってみよう。ノーを続けることで自信が湧いてくる。