劣等感を克服できない人は何が好きで何が嫌いか分からない
劣等感を感じる人とは、他人と比較して、自分の劣っていると思う部分ばかりに意識がいってしまうことである。
自分の容姿に自信がないことや、学校でスポーツが苦手だったというものまで様々である。
そんな劣等感を感じる人が克服する心理を述べてみたい。
劣等感の心理
劣等感で悩む人は私はなんのためにここにいるの?と考えてしまう。
自分自身であるために。
劣等感を克服できない人はその肝心な自分がなんだか分からない。
だから自分自身であろうとしても、どうしてよいか分からない。
おそらく劣等感を克服できない人は親の言うままに流されてきた、世間の言うままに流されてきたのだろう。
「私は何のためにここにいるの?自分自身であるために」というような人は、流されていてもイカダの上でイワシでも捕ろうというエネルギーはある。
流されていきてきてもある時に劣等感を克服できない人は「本当の自分はどこにいる」と自己喪失に気がつく。
どうしてよいか分からない劣等感を克服できない人は、自分が何が好きで何が嫌いだか分かっていない。
よく年をとると風邪を引いても分からないという
それは体調が悪いことに慣れてしまって、好調と不調が分からなくなっているからである。
心もそれと同じで、劣等感を克服できない人は自分が今していることが好きなことなのか、嫌いなことなのか分からなくなることがある。
劣等感を克服できない人は好き嫌いの感情が鈍麻しているのである。
好き嫌いの感情は基本的な感情である。
それが分からなくなっているのは、抑圧があるからだろう。
ハーバート・フロイデンバーガーは燃え尽きる人は「間違ったボートに乗っている」と言う。
問題は、燃え尽きるような劣等感を克服できない人は、自分が「間違ったボートに乗っている」ということ自体が分からなくなっていることだろう。
間違ったボートに乗って、「イヤだなー」ということが分かれば、今、自分はどうすればいいか分かる
劣等感を克服できない人は自分が今している仕事がイヤなのか好きなのかも分からない。
今自分のいる会社が自分に適しているのか、適していないのかが分からない。
そういう劣等感を克服できない人は毎日、ただただ頑張るだけ頑張っている。
そして生きるエネルギーを失っていく。
或いは心の底では劣等感を克服できない人は「間違ったボートに乗っている」と分かっているのだけれども、それを認めない。
そういう次第に生きるエネルギーを失っていく。
エネルギーを消耗して燃え尽きてしまう劣等感を克服できない人
「自分はこの仕事に向いていない、でも生活のために働いている」、そう分かっている人はまだ幸せである。
現実否認をしていないからエネルギーはある。
そう割り切れば、毎日ただただ頑張るだけ頑張って燃え尽きていくことはない。
そういう人はただ夢中になって働いて倒れるということがない。
どこかに自分の世界を見つけようとする。
倒れるまで働かない。
燃え尽きる劣等感を克服できない人は、ただ夢中で働くだけで、限りある力の配分を考えない。
劣等感を克服できない人はどの仕事も同じようにエネルギーを使い、消耗する。
好きか嫌いかが分からないから、エネルギーの使い方が分からないのである。
ただ人に低く評価されないということだけに気を遣い、劣等感を克服できない人は自分の力の限界を考えない
そして仕事の質量が自分の力の限界を超える。
そこで劣等感を克服できない人は倒れる。
好きか嫌いかが分かれば、「この仕事では頑張るが、この仕事では低く評価されても仕方ない」という姿勢になる
劣等感を克服できない人は好きと嫌いの感情を失うと、対人的なことばかりでなく、仕事でも八方美人になる。
好きと嫌いの感情があれば、自分の世界が出来る。
しかし現実の世の中ではそうわがままが通らないから、嫌いなことをしないという訳にはいかない。
ビジネスパーソンでいえば、お金を貰う以上嫌いな仕事もしなければならない。
嫌いな人とも接しなければならない。
しかし劣等感がない人は「これは仕事」と割り切っているから、何とか毎日やり過ごせる。
その嫌いな仕事で相手に「気に入られよう」とか「高く評価されよう」などとは思わない。
たまたま相手が自分を高く評価しても、自分は相手の期待に応えられないということを十分に理解している。
相手の期待に応える力は自分にはないと承知している。
だから頑張って無理をして消耗して病気になることはない
劣等感を克服できない人は自分の世界がないと、自分に適していない仕事でも、相手から高い期待をかけられると、どうしてもそれに応えて高い評価を得ようと頑張ってしまう。
結果は燃え尽きである。
燃え尽きる劣等感を克服できない人は、周囲の人から見ると嫌いな仕事で頑張っている。
しかし本人はそれが「嫌いだ」とは分かっていない。
劣等感を克服するには、ありのままの自分で生きる
不得意を知るには、まず努力。
劣等感を克服するには自分の不得意領域を、十分に認識することは極めて大切である。
それを通して自分の長所も見えてくる。
自分の可能性にも気づく。
もし自分の長所が見えてこなければ、それは自分の「不得意領域を十分に認識」したことにはならない。
その場合、「これは自分は不得意だ」ということは単なる「逃げ」である。
「逃げ」は何ものも生み出さないばかりか、事態をいっそう悪くする
ただ「不得意領域を十分に認識」することは、それほど簡単なことではない。
劣等感を克服するにはまず始めに、とにかく努力をしていなければならない。
「ここまで苦しい努力をして、ここまで長い期間頑張って、それでもこれだけの成果しか出ない」と認識して、初めて「これは自分の不得意領域だ」と分かる。
もし自分が「鯖とリンゴとレタスが好きだ」と分かっていれば、嫌いな食べ物を食べ過ぎるということはない。
しかし劣等感を克服できない自分が何が好きで何が嫌いかが分かっていないと、テーブルに出されたものを何でもお腹がはちきれるまで食べてしまう。
好きなものと嫌いなものが分かっていれば、いつも過食になるということはない。
好きな料理を食べ過ぎるということはあっても、嫌いな料理を食べ過ぎるということはない
肥満な人の中にはお腹が空いていなくてもただ食べているということがある。
本人は劣等感を克服できない自分が今お腹が空いているか、空いていないのかが分からないのである。
劣等感を克服できない人はそこで嫌いなものでも体を壊すまで食べてしまう。
仕事でも同じである。
燃え尽きる劣等感を克服できない人は、好きな仕事も嫌いな仕事も分からないで、ただ頑張ってしまう。
自分が主役になるパーティーでも、他の誰かが主役のパーティーでも同じように振る舞う人がいる
劣等感を克服できない人はそれと似ている。
自分が今いる位置が分かっていない。
自分の位置が分かっていない劣等感を克服できない母親も恐ろしい。
チョット子どもの成績がよくなると、いきなり「〇〇大学を受けさせようと思うんです」と言い出す。
子どもは非現実的なほど高い期待をかけられて劣等感を克服できず燃え尽きる。
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劣等感を克服するには自分の適した分野で頑張ればいい
会社や家庭でなくても大学でも同じである
例えば教授の仕事には色々とある。
教育もあれば、研究もあれば、行政もある。
見ていると教育者として優れている人と、研究者として優れている人と、行政官として優れている人といる。
大学教授で心を壊すような劣等感を克服できない人は、自分がどの分野で優れていて、どの分野で自分の力を発揮するのがよいのかが分かっていない。
劣等感を克服できない人は全ての分野で評価されようとして頑張ってしまう。
そんなことが出来る訳がない。
そこで、劣等感を克服できない人は自分の内にある最善の領域に気づくことなく、その人の力の限界を超えて倒れる。
「ありのままの自分で」ということは自分の長所に注意を集中しているということである
そして幸せな劣等感がない人は、自分の長所から離れない。
最後まで自分の長所とともに生きる。
こういう劣等感がない人は人の助けを借りるのも上手い。
大学教授でいえば、仕事には教育もあれば、研究もあれば、行政もあるので、自分の不得意領域は、その得意な人に助けを求める。
こうして自分の長所を知っている劣等感がない人は自分の可能性を実現する。
歪んだ価値観があると自分の可能性を見失う。
あることに優れていなければ自分はダメな人間だと劣等感を克服できない人は錯覚してしまう。
ポイントは自分の特質が必ずしもその文化の中で高い評価を与えられていなくても、それを気にしないことである
狭い視野、歪んだ価値観があると、劣等感を克服できない人は本来の自分の長所が何なのか分からない。
心を壊すような人は他者からの期待に弱い。
そこで劣等感を克服できない人は全ての周囲の人から評価されようと頑張ってしまう。
自分の適した分野で頑張るのはいい。
多少無理をするのもよいだろう。
好きな分野とか、自分に適している分野で頑張って燃え尽きる人はいない。
劣等感から全てにおいて頑張ってしまう人は要注意
燃え尽きる人は皆、嫌いな分野や自分に適していない分野で頑張り過ぎて燃え尽きるのである
「『本当の自分』はどこにいる?」と劣等感に悩んでいる人は、一度自分には本当に好きと嫌いの感情があるのかどうかを考えてみることである。
自分は犬が好きで猫が嫌いとか、自分はあの家は好きだけど、この家は嫌いだとか、自分はあの料理は好きだけど、この料理は嫌いだとか、自分は田舎は好きだけど都会は嫌いだとか、自分は山は好きだけど海は嫌いだとか、自分は晴れの日よりも曇りの日の方が好きだとか、何でもいい、とにかく好きと嫌いの感情があるかどうかを真剣に考えることである。
「自分は誰にでもいい顔をしてしまう八方美人だ」と気がついたら、劣等感を克服できない自分は今危険な状態にあるということをまずしっかりと認識することである。
仕事でも同じである。
どんな種類の仕事でも同じように頑張ってしまうと気がついたら、劣等感を感じる自分は今危険な状態にあると思わなければならない。
今自分の乗ったボートは滝の近くまで来ていると考えた方がよい
このまま行けば滝の上に来てそのまま激流とともに滝の下に落ちてしまう。
劣等感を克服できない人がまず認識することは「自分は今心理的に参っている」ということである。
好きと嫌いの感情を失っているということは、心に問題を抱えているということである。
それは重大な感情を劣等感を克服できない人が抑圧しているということである。
つまり自分にとって重大な感情を自分に隠している。
今、意識と無意識の間に劣等感を克服できない人は大きなギャップがある。
現実の世の中で生きていく以上嫌いなことはしないという訳にはいかない。
この世の中で生きていく以上それは仕方ない
嫌いなことも義務としてキチンと果たさなければならない。
劣等感を克服できない人の問題は嫌いなことと好きな事がわからなくて、嫌いなことで頑張り過ぎるということである。
ではなぜ嫌いなことで頑張り過ぎるのか?
それは人から劣等感を感じてしまう人は評価してもらいたいからである。
認めてもらいたいからである。
もしかすると劣等感を感じてしまうあなたは「全て嫌い」と言った方が正しいかもしれない。
しかし「嫌い」という意識もない。
それは好きな事がないからである。
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劣等感を克服するには嫌いなことを整理しよう
今あなたにとって大切なことは、好きと嫌いの感情を回復して、嫌いなことを整理していくことである
例えば「これは義務としてしなければならない」とか「これは人から高く評価されたくて引き受けたことだから今度は止める」とか「これは今の自分の体力では無理だから事情を説明して断わる」などである。
劣等感を克服するにはそのように整理すると不思議なことに心も落ち着いてくる。
仕事が整理できていないと、心も落ち着きを失う。
燃え尽きる劣等感を感じる人は引き受けなくてもよい、嫌いな仕事を引き受けすぎている。
そこまでしなくてもよいというほど嫌いな仕事を劣等感を感じる人は熱心にし過ぎている。
それも人から高く評価されるのが嬉しいからである。
劣等感を感じる人は認められるのが嬉しいからである。
その心の弱さを乗り越えない限り、劣等感を感じる人は「『本当の自分』はどこにいる?」といくら悩んでも、明日はない。
「自分探し」の成功者は、他人から満足を供給されていない人。
もともと燃え尽きる人は心優しい人である
劣等感を感じる人が断われないのは、人から高く評価されたいという点はあるが、それ以外に「相手に悪い」という純粋な気持ちもある。
そこが優しさである。
しかし残念ながら相手は、燃え尽きる劣等感を克服できない人をそれほどまでに重んじていない。
だから自分の心と体を守るために劣等感を感じる人は、自分はどれとどれを断わり、どれとどれを引き受けるのかという優先順位をつけることである。
世の中には何でもかんでも自分の事情を押し付ける身勝手な人がいる。
逆に何でもかんでも譲ってしまう人がいる
後者が燃え尽きる劣等感を感じる人である。
もちろん前者も後者も心理的に健康な人ではない。
心理的に健康な人は自分の事情を説明する。
そして劣等感がない人は断わることは断わる。
或いは劣等感を感じる人は自分の力で引き受けられるような条件にして引き受ける。
好きと嫌いの感情がないと、断わるか引き受けるかの判断基準が出来ない
ラーメンもウナギもカレーライスも焼肉もみんな食べてお腹を壊したのが燃え尽きた人である。
劣等感を克服できない人はしかも美味しいと思って食べたものが一つもない。
好きとか嫌いとかの感情があれば、相手に「こうしてくれ」と言える。
好きとか嫌いとかの感情がなければ劣等感を感じる人は、それが言えない。
そこで相手に不満になる。
好きとか嫌いとかの感情がなくて不安な劣等感を克服できない人は、まず心理的な安定を求める。
そして喧嘩をしないことを劣等感を感じる人は選ぶ。
喧嘩をしなければいつまでも不満が続いて、リラックスは出来ない。
好きとか嫌いとかの感情がない劣等感を克服できない人は、淋しさと不満という選択肢の中で不満を選ぶ。
だからいつも不満である。
劣等感から同時に色々なことをしている
「自分探し症候群」の人は同時に色々なことをしていることが多い。
劣等感を克服できない人は自分の長所にきがついていないから、やるべきことの焦点がしぼれていない。
同時にいくつかのことに取り掛かれば、出来ることと、出来ないことが出てくるのは当然。
「自分探し症候群」の劣等感を感じる人は時間をかけて、一つ一つのことをかたづけていくことがない。
地道に何かを成し遂げていくということが劣等感を感じる人はない。
一つのことを長く続けていると、見ようとしなくても周りが見えてくる。
「自分探し症候群」の劣等感を克服できない人は一つのことが終わらないうちにまた新しいことを始める。
しかも劣等感を感じる人は失敗から何も学ばない。
失敗を悔いているのは止まっているのと同じ
劣等感を克服できない人は今度はキチンと準備期間をとって仕事を始めようと思わない。
どのような仕事が自分に向いているのだろうかと考えない。
失敗が自分の長所を発見する機会に劣等感を感じる人はならない。
すぐに不動産屋を始めてしまう。
こういう人を見ていると、人から学ぶという態度がない。
人の話を劣等感を感じる人は聞かない。
身の程を劣等感を感じる人はわきまえていない。
その人にふさわしくないことを始めてしまう
そこで借金を作り、周囲の人に迷惑をかける。
劣等感を克服できない人は「身の程」とか、「今の自分の能力からみて何がふさわしいか」が分からない。
現実の自分の可能性を劣等感を感じる人は追求する機会がなくなる。
色々な事をするのだが、一つ一つが身に付いていかない。
何をしても劣等感を感じる人はそれが心の中で足跡となって残らない。
だから「自分探し症候群」の劣等感を克服できない人には、しみじみとした思い出がない。
体験の中で心が動いていない
感動がない。
劣等感を克服できない人は生きるのが苦しい。
選ぶことは出来るが劣等感を感じる人は、捨てることは出来ない。
そこで悩む。
「不得意なことに意識が奪われてしまう」
時に不得意領域に劣等感を感じる人は意識が囚われてしまう。
ただ一人で全ての能力を持っている人はいない
初めから100点の人はいない。
劣等感を克服できない人はそういう能力を自分に求めると「自分探し」の道を誤る。
生きることが、生きていないことになる。
このように不得意領域を持っていることを認めたがらない劣等感を克服できない人の不利益はなんであろうか?
それはどこにもエネルギーの焦点を当てられないということである。
人には得意なことと、不得意なこととがある。
それなのに完全であろうとすれば、自分の不得意領域を克服することにエネルギーを奪われる
劣等感を克服できない人はどうしても不得意領域が意識の焦点となる。
不得意領域に気を奪われる。
結果として劣等感は深刻になる。
例えば自分に適さない職業についてしまう。
そういう自分がついてはいけない職業に劣等感を感じる人はついてしまう危険がある。
それは相手に劣等感を感じる人は「私はこんなに有能な人です」と自分を売り込もうとするからである。
自分は「この分野でも」人に負けないということを証明しようとする
劣等感が深刻だと私達は自分ではないものになろうと努力してしまう。
ますます劣等感を感じる人は自分を信じられなくなり、ますます無理をするようになる。
「不得意なことを得意にする必要はない」と『ブレイン・スタイル』の著者マーレーン・ミラーは述べている。
芸術家が「事務職をしろ」と言われたら、全然ダメだろう。
不得意領域に意識が囚われてしまう劣等感を克服できない人は自分の能力の素晴らしさに、気がついていない。
不得意なことで頑張っている劣等感を克服できない人は、自分の得意なことは価値がないと、人生のどこかで誰かに思い込まされている。
それが歪んだ価値観である。
「目的を持ち、努力をする」ということが常に正しい訳ではない。
あくまでも劣等感を感じる人は自分にふさわしい目的を持つことが前提である。
「その領域は自分が得意ではないということを理解することで、あなたは際限もなく成長していける。
ある特定の分野で自分より勝る人と不当に競争しなくてはならないことがある。
劣等感を克服するにはそんな競争を止めることである。
人の得意分野を侵そうとしていた努力をやめると、あなたは即座に安堵感を覚えることだろう。
あなたは自分自身に対してもっと辛抱強くなる。
あなたの本当の才能を他人に評価してもらったり認めてもらう必要はもうない。
もう皆を喜ばせようとするのはやめ、あなたが本当に捧げられるものを皆に教えてあげよう」
自分は「これが出来ない」ということを分かることで、劣等感を克服でき、自分のアイデンティティーが確立していく。
「私はこれが出来ない」と分かることで、劣等感を克服でき、自分のアイデンティティーが確立していく。
「私はこれが出来ない」と分かることで自己限定が出来る。
そこで社会の中で生きていることが苦しくなる
さらに言えば「これが出来ない」より「これが嫌い」の方が大切。
好きなものがあれば、劣等感を克服でき、強迫的に名誉を求めない。
不安から劣等感を克服しようとすることを止める。
劣等感を克服するには得意分野に特化することである。