親が子どもの境界を尊重せず、境界に侵入するとき、子どもには一人の人間としての価値がないというメッセージを与えていることになります。
親が子どもの境界を認めないということは、「あなたは親である私のニーズを満たすためにここにいる」「あなたより親の私が優先だ」あるいは「あなたが自分なりの感情や、ニーズを感じるのはよくないこと」というメッセージを与えているのと同じです。
そしてそこには、他人の求めに応じて自分を放棄せよという意味も含まれているのです。
すると子どもの中でこんな信念が形づくられます。
「人とは別のニーズや感情を抱いてしまう私はいかないんだ」
「ありのままの私には、価値がない」。
同じような場面を体験をしても、子どもの中にしっかりした境界が作られていれば、体験の意味はまったく違ってきます。
つまり、誰が何に責任を負うのかが区別できれば、自分を傷つけるメッセージを信じ込むかわりに、拒否することができるのです。
境界があれば、自己否定感の攻撃を受けずにすむ
次に登場する若い女性、サンディは、アルコール依存症の親のもとで育ったものの、幼い頃の数年はある程度安定した暮らしを経験しています。
そのため、自分の中に健康な境界を築けていました。
「私が八歳になるまで、家の中はうまくいっていたんです。私は大事にされていると感じていたし、毎日が楽しかった。
それがまるで一夜にして変わってしまったみたいに、父は怒ってばかりいるようになりました。
母は父の酒のことばかり心配して、心ここにあらず。
父も母も、もう子どものことなどどうでもいいみたいでした」
十六歳のある夜、彼女はチアリーダーとしてバスケットの試合を応援していたのですが、そこへ酔っぱらった父親が千鳥足で姿を現して、アフリカ系アメリカ人のティーンエージャーたちにむかって人種偏見の悪口を叫び始めました。
「今まで父からも、誰からも聞いたことのないような、ひどい言葉だったんです。
放っておいたら父があの子たちから袋叩きにされるだけじゃなく、人種暴動にもなりかねないと怖くなりました。
だから私は、とにかく父を外に連れ出して仲間の車に押し込んで、帰らせました。
父がどうしてあんなことしたのかわからなかった。
すごく頭にきてました」
サンディは健康な境界を持っていたからこそ、父親の行動に怒りを感じることができたし、有効な対処ができたのです。
彼女は「私がおかしいんだ」という自己否定感を取り込んではいなかったので、体育館で起こったことは父親のもんだいであり、彼女の問題ではないという明確な区別が出来ました。
この事件を彼女自身の存在価値に関わるものとは受け取らなかったから、自分自身の感情をキャッチすることもできました。
強い自己否定感に襲われると、私たちは他の感情に気づくことができなくなるのです。
もしも境界がなければ、サンディはその場に居たたまれず姿を消し、チアリーダーもやめてしまったかもしれません。
サンディは、怒りを感じ、それから悲しくなったと話します。
彼女は自分の怖れを言葉にすることもできました。
この場面で起きたことは父親からの見捨てられ体験には違いありませんが、それでも彼女は自分の価値と自立とを守ったのです。
境界がないと、見捨てられ体験は決定的な痛みを生む
一方、リンダの場合、彼女が生まれたときにはすでに家族はめちゃくちゃで、不安な毎日を送っていました。
アダルトチルドレンの彼女の最初の記憶は、両親が言い争いをしているのを聞きながら台所のテーブルの陰に隠れて「どうか見つかりませんように」と心の中でつぶやいていたことです。
アダルトチルドレンの彼女はしじゅう、自分の気配を消そうとしていました。
「私の家族には争いのタネがあふれていて、不幸ばかりで、それに何度もあちこちに引っ越していました。
私は四人きょうだいの末っ子で、間違って妊娠して生まれた子だったんです。
私がとても小さな頃から、母は私に、子どもは三人でたくさんだった、四人もいらなかったのにと話して聞かせました。
私は自分を傷つける言葉と視線を浴び続けて、身を守るための盾が必要な気分でした」
アダルトチルドレンのリンダのように子ども時代を生き延びるだけで必死だったとしたら、自主性や、他人とは別の自分という感覚を育てる余力はほとんど残されていません。
アダルトチルドレンのリンダはいつも見捨てられていて、感情の境界の侵害にさらされ、その結果「私はいてはいけない存在だ」という恥に満ちた自己否定感を体験し、それを心に焼き付けたのです。
子どもはもともと、親が間違っているとか、親の行動は正しくないといったようには考えないものです。
子どもは、自分にとってどうしても必要な存在である親を拒否することはできないのです。
その代わり子どもは、自分が間違っていて、悪いんだという重荷を背負い込みます。
そうすることで、親の誤った行動をなかったことにし、少しでも安全を感じようとするのです。
その奥で本当は何が起こっているかといえば、外側の安全と引き換えに、心を危険にさらしているのです。
自分の価値を育てていくはずの時期に、見捨てられ体験にさらされ、しかもその子が自分の中に境界を確立するチャンスがなければ、見捨てられたことがすなわち「自分に価値が無い」と言い聞かされることと同じになるのです。
それは自己否定感と、怖れをつくり出します。
この事実は、何度も確認しておく必要があります。
なぜならそれが私たちの痛みの根っことなっているからです。
私たちが今、知っておかなければならないのは、見捨てられ体験も境界の侵害も、決して私たちの欠点が原因ではないし私たちが無価値だからでもないということです。
そうではなく、私たちを傷つけた人の間違った考え方や、誤った信念、不健康な行動がそこに現れているのです。
その傷は子どもの心と思考に深く刻まれて、私たちは今もその痛みを感じています。
癒されるためには、心が傷ついた原因を理解し、受け入れることが必要です。
それをしない限り、痛みは去らず、おとなになってからの人生を引きずりまわすものとなるのです。