かつて、自慢話をする人は自分の強さを示しているのではなく、自分の弱さを示しているのだと述べた。
自慢話と同様に”うぬぼれ”ることも、その人の弱さを示している。
うぬぼれている人間は自己嫌悪の強い人であろう。
「対人恐怖の人間学」(内沼幸雄著)に”うぬぼれ”について触れているところがある。
それによると”うぬ”とは自己のことであり、”うぬぼれ”とは自己に惚れていることとある。
また、うぬぼれている人には自己満足がつきものだが、対人恐怖症、社交不安障害の人は、うぬぼれていながら、完全に自己に満足していない人間のことであるという。
対人恐怖症、社交不安障害の人は、完全にうぬぼれていないというよりも、むしろ不安に対して自分をどう維持したらよいかわからないまま、うぬぼれているのである。
自分の心理的不安を抑えるための手段の一つが”うぬぼれ”なのであろう。だからこそ、うぬぼれていながら、完全にうぬぼれきれないのである。
うぬぼれる動機が、自己に惚れていることなら、完全にうぬぼれることもできるのであろうが、動機が不安なのだから、うぬぼれきることができないのである。
他人を非難する時、その人を本当に避難している時もある。
しかしまた、自己の無価値感から自己を回復する意図をもって他人を非難している時もある。
他人を称賛する時も同じことである。
”うぬぼれ”も同じである。
したがって”うぬぼれ”は自己の弱さを示しているにすぎないのである。
うぬぼれている人間は、心の底では自分は大したことはないと自分に失望している。
自分の無価値感から必死に目をそらしている。
自分はダメな人間だという感じ方を意思の力で無意識へと追いやっているのである。
うぬぼれている人間を観察してみるがいい。
たいてい人間関係が希薄である。
うぬぼれている人間は、惚れている自己の方に重きを置き、現実を無視するとある。
そのとおりであるが、さらに言えば現実を直視することができないということであろう。
つまり、現実を直視すると自分が傷ついてしまう。
現実を直視するとは、抑圧しないということである。
うぬぼれている人は自分の心が傷つかないようにするためには、現実を無視せざるをえないのである。
対人恐怖症、社交不安障害の人は、他者との関係で常に挫折を味わう。
しかし、何度挫折を味わっても、その挫折を認めることができず、そのたびに非現実的な自己の価値を高めていく。
自分の挫折を心から認めることが問題の根本的解決策であるのに、それができない。
そしていよいよ「あいつらは何もわかっていないんだ」とか、例によって他人の批判を始める。
そして、その方法の中で、自分たち独特の生きる態度を身に着けていく。独特の良心、独特の価値観、独特の者の言い回しというように、独特の考え方から、ついには独特の動作にまで至ってしまう。
そしていよいよ現実の他人との断絶を深めていく。
それが先に行った、うぬぼれている人は人間関係が希薄である、と言うことである。
対人恐怖症、社交不安障害を克服するには自分の挫折を心から認めることである。