「居場所」という言葉を最近よく聞くようになりました。
少なくとも30年前ごろには滅多に聞かなかった言葉のように思います。
このごろでは、居場所がないということが、深刻な悩みの一つとして語られるようにもなりました。
「不登校児の居場所づくり」「会社をリタイアした男性の居場所づくり」など、「居場所づくり」は、行政やNPOの課題にもなっています。
「居場所づくり」という場合、そこには物理的な側面と精神的な側面があるでしょう。
「毎日通える場所がある」という物理的な側面だけで、居場所があるととらえる人もいます。
しかし、より重要なのは、精神的な側面ではないでしょうか。
たしかに、物理的に「いる場所」はあるけれども、そこになじめない、自分が疎外されているように感じる、というケースも、決して少なくはないのだと思います。
本来くつろげる場所であるはずの家なのに、妻と娘たちばかりが女性の話題で盛り上がっていて、家庭を経済的に支えている大黒柱であるはずの自分だけがなんとなく疎外されているように感じる。
こんなときも、自宅を「居場所」と感じられていないかもしれません。
職場にいたほうが、あるいはスマホにでも没頭していたほうが、よほど「居場所」を感じられる、という人も多いのではないでしょうか。
リビングには居場所を感じられず、自分の部屋に閉じこもって好きなことをしていたほうがよいという人もいると思います。
また、「パーティが苦手」という人も少なくないでしょう。
なんとなく自分だけが浮いている感じ。
他の人は楽しそうに話しているのに、自分だけは話し相手がいない。
声をかけてくれる人はいても、表面的な話だけで、相手はそわそわと次の人との会話に移っていく。
自分からはなかなか人に声をかけられず、どのように時間を過ごしたらよいかわからない感じ。
人から見たらこんな自分は社交下手のつまらない人間に見えるのだろうな、という思い。
そんな状況も、居場所がないとして感じられます。
職場でも、上司から嫌われて、他の人にも相手にしてもらえないというようなとき。
これも居場所がないの一つの例です。
自分のデスクがあるという意味では物理的な居場所はあるのですが、精神的には居場所がないということになってしまうと思います。
ここでは、そうした精神的な居場所がないに注目して、その正体は何なのか、どういうふうにすればどこでも自分の「居場所」にしてくつろいでいけるのか、ということを考えていきたいと思います。
ワークショップから発見できること
この大きなテーマを考えるにあたって、大変参考になる話から始めます。
「自分の心のやすらぎ」を唯一の目標として、それぞれが自分の心の姿勢に取り組む活動の仲間たちと、「居場所がないを手放すワークショップ」があります。
そこで一番参考になった感想が、「今日は居場所がないを感じなかった」というものでした(念のため申し上げておきますと、ワークショップに参加した人の一部はすでに知り合っていましたが、全く知り合いがいない、という人も多く参加していました)。
そんな感想が聞かれたのは、テーマが明らかで、それぞれが「居場所がないをなんとかしたい」という意欲を持って参加した場だから、と簡単に言ってようのでしょうか。
それは違うと思われます。
学校だろうと職場だろうと、趣味の場だろうと、パーティだろうと、一応そこにはテーマや目的がある場合が多く、そのテーマに合った意欲を持って人が参加していることに変わりはないからです。
では、なぜ居場所がないをテーマとしたワークショップの場合だけは特別だったのでしょうか。
あるいは、他にもそんな、居場所がないを感じない場があるのでしょうか。
そのためには、どういう条件が必要なのでしょうか。
ワークショップについて言えば、その鍵は、テーマそのものにあるのではなく、ワークショップのつくりにあると言えます。
その一つは「安全」ということ。
安全な場は、どんな人のこともリラックスさせる効果があります。
つまり、安全な場であることが自分にとっても周りの人にとっても「居場所」を感じる前提条件なのです。
一方、安全でない場、危険な場では、人はどのように反応するのでしょうか。
人間は動物です。
ですから、動物としての原始的な反応もいろいろと備わっています。
危険な場に遭遇すると、「逃げるか、闘うか、固まるか」(flight,fight,or freeze)という反応が、動物として起こってきます。
本格的に殴り返す人は少ないと思いますが、「正論」で言い返したり自己正当化したりする、という「闘い」はたくさん見聞きしますし、それが正しいことだと教えられている人もいるでしょう。
それらが心の中だけの反応であっても、同じことです。
闘っているときは「居場所」どころではありません。
そして他の二つの反応「逃げたくなる」「心を閉ざす」もやはり、居場所がないにつながるものです。
さて、「危険」というと、まず思いつくのは暴力行為などでしょう。
しかし、暴力がないからといって、それが「安全」な場とは限りません。
精神的に「安全」を感じられるかどうかが大きなテーマなのです。
精神的に「安全」を感じられない例としては、「あの人たちに会うと、『あなた、それじゃだめよ』などと上から目線で言われるから嫌だ」「どうして〇〇しないの?』とうるさくアドバイスされるから嫌」などということもあるでしょう。
あるいは、明らかな攻撃を受けるわけでなくても、他の人たちだけで団結していて、自分一人が疎外されている、というような場合にも精神的な「安全」は感じられないはずです。
この究極の形が「いじめ」なのでしょう。
「安全」が「居場所」を感じるための前提条件であることはわかりやすいと思います。
しかし、もっと本質的に重要なことがあります。
実は居場所がないを感じるときの私たちは、「自己受容」ができていないもの。
「自分はこのままでよいのだ」と思えないので「自分はここにいてはいけないのではないか」「自分はこの場にそぐわないのだ」などと意識してしまうのです。
人から与えられる「居場所」では、解消されない
ところで、居場所がないという表現は、限りなく受動的なものを感じさせませんか?
「どうせこんな私のことなんて、誰も気にかけていないでしょう」「どうせこんな私がいなくても誰も困らないでしょう。気づきさえしないのでしょう」という雰囲気がつきまとうからです。
誰かが自分の存在を気にかけてくれたり、すごしやすい空間を作ってくれたりすれば、「居場所」を感じられるはず、と思っているのかもしれません。
もちろんそういうケースもあると思います。
たまたま心の温かい誰かが、「ここにいていいんだよ」という雰囲気を与えてくれるかもしれません(ご紹介した居場所がないのワークショップも、そういう意味では過ごしやすい空間だったでしょう)。
しかし、これまた、その誰かが現れるかどうか、安全な場を提供してもらえるのか、という受動的な話です。
宝くじの当選を待つようなものかもしれません。
そして、ある場で「なじめた」と思えても、別のところでは通用しません。
また居場所がないを感じながら、それを解消してくれる誰かを待つ、ということになってしまうでしょう。
これでは本当の意味で「居場所」問題が解決したとは言えません。
基本的には常に居場所がないがあって、そこから救ってくれる誰かを待つ・・・というのはとても無力なことです。
実は、居場所がないを本当の意味で改善できるのは、自分しかいないのです。
このあたりはとても本質的で大切なことです。
すでに触れましたが、「居場所」のキーワードは「安全」「自己受容」です。
これは、奇跡的に人から与えられることもありますが、自分でつくるほうが簡単です。
いつでも、その気になればつくれるのです。
そして、精神的な居場所がないが消えれば、物理的な「居場所」も増やしていくことができます。
居場所とは自分の中にある
居場所がないとは、まるで「居場所」の有無を他人が決めているような感覚です。
だから周りをチラチラ気にして、「自分はここにいてよいのだろうか」と不安に思ったりするのです。
しかし、それをひっくり返そうというのが、趣旨です。
「自分はここにいてよいのだろうか」というのは、とても無力な感覚です。
自分の価値を完全に他人にゆだねてしまっているからです。
そんな体験を繰り返していったら、メンタルを患ってしまうことになっても仕方がありません。
しかし、「居場所」は人から与えられるものではなく、自分でつくるものなのです。
「居場所」感と「自己受容」は実は同じものだと言えると思いますが、「自己受容」も、誰かからお墨付きをもらうのではなく、自分でするものです。
居場所がないと思うとき、私たちの目は外部に向けられがちですが、実はそんなときこそ、自分の心の中をしっかりと見る必要があるのです。
さらに踏み込んで言えば、「居場所」とは、「心の平和(やすらぎ)」のことであって、それを唯一の目標にして物事や対人関係に取り組んでいけば、居場所がないは軽減されるはずです。
まとめれば、「自己受容」のためには、ありのままの相手を受容すること(相手に「居場所」を与えること)、知らない相手や目に見えない相手にも小さなことでよいから与えること、「今」に生きること、など、「自分」と関係のないところで果たすことができる、と言えます。
また、自分に目を向けたときにも、何ごとにもプロセスがあるのだ、ということを考えれば、「今はこれでよい」と思えるはずです。
「自己受容」が足りない自分を責めたりすることなく、「今はこれでよい。必要な変化はプロセスの中で考えていこう」と思えればよいのです。
そんなふうに自己受容することが、居場所がないを解消していきます。